こんな時、上手い具合に話が進むのは創作物の中だけ。揉み合いになった末に広瀬がアイスピックを奪い――なんて展開を望むこと自体が大間違いなのだ。現実はそんなに簡単ではない。飛びかかった広瀬の肩にめがけて、岡田のアイスピックが振り下ろされ、辺りに広瀬の悲痛な声が響く。その場に膝を折った広瀬の肩からアイスピックを引き抜くと、岡田は唾を吐き捨てた。


「男は僕の趣味じゃないんだよねぇ。でも、ここまで知られたんじゃ仕方がない。死んで貰うよ。二人ともね」


 今のところ殺人蜂の正体を知っているのは、縁と広瀬だけ――。いや、尾崎が捜査の進展を話しているのであれば、坂田も真相にたどり着いているのかもしれない。ただ、当然ながら坂田の存在は非公式のものであり、まさか今回の事件に坂田が関与しているなど、岡田も思っていないことであろう。よって、縁と広瀬の口さえ封じてしまえば、岡田の正体を知る者はいなくなると思い込んでいるに違いない。


 痛みのあまりか動けなくなってしまった広瀬。岡田が大きくアイスピックを振りかぶる。このままでは広瀬が危ない。無意識に広瀬のところへと駆け寄り、そして勢い良く突き飛ばした。そこには、広瀬に振り下ろされようとしていたアイスピックが迫る。どう考えても、ここから回避するような余裕はない。目前まで迫ったアイスピックに、縁は覚悟を決めた。


 いつまで経ってもアイスピックの先端が突き刺さる嫌な感覚がやってこない。それどころか、目の前でアイスピックの先端が止まったまま動かない。まるで時が止まってしまったかのような錯覚を受けたが、岡田の腕を掴む細い腕を見て、縁は溜め息を漏らした。


「ふふふふふふっ――。昨日からずっと縁ちゃんのこと尾けてたの。駄目よ、縁ちゃん。こんなに楽しそうなことをするのに、お姉ちゃんをのけ者にして」


 どこから現れたのか、これまでどこに身を隠していたのか。岡田の腕を掴んでいたのは姉だった。ここに姉がいるということ自体、極めておかしなことではあるが、その白いワンピースと、歪んだ笑顔は紛れもなく姉。まさか、昨日の夜からずっと縁の後をついて来ていたのだろうか。それこそ異常としか言いようがない。縁が殺人蜂に襲われる場面も、この廃墟に運び込まれる時も、そして、こうして殺人蜂とやり合っている間も、姉はずっとどこかから様子を伺っていたというのだろうか。


「やややややっ! やめろっ! 離せっ!」


 岡田の腕が、姉の細い腕に捻り上げられる。堪らずアイスピックを取り落とした岡田の腕から、ばきりと嫌な音がした。


「お姉ちゃん! やめてっ!」


 世界が、ほんの少しだけ歪んで見えた。平衡感覚を失ったかのごとく、岡田の腕を容赦なく捻り上げた姉の姿が斜めになって映る。広瀬のほうへと視線をやると、どうやら突き飛ばされた勢いで気を失ってしまったらしい。ぐったりとしていた。彼のほうに駆け寄ってやりたいのだが、しかし金縛りにあったかのごとく目が姉から離れない。


「――どうして? こいつは悪いことをしたのよ? それこそ、何人もの人間を殺している。殺された犠牲者の命は二度と戻ってこないのに、こいつはのうのうと生き続けるのよ。それって不公平。本当に不公平」


 姉の言動は、縁でさえ理解できないことがある。そもそも、部屋から飛び出した縁を尾け、これまでの一連の流れをどこかから見守り、そして土壇場で飛び出してくるなど、普通の思考を持っている人間にはできないことだ。身内に対してこんなことは言いたくないが――狂っている。坂田とはまた別の狂いかたで。


「そいつは五人もの人間を殺しているから、法が裁いてくれるよ! きっと死刑になる。だから、お姉ちゃんが――」


「縁ちゃん。あなたも知ってるはずよ。法がどれだけ役立たずで、被害者に対して残酷なのかを。被害者のことばかりクローズアップされて、加害者のことなんて二の次なの。加害者は罪を犯したんだから、それ相応の罰を受けて当然。でも、罰を受ける必要のない被害者まで、連日のようにテレビに顔写真が流されて、遺族のところにはマスコミが押し寄せる。警察まで、容赦なく事情聴取を行おうとする。この国はね――加害者に優しい国なの。加害者だけに手厚い待遇が用意されている国なの」


 岡田の腕がおかしな方向に曲がっている。その腕を掴んだままアイスピックを拾い上げる姉。その姿に心臓がどくりと脈打ち、ぐわりと視界が歪む。


「だからって、お姉ちゃんがそんなことをする必要はないよ! 止めて……お願いだから止めてよっ!」


 姉が高々とアイスピックを振りかざした。そして、恐る恐ると振り返った岡田が、恐怖に満ちた表情を浮かべる。その恐怖のあまりか、言葉も出ないようだ。


 もう見ていられない。しかし、目を閉じることも、視線を外すこともできない。姉は岡田を抱きしめるような体勢になると、ぽつりと言葉を漏らしてアイスピックを振り下ろしたのであった。


「さようなら。コンプレックスまみれの殺人鬼さん――」

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