事例2 美食家の悪食【事件編】1

【1】


 もう時間がない――。縁はスマートフォンの時計を確認すると、辺りをきょろきょろと見回す。そんなことをしても事態が解決するわけではないし、尾崎だってタイムリミットが迫っていることは分かっているはずだ。だが、このまま尾崎が間に合わなかったらと思うと、気が気ではない。


 タイムリミットのベルが鳴り響いた。心の臓は脈を打ち、思わず縁は立ち上がる。尾崎の姿はない。それでも、最後まで希望を捨てずに、彼の姿が現れるのをまった。


 ……ヒーローは遅れてやってくる。その言葉を体現したかのごとく、正しくギリギリのタイミングで飛び込んでくる尾崎。縁が胸をなで下ろすと同時に扉が閉まった。間一髪。どうやら尾崎は間に合ったようだ。まったくもって、ひやひやとさせてくれる男である。


「いやいや、危なかったっす! なんせ、種類が一杯あったもんすから、悩みに悩んだっす!」


 そう言いながら縁の隣に座った尾崎の手には――積み重ねられた駅弁。もう時間がないというのに、旅のお供だかなんだか知らないが、急に思い立ったかのごとく飛び出した結果がこれである。せめて、日常の光景の中では余計な心配をかけさせないで欲しい。そもそも、夕食なんてワゴンサービスで購入しても構わなかったのだから。


「尾崎さん……それ、全部一人で食べるんですか?」


 尾崎が買ってきた幾つもの駅弁を眺めつつ、縁は呆れ半分に問うてみる。新幹線は徐々に加速を始め、明かりの灯り始めた街々の姿が目まぐるしく車窓の中を通りすぎていく。


「そんなことはねぇっすよ。縁の分もあるっすよ。はい、これっす」


 尾崎はそう言うと、数ある駅弁の中からひとつを縁に手渡してくる。縁は「ど、どうも――」とだけ言って駅弁を受け取った。とどのつまり、残りの駅弁は全て一人で食べるということか。目的地までは新幹線ですら二時間ほどかかるわけだが、果たしてその間に全部食べるつもりなのだろうか。そんなことを考える縁を尻目に、尾崎は早速ひとつめの駅弁に手をつけた。オーソドックスな輪箱飯わっぱめしというやつだ。まだ夕食の時間には早いし、とりあえずそれを車窓枠の上へと置いた。


「それはそうと、まさか着任一発目が出向とは思わなかったっす。まぁ、アンダープリズンに出勤するよかマシっすけど」


 駅弁を食べながら言う尾崎に、縁はとっさに自分の唇に人差し指を当てる。その意味合いに気付いたのか尾崎は「そうっすね」と、少しうなだれながらも箸は止めない。新幹線には一般人も乗っているし、例え連想されるようなものではなくとも、アンダープリズンなどという名称を出してはならない。こんなことまで守秘義務にあたるのかは不明だが、0.5係である以上、機密の保持は義務である。


 縁達がこうして新幹線に乗り込んだのには、れっきとした理由がある。決して、どこか遠方の地に遊びに行くわけではない。


 アンダープリズンは日本のどこを探しても神座にしかなく、そして0.5係もまた、兼任の倉科を含めても神座にしかいない――。しかし、都合良く事件が近所で起きてくれるなんてことはない。地方に縛り付けられることのない立場であることは分かっていたが、早速といわんばかりに出向を命じられるとは思ってもいなかった。


 縁達の住む神座から、遥か離れた遠方の地にて猟奇殺人事件が起きた。あまりにもショッキングな内容であるため、マスコミにも箝口令かんこうれいを出しており、まだ全国的にも知られていない事件だそうだ。具体的な話は聞かされていないが、倉科の話によると、なんでも食人による殺人らしい。人が人を喰らう――それを想像しただけでも、充分に恐ろしい事件である。


 縁達の役割は、現地へと実際に赴き、その捜査の情報を坂田の元へと持ち帰ること。管轄となる所轄の警察署にて、一時的に捜査員へと紛れ込む方向で話が進められているそうだ。所轄のほうには事情を知っている人間がいて、その人の下で働くことになるとか。


 機密だと言っておきながら、どこまでが機密なのか良く分からない。この辺りの仕組みは良く分からないのだが、その事情を知っている人間は階級が倉科と同じ警部で、警察学校時代の同期だそうだ。どこまで倉科が話したのか分からないから、こちらとしてもどこまで0.5係という存在を前に出していいのか皆目見当もつかない。


 滞在期間は特に決まっておらず、まとまった情報が集まり次第帰還指示が出ることになっている。滞在している間の生活のことは心配するな――とは倉科の言葉であるが、正直なところ不安ばかりだった。試験的な立場であるがゆえに、何もかもが手探りであるのだから。


 隣の尾崎はすでに、ふたつめの駅弁に手をつけた。何も考えずにいられることが羨ましい。案外、このような新しい環境には、尾崎のようなタイプのほうが強いのかもしれない。


 縁の胸中で吹き溜まっている不安の要因には、姉のこともあった。あの何を考えているか分からず、妹である縁でさえ意思の疎通が困難な姉を置いてきてしまったのだ。一人なら一人で上手くやるから大丈夫だとは思うが、やはり心配なものは心配である。


 縁は車窓からの景色を眺めつつ首を横に振った。もう新幹線に乗ってしまったのだし、あれこれと姉のことを考えるのは止めよう。考えるだけで頭がガンガンと痛むような気がする。なるようにしかならないのだから、今は自分に与えられた役割に徹するべきだ。


 荷物はとりあえず着替えなどの必要最低限のものを詰めたスーツケースだけ。コンパクトにまとめたつもりなのだが、それでも尾崎に「女子は荷物がかさばるっすね」と、デリカシーのない一言を放たれる始末。尾崎の荷物が少なすぎるのだ。どれだけ滞在することになるか分からないというのに。恐らく、現地調達をするつもりなのであろうが――。


 尾崎は飽きもせずに駅弁を食らい、そして縁は時間潰しのために持ってきた本を開いてはみるが、なんとなく落ち着かず、結局のところ車窓から外を眺めつつ時間を潰した。いつの間にかウトウトしていたようで、尾崎に肩を揺さぶられて目を覚ました。ほんの少し目を閉じただけの感覚だったのであるが、車窓の外は駅のホーム。どうやら、到着したようだった。


「縁、到着っす――」


 尾崎は体格に似合わぬ小さなショルダーバッグを降ろすと、縁のスーツケースも一緒に荷物棚から降ろしてくれた。足元には尾崎の荷物よりも大きな駅弁の空箱が入ったゴミ袋。どういう胃になっているのか、できることなら見てみたい。


「あ、ありがとうございます。ごめんなさい、私寝てたみたいで――」


「別に構わねぇすよ。ただ、よだれの跡だけはなんとかしておいたほうがいいっす」


 尾崎の言葉に「ふぇっ?」っと、自分でも信じられないほど間抜けな声が出た。慌ててコンパクトミラーで確認すると、くっきりとよだれの跡ができてしまっている。恥ずかしい――これはさすがに恥ずかしい。


 尾崎と一緒に新幹線を降りると、縁は一足先に改札を抜けてトイレへと向かい、洗面台の前で化粧ポーチを取り出した。尾崎の隣でよだれを垂らしながら寝ていたなんて、なんと無防備なのであろうか。女子力もへったくれもない。化粧を直して戻ると、人混みの中に尾崎の姿を見つけた。すでに尾崎はスーツ姿で中年のほどの男と一緒にいた。無精髭に、ややくたびれた様子のスーツ。同年代くらいの倉科がきっちりとしているだけに、だらしない印象を真っ先に受ける。


「縁、こっちっす!」


 分かっているというのに、人が行き交う駅の構内で大声を出し、そして手を振る尾崎。なんだか、周りに「すいません」と謝って回りたいような衝動に襲われつつも、縁は二人の元へと向かった。


「桜坂署捜査一課警部の安野隆義やすのたかよしだ。遠路はるばるよく来てくれたな。よろしく頼む」


 尾崎との挨拶は済ませているようで、二人の元へと向かうなり安野警部は縁に握手を求めてくる。それに応えながら縁は口を開いた。


「捜査一課の山本縁です。よろしくお願いします」


 思わず0.5係の部分まで名乗りそうになってしまったが、どこまで安野が知っているのか分からない以上、その部分は伏せておいたほうがいいだろう。

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