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 思っていた以上に被害は甚大だった。人としての尊厳を奪われ、スクラップであるかのごとく積み上げられてしまった遺体。それを気にも留めない様子のラバーマスク軍団。食堂の床は血の海であるし、いたるところに血痕も飛び散っている。こんな劣悪な環境で拘束されることになった職員がかわいそうでならない。


 ――どうするべきか。倉科は通気口から一度離れて考える。通気口自体は、壊そうと思えば壊せないものではないだろうし、位置的に見ても飛び降りれないほどの高さにあるわけでもない。やろうと思えば通気口から食堂へと飛び込むことはできる。ただ、相手の人数からして、倉科一人で太刀打ちできる人数ではない。下手に飛び込んだところで、部屋の隅に積み上げられた集合体の仲間入りを果たすだけだ。


 どうにもできない――。倉科が出した結論はこれだった。通気口を隔てた先では、この世のものとは思えない事態が起きている。本当ならば、今すぐにでもどうにかしてやりたい。けれども、それはあくまでも理想。武器を所持している十数人を相手に一人で立ち回るなんて、命知らずもいいところだ。その辺りのことくらいは、さすがにわきまえている。


 倉科は後ろ髪を引かれる思いで、その場から離れることにした。もう少し様子を伺っていたかったが、倉科が一人で飛び込んでどうにかなるような状況へと好転するとは思えない。それならば、一刻も早く他の出口を探し出して、別の角度からのアプローチを試みたほうがいい。結局のところ言い訳になってしまうのかもしれないが、敵の本拠地となっている食堂に飛び込むことは、あまりにもリスクが高すぎる。急がば回れ――とまではいかないが、慎重に事を運んだほうが賢いであろう。


 倉科が下した判断が正しかったのか否か。状況的に考えれば、間違いなく正解なのであろうが、しかし食堂で拘束されている職員達を裏切ったような気がして、素直に正解だったと思えなかった。せっかく助けに来たというのに、なんとも情けない。もっとも、これだけのことが起きているのに、救援ひとつ出すにも協議が必要となる国に問題がある。機密を押し通すのであれば、有事の際の対処法や仕組みなどを、もっとしっかり構築しておくべきだったのだ。まぁ、今となっては完全に後の祭りだが。


 ――こうして、再び迷宮探索へと逆戻りすることになった倉科であったが、しばらくもしないうちに自分の判断が絶対的に正解だったと確信した。少し進んだところで、また通気口を発見したのだ。


 少し進んだところといっても、右に左へと折れてみたり、スロープを下ってみたりしたから、距離的には直近という意味ではない。この通気ダクトという名の通路に足を踏み入れてから、最初の通気口を見つけるまでに時間がかかったせいで、次の通気口を見つけるまでの間隔が短く思えただけなのかもしれない。なんにせよ、ペンライトの明かりが心許ないせいか、光が漏れ出しているのを見ると安心する。今度は当たり障りのない場所であって欲しいものだが。


 倉科は祈るようにして通気口を覗き込んだ。その祈りが通じたのか、通気口の向こう側はどこぞの通路のようだった。アンダープリズンはどこかしこもコンクリート剥き出しの同じような景色であるし、倉科自身もアンダープリズンの全体像を把握しているわけではないから、どこの通路なのかまでは分からない。現状で分かることは、さっきのラバーマスク軍団はもちろんのこと、そもそも人の気配がないことのみ。どこに出るのかは分からないが、ここならば降りても問題はなさそうだった。


 倉科は通気口に被せられている格子状のカバーへと手を伸ばす。簡単に外れるものだとばかり思っていたのだが、しかし押しても引いても外れてくれない。ぐらぐらと動きはするのだが、外れそうで外れない。実にもどかしい。


 しばらく考えた後、一度はホルスターへと収めた拳銃を引き抜いた。いっそのことカバーを撃ち抜いてやろうかと思ったのだが、中身が模擬弾であるし、跳弾して自分に当たってしまったら笑い話にもならない。結局、グリップの底をカバーに打ち当ててみることにした。カバーそのものは、かなりぐらついているし、何度か衝撃を与えれば外れてくれるだろう。そこまで考えておきながら、しかし倉科は振りかぶった拳銃を下ろす。


 カバーに衝撃を与える――もっと正確に言うのであれば、グリップの底をカバーに打ち当てる。すると、どうしても音が出てしまう。しかも、一撃で外れてくれれば良いが、何度か衝撃を与えても外れない恐れだってある。通気口から覗いた限りでは人の気配はなかったが、下手に音を出すのは危険なのではないか。万が一にも解放軍に聞かれ、駆け付けられてしまったら目も当てられない。


 どうしたものか――。そこで倉科はあることを思いつく。ふと腕時計に視線を落とすと午後五時半になろうというところだった。体感的にはそこまで時間の経過は感じていなかったのだが、思っているよりも長い時間、この通気ダクト内をさまよっていたようだ。ただ、今の倉科にとって、このタイミングは願ってもないものだった。多少待つ必要があると思っていたのだが、正しくベストタイミングだったのだから。


 倉科の記憶が正しければ、もうしばらくすると終業のチャイムが流れるはずだった。そのチャイムが流れている間ならば、多少の音を立ててもごまかせるかもしれない。そう考えたのである。


 案の定、しばらくもしないうちに、どこからともなくメロディーが流れ始めた。それは、たまにしかここに顔を出さない倉科でも何度か聞いたことのあるメロディーであり、これを聞くと、どうしても閉店間際のスーパーを連想してしまう。閉店間際の半額シールには、常日頃から世話になっているからかもしれない。


 倉科は思い切りグリップの底を通気口のカバーに打ち付ける。それこそ、メロディーのリズムに合わせるかのようにして軽快に。――タン、タン、タン、タン。タン、タン、タン、タン。


 外れそうで外れなかった通気カバーであったが、思いのほか簡単に外れてくれた。あまりにも簡単に外れてしまったせいで、通気カバーを拾い上げることができず、そのまま下の通路へと落としてしまったが、その落下音ですらチャイムに紛れてくれたらしい。思わず身を隠したが、チャイムが鳴り終わっても、誰かが駆け付けてくるようなことはなかった。


 改めて静まり返ってしまった通路。人の気配は感じられず、ぽっかりと口を開けた通気口が倉科を待っているような気がした。小さく吐息を漏らすと、自分に気合いを入れるべく「よし……」と呟いた。通気口から身を乗り出し、念のために周囲に人がいないことを確認する。やや高さはあるものの、飛び降りられない高さではない。通気口のふちに腰をかけると、両手で支えながら体を通気口の中へと滑り込ませる。そこで一呼吸を置くと、一気に飛び降りた。


 ――見事に着地とはならなかった。空中浮遊している少しの間にバランスが崩れ、頭の中ではどう体を動かせば良いのかも分かっていたのに、倉科はしたたかに尻餅をつく形で着地した。いや、このような場合は着地ではなく落下というのかもしれない。腰をさすりながら立ち上がると、改めて拳銃を構えて大きく溜め息。


 このアンダープリズンで何が起きているのか、現状ではどのようになっていて、事態はどこに向かおうとしているのか。本来ならば、今回の事件に介入することなどなかったはずの倉科であるが、どういうわけだかここにいる。前代未聞の大事件は、倉科が介入することにより、どのような変化を伴うのだろう。


 ――それは、辺りを警戒しながら歩き始めた倉科にさえ分からない。

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