【3】


「――い。おい、山本! しっかりしろっ!」


 長い夢を見ていたような気がする。それこそ、体感的には随分と長い悪夢を――。声をかけられて、はたと我に返った縁は、しかし何が起きたのか理解できなかった。


 ところどころボロボロになった壁、むき出しのコンクリート、そして血の匂い。そこでようやく、自分が殺人蜂に監禁され、命の危機に瀕していたことを思い出す。心配げに覗き込む倉科の顔を見て、一気に緊張の糸が切れた。どうやらいつの間にか駆けつけてくれたらしい。


「警部! 大丈夫っす! ただ気を失っていただけみたいっすから!」


 尾崎の声がどこからか聞こえてきて、そちらのほうに視線を移すと、そこには広瀬を抱きかかえる尾崎の姿があった。広瀬はこちらのほうへと視線をやると、微かに笑みを浮かべたように思えた。姉が現れる直前に、彼が気を失ってくれていたのは不幸中の幸いだったのかもしれない。


「念のために緊急搬送だ。もう一台救急車を呼べ、救急車を! 何もなかったら何もなかったで、それに越したことはないんだから」


 縁の肩を掴みながら指示を出す倉科に、安堵の溜め息を漏らした。とにかく、広瀬が無事のようで何よりだ。これで彼に死なれてしまったいたら、守れなかったことを一生後悔していたことであろう。


 安堵の溜め息をついたのも束の間、その吐息をひゅっと吸い込み、もっとも大事なことを思い出す。


「さっ、殺人蜂は? 殺人蜂はどうなりました?」


 倉科に問う声が、わずかに震えていた。なんせ、途切れる寸前の真新しい記憶の中で、殺人蜂は――。


「――やっぱり、この男が殺人蜂だったのか。坂田に犯人のことを聞きそびれはしたが、この状況を見れば一目瞭然だ。とりあえず救急搬送はしなきゃならんから、救急車を呼んである。死んじゃいないみたいだがな」


 倉科はそう言うと、ある一角に視線を移し、続けて静かに呟くように問うてきた。


「山本……。一体、何があったんだ?」


 恐る恐ると倉科が視線を向けたほうを見てみると、そこには仰向けに倒れたままの殺人蜂――岡田の姿があった。どういうわけだか、彼は姉が握っていたはずのアイスピックを握りしめていた。彼の腕やら足には無数の傷があり、そこから出血しているようだ。しかし、本人の意識はあるのか、うわ言のようにぶつぶつと言葉にならない言葉を呟いていた。


 それらが姉の仕業であると分かってはいたものの、縁は小さく首を横に振って、それを返事とする。間違っても、身内の人間が出てきて、殺人蜂に危害を加えたなどと言える空気ではなかった。


「なんにせよ、ここまで大ごとになったら、さすがに俺達だけじゃ処理できん。今、捜査本部の連中もこっちに向かってる。まぁ、山本が無事で良かったよ――。怪我はしていないか?」


 険しい表情を浮かべていた倉科が、ほんの一瞬だけ笑みを浮かべた。一人で勝手に暴走した挙げ句、殺人蜂から返り討ちに遭いそうになるなど大失態だ。しかも、駆けつけてみれば被疑者は血まみれという状態。この後始末をどうつけるべきか、倉科の中で悶々としたものが漂っていることであろう。縁は倉科の心境に複雑なものを見ながら頷いた。


 救急車のサイレンが響く。廃墟の中に幾つもの足音が響き、数人の救急隊員がやってくる。


「この男の子と、その男です。どうかよろしくお願いします」


 倉科が救急隊員へとお願いすると、血まみれの殺人蜂の姿にぎょっとしたような顔をしてから、救急隊員が処置に取りかかる。殺人蜂は担架で運ばれることになったが、広瀬は救急隊員に支えられる形で廃墟を後にして行った。それを見送りながら、倉科が静かに口を開く。


「――山本、結果的には殺人蜂にたどり着くことはできたわけだが、今回のやり方は褒められたものじゃない。俺の力じゃかばいきれないかもしれんし、ある程度の処分は覚悟してくれ」


 言われずとも薄々と分かっていたことではあるが、いざ言われてみると、やはり大きな溜め息が漏れた。一人で暴走してしまったことは認めるし、刑事として軽率な行動をしてしまったことも否定はしない。


「警部、その辺りは情状酌量にしてやれねぇっすか? 縁だって、殺人蜂を捕まえたい一心だったわけですし」


 尾崎がフォローに入ってくれたが、しかしそれで何かが変わるようなら苦労はしない。やったことがやったことであるし、こればかりはどうにもならないことだろう。


「俺一人じゃ、やれることに限界があるんだよ。できることはやってはみるがな――。ちなみに尾崎、お前も連帯責任だ。あれだけ言っていたのに、山本と二人で勝手に動きやがって。それ相応の処分を覚悟しておけよ」


 警察は組織の意識が強く、スタンドプレーは何があっても許されない。今回は結果的に殺人蜂を捕まえることができたが、もしかすると広瀬が殺されていたという未来もあっただろうし、縁が殺されてしまうという未来もあり得た。幾つもの結果がある中で、たまたま今回の結果が得られただけであり、最悪の結末となることだってあった。だからこそ、単独で動くことは許されない。たった一人の判断で、事件の結末が大きく変わるのだから。


 ――処分。その言葉が重くのしかかった。自分が招いてしまったことではあるが、こればかりは避けることができないであろう。衝動的に動いてしまったことを悔やむばかりだ。


 坂田から倉科へ、倉科から捜査本部へとバトンが渡り、そして殺人蜂の逮捕へと繋がるのがベスト。倉科が0.5係という側面を持っていたとしても、決して0.5係そのものは犯人の逮捕へと直接的に関与しない。そういうものだと思う。そもそも、縁はまだ正式に辞令が出たわけではないのだ。犯人の逮捕と引き換えに、経歴に傷がついてしまったとしても文句は言えないだろう。


「――捜査本部には俺が対応しておく。いまさらごまかしようもないかもしれないが、できる限りのことはやってみる。だから尾崎と山本はここを離れろ。ただし、あまり期待はするなよ。状況が状況だからかばうにも限度がある」


 遥か遠くから聞こえてきたパトカーのサイレンに、倉科は大きく溜め息を漏らした。先に救急車が到着するしたことを考えると、一縷いちるの望みをかけて、わざと捜査本部への報告を後回しにしてくれたのかもしれない。なんだかんだ言って、倉科は倉科で縁を守ろうとはしてくれているのだ。


「捜査本部からの呼び出しがあったら応じて欲しい。脅すわけじゃないが、下手をすれば0.5係の話も流れると思っておいたほうがいい。ここまで機密を知っておきながら、簡単に切られることはないだろうがな」


 縁は尾崎と顔を見合わせる。自分がスタンドプレーに走ったことにより、尾崎にまで多大なる迷惑をかけてしまった。それが情けなくて、悔しくて――。頭の中は申し訳なさで一杯だった。


「縁、警部の言う通り、ここを離れるっす。今はそれしかできねぇっすから」


 尾崎からどんな言葉が飛んでくるかと身構えたが、しかし尾崎はいつもと変わらぬ様子で手を差し伸べてくれた。縁は頷くだけで精一杯だった。


「今回のことはラーメンで手を打つっす。自分も人のことは言えないっすけど、あんまり無茶はしちゃ駄目っすよ? 犯人と直接対決なんて危ねぇっすから」


 尾崎はそう言うと、倉科には聞こえないように、小さな声でこう続けた。


「せめて自分には連絡欲しかったっす――。犯人と直接対決なんて、夢のバトルマッチっすから」


 この状況で、こんなことを言えるのは尾崎くらいであるが、それは気遣いとして受け取っておく。パトカーのサイレンが徐々に近付き、縁は倉科と頷き合ってから、現場を後にしたのであった。今後に一抹の不安を感じつつ、そして――狂ってしまった姉のことを案じつつ。

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