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【7】


 人間というものは、驚くほどの適応能力というものがある。生きるために必要な本能的スキルなのかもしれないが、どんな状況にだって適応しようとするから不思議である。


 武器を持たぬ中嶋に背後を警戒させながら、楠木はアサルトライフルを構えたまま進む。第一階層のほうはすでに調べ終わっており、異常なしという結果が出ていた。もっとも、異常なしということは、手掛かりらしきものも見つからなかったということなのであるが。


 最初のほうこそ、一歩進むごとに周囲を警戒し、詰め所の扉を開ける際には、それこそ元SATの経験をフルに活かして突入。解放軍の姿がないことに安堵しつつ、けれども周囲を充分に警戒しながら探索を進めてきた。しかし、第一階層を全て調べ終える頃には、慎重さが薄れ、警戒動作も簡略化されていた。これこそが人間の慣れというものであり、適応能力と呼ばれるものだ。しかしながら、この環境に慣れつつあることに、楠木は危惧感を抱いていた。この気の緩みが、無意識下のふとした時に出てしまうから困る。


 幸いなことに第一階層では解放軍と遭遇することはなかった。第二階層へと降りる直前に、ライオンの様子を見に向かってみると、もう彼の意識は回復していた。しっかりと拘束してやったおかげで身動きが取れず、楠木と中嶋の姿を見た途端に、わめき散らすのが精一杯のようだったが――。どうしてこんなことをしたのか問いただそうと、ライオンの正体……本名を出したところで、だんまりを決め込まれてしまった。まさか、気を失っている間に、自分の正体が暴かれてしまっていたとは思っていなかったのであろう。どれだけ声をかけても、じっとしたまま動かず、ただただ一点を見つめるのみ。ラバーマスクを被っているから、どこに焦点が合っているのかまでは分からなかったが、その姿からは哀愁のようなものさえ感じた。


 ライオンの存在を含めて第一階層までは問題なし。しかしながら、第二階層は解放軍が占拠している食堂がある上に、職員のプライベートな部分が大半の住居スペースが広がっている。集合する合図を終業のチャイムとしたわけであるが、下手をすると集合時間には間に合わないかもしれない。第一階層を調べるのに時間がかかり過ぎただけなのかもしれないが、今のペースだと間違いなく集合時間には間に合わないであろう。


 唯一の救いは、解放軍の占拠する食堂が、なかば独立した位置にあるということか。住居スペースのほうに向かうために、わざわざ食堂の前を通らねばならない――なんてことがなく、住居スペースには別の通路を用いて向かうことが可能なのだ。食堂の近くにある娯楽室などは、調べるのが困難かつリスキーであろうが、第二階層の大半を占める住居スペースに関しては、そこまで心配する必要がなかった。


「中嶋、食堂の前を避けるルートで行くぞ。住居スペースに向かう」


 楠木はぽつりと漏らす。これは、生存率を上げるための当然の手段だと思う。けれども、食堂に多くの仲間達が閉じ込められ、そして命の危機に晒されている。状況判断としては正しいが、人間として間違っているように思えるのは、楠木が色々と背負い過ぎてしまっているからなのだろうか。


「わざわざ危険な目に遭う必要はないですからねぇ。仮にそっちの方面に向かうのであれば、住居スペースを調べてからでも遅くありません。むしろ、山本さん達と合流してからのほうが好ましいでしょうからねぇ」


 納得するかのように頷きつつ、中嶋が返して来た。楠木の考えには賛同であり、特に揉めるようなこともなく住居スペース方面へとルートを取る。天井、壁、床――全てがコンクリートで固められた空間は、小声であっても声が響く。足音は殺しながら歩いているが、その気もなしに歩いたら、さぞ足音も響くことであろう。


 辺りを警戒しつつ廊下を抜けると、その先は住居スペースだ。伸びた廊下の両側に、等間隔で扉が並んでいる。元から住居として作られたらしいが、どうにも変な窮屈さがあった。ここに配属された当初は、あまりの閉塞感に眠れなかったのを覚えている。今となっては、住めば都といった具合であるが。


 住居スペースに限ってはプライベートな部分が多く、当たり前ながらそれぞれの部屋には鍵がかかるようになっており、それを個々が管理するような形になっている。ゆえに、今が有事であるといっても、全ての部屋を調べて回ることができるわけではない。


 食堂と同じように住居スペースから独立している休憩スペース……もとい、喫煙所。各部屋にシャワーがあるため、利用率はそこまで高くはないが、職員の持ち回りで管理している大浴場。確実に調べることができるのは、この辺りになるだろう。駄目元で手当たり次第にドアノブを回すくらいのことはするつもりではあるが。


 休憩所と大浴場は、男性用の住居スペースを抜けた先にある。そして、休憩所と大浴場を挟んだ先には女性用の住居スペース。数は少ないが女性の職員もゼロというわけではなく、この辺りは一応配慮されているわけだ。女性用の住居スペースを抜けると行き止まり――というわけではなく、廊下が折れ曲り、その先には洗濯場がある。さらに進むと折り返すかのごとく廊下が折れ、その先は食堂と娯楽室が並ぶ廊下だ。その廊下を抜けると階段のある場所まで戻ってくる。つまり、第二階層は階段を起点として円環状になっているわけだ。だからこそ、食堂を避けるようなルート取りができるのである。


「――気を抜くなよ。ここは敵の本陣みたいなものだからな」


 そう呟いたのは、果たして中嶋に忠告するためだったのか。それとも、どこか警戒心が薄れつつある自分に言い聞かせるためだったのか。中嶋が黙って頷き、そして住居スペースの探索が始まった。鍵がかかっていることを承知で、ドアノブに手をかけつつ進む。


 案の定、どの部屋も鍵がかかっている。事件が起きたのがお昼時だったから、もしかすると部屋に戻っていた者もいたのではと思っていたが、そんなことはなかったらしい。結局、自分や中嶋の部屋も含めて、しっかりと鍵がかかっていた。


「みんな、意外に防犯意識が強いんですね――」


 中嶋のそんな言葉を背にしつつ、男性用の住居スペースの探索は終了。探索といっても片っ端からドアノブを回してみただけであるが、どの部屋にも鍵がかかっているし、調べるような場所もなかった。それゆえに、楠木達はそのまま休憩所へと向かう。


 休憩所は、そこまで広いとは言えぬスペースに自動販売機が置いてある。また世の中が煙草に厳しくなっているためか、透明の仕切り版で囲われた喫煙所が設けられている。アンダープリズンのルールとしては、煙草はここでしか吸えないことになっている。もっとも、決まりを守らずに部屋で吸っている者もいるらしいが。


「――そうだ。まさかとは思うが、調べておいたほうがいいな」


 楠木はぽつりと呟き落とし、それに対して中嶋が怪訝そうな声を上げる。


「調べるって、何を調べるんです? ここに残されているものがあるとすれば、飲み物の空き缶やらペットボトル、軽食の空箱、後はタバコの吸殻――とにかくゴミくらいしかありませんよ」


「重要なのは、そのゴミだよ。特に――煙草の吸殻がな」

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