事例2 美食家の悪食【解決篇】1
【1】
電話は伝えることだけを伝えると、さっさと切れてしまった。車でそちらに向かっている――そう告げて電話を切った縁は、なんだか慌てていたかのように思えた。時間的に考えても新幹線は走っていないだろうし、移動手段が車となると、かなりの時間がかかるだろう。
縁を駅へと送り届けた後、尾崎は警察寮へと戻っていた。何もできずに悶々としているのは嫌だったのであるが、いよいよ手詰まり――何かをしていられずにはいられないのに、やるべきことが見つからない、何をしていいのか分からない状況へと陥ってしまった尾崎達は、仕方なく解散をして、各々が待機する流れになっていた。交換したばかりの安野の電話番号を引っ張り出し、安野へと電話をかける。
「――何か動きがあったか?」
きっと安野も、何もできないことが歯痒くて仕方がなかったに違いない。やや前のめり気味になって、こちらが口を開く前に問うてくる。スマートフォンにかじりつく安野の姿が想像できた。
「えぇ、あったっす。なんでも、悪食の正体が分かったとかで、今すぐ向かって欲しいところがあるとか――」
縁から伝えられた用件はふたつ。ひとつは悪食の正体が分かったとのこと。そして、もうひとつは、こちらにいる尾崎達にしかできないことだった。
「悪食の正体が分かったって? とりあえず寮の玄関のほうに車を回すから、出る準備だけはしておいてくれ。それで――向かって欲しいところって?」
電話口の向こうから、勢い良く扉が閉められたような音がして、しばらくすると再びドアの開閉音のようなものが紛れ込む。察するに、安野が外に出て車に乗り込んだのであろう。居ても立っても居られなかったのは尾崎だけではないのだ。
「先生のところっす。良く分かんねぇっすけど、先生を保護して欲しいって言ってたっす。それと、できることならば最寄りのインターチェンジまで迎えに来て欲しいと――」
そう、尾崎が頼まれた用件とは、先生の保護であった。どうして先生を保護しなければならないのかまでは聞けなかったし、そもそも街の雑踏のせいなのか声が聞き取りにくかったのだが、きっと縁には縁なりの考えがあるのだろう。
「先生を保護しろって……今度は彼女に身の危険が迫っているってことか?」
尾崎も部屋から飛び出した。いつでも出られるようにスーツも脱いでいなかったし、シャワーだって浴びていない。スーツがくたびれてしまっていることは分かっているが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
「分かんねぇっすけど、そう言われたっす。あ、もう電話切るっすよ」
外に出ると車のヘッドライトが出迎えてくれた。電話を切り、そして助手席へと乗り込む。ハンドルを握る安野が電話の続きと言わんばかりに口を開いた。
「彼女がこっちに到着するまで、まだ時間がかかるだろう。とりあえず先生のところに向かうぞ。彼女の迎えに関してはそこで考えても遅くはない。行くぞ!」
先生を保護しろとの指示に、安野からは焦燥感のようなものが漂っていた。知り合いだったミサトが悪食の餌食となってしまっているだけに、必死になってしまうのは痛いほどに分かる。エンジンが唸りを上げ、そして車は闇夜を切り裂くかのように走り出した。
「とりあえず先生の仕事場のほうに向かおう。司法解剖の話が先生のところに来ていたはずだし、家にいるより、まだ仕事場に残っている可能性のほうが高い」
まず向かうべくは、先生の仕事場であるようだ。とにもかくにも、この辺りの土地勘が全くなく、そして当然ながら先生の所在など分からない尾崎は、窓の外の景色が物凄い勢いで通り過ぎるのを、助手席で眺めることくらいしかできない。
しばらくすると、安野が思い切りブレーキを踏み込み、なかばドリフト走行をするかのごとく、駐車場らしきところに車を滑り込ませた。ちなみに、サイレンは一切鳴らしていないから、他のドライバーから見れば単なる危険運転にしか見えないだろう。
「先生――無事だといいんだが」
どうやら先生の仕事場に到着したようだ。車から降りてみると、思ったよりも小さい施設らしきシルエットが月夜に浮かび上がっている。時間帯のせいか、施設には必要最低限の電気しか点いていないようだ。ただ、正面玄関らしきところだけ、これでもかとばかりに明かりが灯っていた。
安野を先頭にして正面玄関へと向かう。すると、正面玄関から人影が出て来た。逆光になっていてシルエットしか見えなかったが、その背格好から女性のように思えた。
「先生――」
安野はシルエットを見ただけで誰なのか分かったらしく、その人影に向かって安堵の溜め息を漏らした。
「どうしたの? こんな時間に――。ちなみに、例の解剖結果はまだよ。この時間まで待っていたけど手続きの部分でごたごたしているみたいでね。いっそのこと、私も一度家に帰ろうと思って。悪いけど、また出直して」
先生に危機が迫っている――なんて事情を知っているのは、こちらのほうだけ。当然ながら先生はそんなことを知らず、こんな時間に訪ねて来た尾崎達に溜め息を漏らす。それに呼応するかのように安野と尾崎も溜め息を漏らすが、同じ溜め息でも質が違う。安堵の溜め息というやつだ。
「いいや、駄目だ。先生、悪いがしばらくの間、保護させて貰うよ」
安野の言葉に目を丸くした先生は「なんで?」と、ごく当たり前のことを聞き返してくる。仕事から一時的に解放され、ようやく帰宅という流れになっただろうに、急に保護すると言われて疑問を抱かない人間などいない。
「実はな、どうやら――」
尾崎自身も、どうして先生を保護しなければならないか――その理由までは聞いていない。もちろん、安野だって理由は曖昧なままだろう。二人とも核心的な部分は分からないまま、とりあえず先生を保護しようとしているわけだ。当然だが安野の説明に説得力なんてものはなかった。
「そういうことならお願いしようかしら。そんなことを言われたら怖くて帰れないし。でも、どうして私なの?」
先生が納得するのか微妙なところだったが、しかし狙われているかもしれないと聞いて、それを聞き流すような真似はできなかったのであろう。説得力のない説明ではあったが、しかし先生はそれを受け入れてくれた。彼女が抱いた疑問はもっともであるが、けれどもそれに答えてやることはできない。
「正直なところ分からん――。この前会わせた若い女刑事がいただろ? 今はこっちを離れているが、彼女が先生を保護すべきと主張したらしくてな。こっちに向かっているから、彼女が来てから改めて聞こう」
一度は帰宅しようとしていた先生であるが、仕事場にて保護をさせて貰うことにする。警察署に連れて行って手厚く保護をすべきなのかもしれないが、しかし尾崎と安野は状況をいまいち分かっていない。いずれそうするにしても、縁の意見というか、言い分を聞いてから判断したほうがいいだろう。
先生の仕事場へと向かうと、その奥にあるゲストルームとやらで詰める尾崎達。
「――彼女の迎えは麻田に願ってみるか」
安野はそう言うと、ゲストルームの外へと姿を消した。部屋を出る間際にスマートフォンを取り出そうとしていたから、きっと電話をかけに向かったのであろう。やや不安げな表情を浮かべる先生は、果たして何を考えているのだろうか。
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