あぁ、そうか。縁の切り札はこっちのほうだったのだ――。さすがの尾崎も縁が言わんとしていることが分かった。第三の事件で発生したイレギュラー。それを引き起こすことができたのは、ただ一人しかいなかったのである。


「先生、貴方はあの時、電話に出るために席を外していましたよね? だから、安野警部が名前の間違えを指摘したことも知らなかったし、ミサトさんの本名がではなくであることを知り得なかった。そして、彼女が配った名刺は新調したばかりで、それを受け取ったのは私達に限定されています。つまり、彼女の名前が左右対称であると間違えることができたのは、新しい名刺を受け取っておきながら、そこに書かれた名前の漢字が、実際の漢字と異なることを知らなかった人間――。たまたま席を外していて、安野警部が指摘した時に居合わせることができなかった先生に限られるんですよ」


 縁がはっきりと言い切ると、明らかに周囲の空気が変わったような気がした。これまでは辛うじて言い逃れをしてきたが、こればかりは言い逃れをしようがない。第三の事件にて発生していた勘違い。その勘違いをすることができたのは――先生しかいないのだ。


 これは確実なる決定打。これは覆すことができないだろう。縁と先生の間で行われていた、架空上でのチェスは、見事なまでに縁がチェックメイトを決め、次の一手を打てない状況にまで先生を追い込んだ。


「改めて、署のほうでお話を伺いましょうか。ご同行――願えますよね?」


 先生はうつむくと、言葉を完全に失ってしまったのであろう。まんじりともせずに黙り込む。しかし、しばらくすると大きく溜め息を漏らし、そして髪の毛をかきあげながら顔を上げた。


「どうして? 私は何も悪いことなんてしていないのに――。玄関口で靴が揃えられていなければ、それを直すのが普通でしょう? 部屋が散らかっていたら、綺麗に片付けるでしょう? それと同じじゃない。私のしたことって、こんなに大ごとになるようなことなの?」


 笑っていた――。どんな表情を見せるのかと思ったら、彼女は笑っていた。自分のやったことの重大さも理解できず、またそれに対する罪悪感も一切ないように見える。


「罪もない三人もの人間を殺害しているんです。これで大ごとにならないと思っているほうが、どうかしています」


 その態度に、縁の視線がさらに鋭くなった。別に暴れ出すわけではないし、こちらに危害を加えようとするわけではない。静かに狂っている――そう表現するのがしっくりくるだろう。


「常識なの――。左右が対称的に美しいものは、その身なりも左右対称でなければならない。うっかりとして、その整合性が崩れるのは、まだいい。でも、自分から乱すなんて非常識なことを許せるわけがないの」


 先生はわけの分からないことを言い出す。それは明らかに、一般的な常識からは逸脱した、彼女だけの常識だった。尾崎は先生のほうをまじまじと見つめ、そして背筋がひやりとした。口調は冷静ながらも、その目は恐ろしいほどに血走っている。それどころか、唇の端からは、たらりとよだれが垂れる。


「だからね、私が正したの。間違いは正してやらなければならない。曲がったものを正すには――もう、食べるしかないじゃない? これくらい小学生だって知ってる常識よ」


 いいや、知らない。そんな頭のおかしな常識など、小学生どころか大人だって知らない。むしろ、それを常識として認識しているのは――捻じ曲がった異常な考えが正しいと思っているのは、先生こと中谷美華だけであろう。


「とにかく、その辺りの御託も署のほうで伺おうか。人を殺したら罪になる。それこそ、小学生だって知ってる常識だ」


 安野が拳銃を構えながら前に出る。もはや、先生の反応は自供と捉えても問題ないだろう。もっとも、自供などなくとも、ロジックの面で縁が完全に先生を追い詰めており、もはや先生が犯人であることに疑いの余地もないのだが。


「お、お、お、お、おっ! おかしくなーい? 私は何ひとつ間違ったことをやっていないし、むしろ間違いを正してやっただけじゃなーい」


 ある種の開き直りというやつなのであろうが、どうやら本人の理性が飛びつつあるらしい。吃音症とやらが顔を覗かせ始めた。


「もう、その考え方自体がおかしいんです。それさえも自覚がないのなら、もうどうしようもない。貴方は認めないでしょうけど、はっきりと言っておきます」


 縁はそこで大きく溜め息を漏らし、そして異常なほどに目を泳がせる先生に向かって、こう言い放った。


「貴方は狂ってる――。もはや、話し合う余地もなければ、互いに歩み寄る必要もない。何が悪いのかさえ分からないまま、理不尽に裁かれなさい。それが貴方にとって何よりの薬になる。もっとも、永遠に効くことのない薬でしょうけど」


 縁の一言に先生がぴたりと動きを止め、そしてうなだれる。どうやら観念したようだ。逮捕令状などはないし、現行犯というわけでもないが、とにもかくにも同行は促せることだろう。


 ぞわり――。先生が顔を上げた時のことだった。全身の毛が総毛立つかのような感覚に囚われた尾崎は、無意識のうちに床を蹴っていた。ほんの一瞬のできごとであり、ここまでの反応ができたことは、正直自分でも信じられなかった。ゆっくりと時が流れる景色の中で、先生が両手を上げて縁に襲いかかろうとしていた。先に動いていた尾崎は懐に入り込み、縁の首筋を狙っていた先生の腕を払いのける。


「手錠っす! 誰か手錠を持ってねぇっすか?」


 生憎なことに――というか、実に間抜けな話になってしまうのであるが、尾崎は手錠を持っていない。言い訳をするつもりなく、単純に携帯していなかったというだけの話だ。尾崎に腕を払いのけられた先生は、しかしひるむ様子もなく、麻田を突き飛ばしてゲストルームから飛び出した。あまりに突然のことで迷いが生じてしまったのか、引き金を絞れなかった安野が舌打ちをする。


「追うっす! あの人――何を仕出かすか分からねぇっすよ!」


 これは尾崎の直感だった。そして、縁が拳銃などというものを持ち出した理由も理解できた。先生の中にはどう猛な獣が住んでいる。それこそ、華奢な体からは想像できないような恐ろしい獣が。刑事に憧れ、そして多少なりとも武術の心得のある尾崎だからこそ分かったことなのかもしれない。言葉では説明できないのだが、試合などで対峙した相手を見ただけで、自分にはどうにも敵わない相手だと確信してしまうことがある。正に尾崎は、その感覚を先生から受けたのだ。


 団子になるかのごとく、縁、尾崎、麻田、安野――と、ゲストルームを飛び出した。先生の後ろ姿が廊下のほうへと消える。尾崎はさらに力強く床を蹴った。ここで見失ってしまうわけにはいかない。


 幸いなことに、先生は化け物じみた脚の速さを持っているわけでもなく、その後ろ姿を追い続けることはできた。ふっと、先生は進行方向を変えると、個室らしき扉の中へと飛び込んだ。


「麻田、俺達は外に向かうぞ! 窓から逃げられたら堪ったもんじゃない!」


 安野の号令で、その本人と麻田が離脱。縁と尾崎とは逆方向に向かって走り出した。振り返ってそれを確認すると、到着した扉の前で縁とアイコンタクトをとった。


 この中に――いる。三人もの人間を殺害した凶悪猟奇殺人犯が。辺りに漂う緊張感に既視感を覚え、それがなんであるかすぐに把握する。この雰囲気――坂田の独房を訪れる時と酷似している。殺人鬼が持つ独特の空気が、このような奇妙な緊張感を生み出しているのだろうか。

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