23

「――はい」


 目をこすりながら、やや間抜けな声で対応する。どうして寝起きの時は、自分でも驚くほど間抜けな声が出てしまうのか。腕時計に視線を落としてみると、一時間ほどが経過していた。体感的には、ほんの一瞬だったというのに。


「縁、今どこにいるっすか?」


 電話の相手は尾崎だった。その背後には駅のアナウンスらしきものが聞こえる。ようやく、こちらのほうに戻ってきたようだ。スマートフォンの着信音で起きてしまったのか、麻田が大きく背伸びをした。安野は重たそうなまぶたを上げながら、後部座席のほうへと振り返ってくる。


「今は先生のところにいます。尾崎さんはどこなんですか?」


 先生のところ――と言っても、正確にはその駐車場に停車した車の中である。尾崎が奔走していたかもしれないのに、仮眠をとっていたとは、ちょっと言いにくかった。


「親不知駅にいるっす。色々と分かったことがあるから、今からすぐに合流するっす」


 電話の相手が尾崎であるということは、おおよそ察しがついているのであろう。あくびを噛み殺しながら安野がシートベルトを締める。


「分かりました。今から向かいます。ちょっと待っていて下さい」


 そこで尾崎との電話を終えると、縁はスマートフォンを仕舞いながら「親不知駅まで向かって下さい。尾崎さんが待っていますから」と告げる。


「――それで、何か分かったのか?」


 エンジンをかけた安野から放り投げられた言葉に、縁は力強く頷いた。


「そうみたいです。これから尾崎さんと合流しましょう」


 尾崎が一度神座に戻っていることは麻田も聞かされていたらしく「あっちには優秀な警部さんがいるみたいだねぇ」と、やや皮肉った様子で安野のほうへと視線を移す。それに対して「警察学校時代は、俺とどんぐりの背比べだったんだがなぁ……」とぼやきつつ、アクセルを踏む安野。二人は知らないだろうし、あくまでも機密事項であるから口外はしないが、倉科のおかげで何かが掴めたわけではない。それを導き出したのは坂田だ。


 現場に急行するわけではないから、緊急用の赤色灯の出番はなし。それでも、明らかに法定速度を超える速度で駅へと向かう。ここに交通課の人間が乗っていたら、こっぴどく叱られていることだろう。むしろ、違反切符を切られてしまうかもしれない。


 駅のロータリーに入ると、駅の出入口で仁王立ちをしている尾崎の姿をすぐに見つけた。待ちきれずに外で待っていたらしい。


 辺りはとっぷりと日が暮れ、ちょうど駅の明かりのせいで逆光になっていたのだが、後ろで結わえた――チョンマゲのおかげで、シルエットだけでも尾崎だと分かる。もちろん、髪の毛を後ろで束ねている女性なんて山ほどいるが、がっしりとした体格で、しかも髪の毛を後ろで束ねており、そして動ずることなく仁王立ちをしているなんてのは尾崎くらいしかいない。もしこれで尾崎ではなかったら、世間に対する自分の視野が狭いことを認めよう。


 そのシルエットの前で車を停めると、こちらのことに気付いたのか無駄に飛び跳ねて手を振り、そして手を振ったままこちらに駆け寄ってくる。尾崎だ――こんな恥ずかしい真似ができるのは尾崎しかいない。案の定、後部座席に転がり込むように乗り込んできたのは尾崎だった。慌てて席を開けようと端に寄ったが、転がり込んできた尾崎を回避することができず、なんというか――縁の膝の上に尾崎の頭が来るような形になってしまった。転がり込むなんてのは比喩表現であり、本当に転がり込んでくる奴がどこにいるというのか。いや――いる。そうでなければ、縁が膝枕をしてやるような形にはならなかったのだから。


「尾崎裕二! ただいま戻ったっす!」


 縁の膝枕の上で、びしっと敬礼を決める尾崎。それを見て安野が「ご、ご苦労さん」と、振り返って苦笑い。


「あ、あの――尾崎さん。どいて貰えませんか?」


 さすがにこんな状況だから、言わなくとも気付いてくれるものだと思っていたのだが、どうやら尾崎は現状に気付いていないらしい。縁が言ってようやく気付いたのか、慌てて尾崎は起き上がった。


「あの……これは事故っす。たっ、確かにっ! 太ももは柔らかかったですし、ふわりといい匂いもしたっすけど、決してわざとじゃねぇっす!」


 必要以上に縁から離れて弁明する尾崎。麻田が溜め息を漏らしてから「とりあえず落ち着けって――。どうどう」と、牛や馬を落ち着かせる際の擬声語を持ち出して尾崎を落ち着かせようとする。あからさまに馬鹿にされているわけであるが、それである程度落ち着きを取り戻してしまう尾崎も尾崎である。


「それで、そっちに戻って何が分かったわけ?」


 いつまでもロータリーに停車しているわけにもいかず、車を発車させる安野。麻田が振り返り、ようやく落ち着きを取り戻した尾崎へと問う。


「神座に戻って、坂――倉科警部に意見を貰って来たったす。今からひとつずつ話すっす」


 思わず坂田という名前を出しそうになったが、それを堪えて言い換えた辺りは大したものである。0.5係としての自覚は、多少なりとも尾崎にもあるようだ。


「とりあえず、どこか落ち着ける場所で話そう。俺も運転しながらじゃ頭に入ってこない。それはそうと――みんな飯は?」


 ロータリーから出ると、もはや行き先を自分の中で決めてしまっているのか、ウインカーを出して左折する安野。


「――朝から食べてない。事件が事件なだけにね」


 一刻も早く、尾崎から話を聞きたいのであろう。それを安野に阻止されてしまったようになったからか、少しばかり不機嫌そうに溜め息を漏らす麻田。ミサトが殺害されてしまったことで、ただでさえ食事が喉を通らないだろうに、それに加えて今回の事件はカニバリズム殺人だ。縁も朝から何も口にしていなかった。


「自分も事件が事件なだけに、駅弁をふたつしか食えなかったっす――」


 尾崎の言葉に、一周回って感心すらしてしまう。しっかり食べているではないか。しかも、駅弁ふたつともなれば、普通の人より食べている。もはや、それに突っ込むことすら面倒なのであろう。麻田が「あぁ、ふたつしか食えなかったんなら病気だわ、病気。病院行け」と、やや尾崎を邪険に扱う。


「――俺も正直なところ食欲があるわけじゃないんだが、不便なことに腹は鳴ってるんだ。俺が出すから、どこかで飯にしよう。ただし、事件の話をするのは飯を食ってからだ。飯を食いながら事件の話はしたくないからな」


 安野の言葉には大いに同意だった。無意識に頷いてしまったくらいだ。人間の体というものは不便なもので、常にエネルギーを定期的に体に取り込まねば生きていけない。普段は本能的な欲求として、当たり前のように表へと出てくるものであるが、たずさわっている事件が事件なだけに、どうしても理性というものが食欲を抑え込もうとする。それらがせめぎ合い、食べる気にはなれないが、しかし体はエネルギーを欲するという二律背反が生じていた。


 安野は車を走らせ、そして古びれた暖簾のれんがかかる店の向かいにある駐車場に車を入れた。ひっそりとした佇まいの店ではあるが、その店名には見覚えがある。――楼々軒。恐らくミサトの最後の晩餐となったであろう、岩のりラーメンを持って来てくれた店だった。この店にわざわざやって来たのは、安野なりの弔いのつもりなのか。それとも、こんな状況であっても、ここのラーメンなら食べられると思ったのか。その本心は分からない。


「ここの看板娘の絵梨子ちゃんも、サンテラスにしょっちゅう出入りしてたからな。飯を食うのはもちろんだが、ミサトちゃんの訃報も伝えてやらなきゃならんだろう。二人も仲が良かったわけだし」

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