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「あ、あの――生活反応ってなんっすか?」
ここでトンデモ発言をしてしまうのが尾崎である。刑事になるために法医学の全てを知らねばならないわけではないが、生活反応という用語くらいは知っていて然るべきものである。酒が入っているせいで、たまたま知識がすっぽりと抜け落ちていたと信じたい。尾崎の発言に漏れ出しそうになる溜め息を飲み込んだ。安野達どころか、ママからでさえ「マジかよ――」といったニュアンスの視線が注がれているような気がした。
「写真を見て貰えば分かる通り、両手が血まみれになっているでしょう? どうして血まみれになったと思う?」
先生は学校の教師であるかのように、優しく尾崎へと問いかける。それに対して尾崎は少し考えてから、ちょっと自信がなさそうに答えた。
「それは――血が出たからっす。そりゃもう、ドクドクと」
答えとしては間違ってはいないが、もう少しマシな言い回しはないのだろうか。吐き気と溜め息。こらえなければならないものが多すぎて息が止まってしまいそうだ。先生は尾崎に優しく解説してくれるつもりなのであろうが、なんだか申し訳ない。先生からすれば、この会話は無駄話であり、さっさと話を進めてしまいたいだろうに。
「では、人間はどうして出血するのかしら?」
「――そりゃ、体の中に血が流れているからっす」
一問一答の形式で、徐々に答えへと近づける先生。尾崎はまだ先生の言いたいことが分かっていないようで、やや不思議そうな顔で受け答えをする。
「じゃあ、これが核心ね――。体の中に血が流れるのは、なんの臓器が動いているからなのかしら?」
答えは――心臓。心臓がポンプの役割を果たすことにより、人間は常に体中に血液を循環させている。つまり、被害者の切断された指元から多量の出血が伺える所見があるということは――。
「心臓っすね。人間にとって大切な臓器っす。自分、それくらいのことは知っているっす」
血液を循環させる臓器が心臓であることなど小学生だって知っている。それなのに、さも得意げに、したり顔を浮かべる尾崎。麻田がぽりつりと「こいつ、本当に刑事なの?」と小声で問うてきた。縁は苦笑い混じりで頷くことしかできない。刑事です――。こんな感じではありますが、正真正銘の刑事です。
「――なら、もう結論は出るわよね? 被害者の指が切断された際、被害者の心臓は動いていたのか、それとも止まっていたのか。どっちだと思う?」
尾崎は、さも新しい発見をしたかのごとく目を見開き、大袈裟に手をポンと打った。
「動いていたっす! もし止まっていたら、多少の出血はあっても、ドクドクとは出血しねぇっすから」
先生は尾崎の答えに微笑むと、これまた大袈裟に頷いてみせた。寛容である――。この先生は、その見た目とは違って、かなり寛容である。尾崎の言動に溜め息しか出てこなかった自分が小さく思える。
「その通り。つまり、被害者は生きている状態で指を切断された。先に指を切断されてから、殺害された可能性が高いってこと」
被害者は指を切断された後に殺害された。言葉にするのは簡単ではあるが、その現場を想像すると、あまりにも残酷で寒気すら覚える。生きている間に指を切断された被害者は、どんな思いで最期を迎えたのであろうか。
「ちなみに、被害者の体内からメチルフェドリン、クロルフェラミンの成分が多量に検出されているわ。これ、普通に売られている市販薬に含まれている成分なんだけど、多量に摂取すると高揚感、多幸感などをもたらすといわれているの。恐らくなんだけど、犯人はこれを被害者に何らかの形で摂取させ、麻酔の代わりにしたんじゃないかしら? 一人だけならまだしも、同一犯の仕業と思われる犠牲者の体内からは、いずれも同じ成分が検出されているから――」
予見はできたものの、やはりこの事件は連続殺人事件なのだ。先生に渡された資料の厚さから、まず一人分ではないのだろうとは思っていたが、最初のページがあまりにもショッキングであるため、次のページをめくる気にはなれなかった。話の流れで、まだ残酷な写真を見なければならないと思うと気が重い。
「――この、遺体の真ん中に引っ張られた点線みたいなのって、何か意味があるんですかね?」
あまりにもグロテスクでエグい話が続くため、話題を切り替える意味も含めて、縁は先生に問うてみた。できる限り残酷性のない点に触れたのは、もちろんわざとである。
「さぁ……。印そのものの意味は分からないけど、頭頂部から陰部に向かって、真っ直ぐに点線が引かれていたと思われる。思われるっていうのは、被害者の頭部の損傷も、この点線の延長線上にあるから。実際に引かれていたかは定かじゃないから。私には全く意味が分からないけど、もしかすると犯人にしか分からない意味があるのかもね」
先生はそう言うと、かなり氷が解け出してしまった烏龍茶を口にした。
なかば頭をかち割られるという形で殺害された犠牲者。刃渡り50センチを越えるであろう大型の凶器。生きたまま指を切断され、そして体には謎の印が残されていた。ここまでの話をざっと聞いただけでも、事件の凄惨さが伺える。これに加えて、犯人が人を喰らっているなど、残酷にもほどがある。
「ここからは、また俺がバトンを貰おうか」
先生がお茶を口にしたところで、一旦話すべき要点は抑えたと考えたのであろう。安野がボロボロの手帳をめくりながら口を開いた。先生は無言で頷く。
「遺体が発見された現場からは、犯人が残したと思われる遺留品が見つかっている。A4用紙をわざわざラミネートしたレシピと――犠牲者の薬指の骨がな」
レシピ――。一瞬、我が耳を疑った。レシピとは、あのレシピであろうか。調理法が記され、料理をする際の参考にするレシピのことなのだろうか。
ふと、殺人蜂の事件を思い出す。あの事件ではポエムが遺留品として、被害者の口の中に詰め込まれていたわけであるが、猟奇殺人を犯す者は、どこかで自己主張をしなければ気が済まないようだ。もっとも、犯行そのものが異常であり、それ自体が自己主張のようになっているのが、猟奇殺人の特徴といえば特徴なのであるが。
「これ、実際のレシピを縮小コピーしたやつね。さすがに鑑識課も気を張ってる事件だからさ、持ち出すのに苦労したわけ」
麻田はそう言いながら、ポケットから束になった紙切れを取り出し、それを「隣に回して」と、縁に手渡してきた。受け取った縁は、その内容が気になりながらも、一枚だけ紙切れを手に取って隣の先生に残りを渡す。先生から尾崎と安野の手にレシピのコピーが回った。
「一枚余ったぞ――」
「あ、それママの分ね。俺って、そういうところ抜かりないから」
麻田の言葉を受けた安野がレシピのコピーを手渡すと「さすが、分かってるわね」と、ママがレシピを受け取りながら呟く。それに対して「俺を誰だと思っているわけ?」と、少し得意げな麻田。
察するに、麻田はレシピのコピーを正攻法で持ち出したわけではないようだ。無断で失敬したのだろう。も。悪い言い方をすれば証拠品の横流しに抵当するわけだが、あえて深くは考えないようにした。郷に入れば郷に従え――というわけではないが、こちらにはこちらのやり方というものがあるし、一般人であるママが当たり前のように話に参加しているのも、こちらでは当たり前のことなのかもしれない。どちらも守秘義務に違反しているが、それをどうこう言うつもりはなかった。縁がここにやって来た理由は、あくまでも事件の捜査をするためなのだから。
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