28

 尾崎の車を見送ると、縁は小さく溜め息を漏らしてからマンションのエントランスへと向かった。自らの希望で動き回ったとはいえ、いささか疲れてしまったようだ。今日はもう何もせずに過ごしたいところであるが、そうもいかないのが縁の現実だった。


 エレベーターに乗り込み、自分の部屋の階数を押すと、少しばかり壁に寄りかかって、次々と変わっていく回数表示を見つめる。アンダープリズンほど乱暴ではないが、不愉快な重力の変化を伴ってエレベーターが到着し、縁は気合を入れ直すかのごとく「よし」と呟いてから廊下へと出る。


「ただいま」


 日がとっぷりと暮れ、すっかり薄暗くなってしまった部屋に向かって言うと、縁は溜め息をひとつ。できるだけ表に出さないようにしてはいるのだが、どうしても溜め息ばかりは漏れてしまう。もうこんな時間なのだから、電気くらい自分で点けて欲しいものだ。


「ねー、お姉ちゃん。電気くらい点けなよ」


 部屋の中に向かって言いながら、縁は靴を脱ぎつつ部屋の明かりを点ける。ぱっと点いた電気の下には、いつも通りの荒れ果てたリビング。自分の部屋はそれなりに綺麗に保ってはいるが、共通で利用するリビングばかりは、少し放っておくとこうなる。仕事の忙しさにかまけて掃除をしない自分が悪いのかもしれないが、掃除をしたところで元に戻るまでは時間を要さない。余計なストレスを抱えたくないから、ある程度になるまで放っておいている。


 ふと姉の部屋の扉が、かすかな音を立てて開いた。姉の部屋は薄暗く、その闇の中に気味の悪い笑みを浮かべた姉の姿が見えた。


「おかえりなさい。縁ちゃん――」


 聞こえるか聞こえないか分からないほどの、か細い声が聞こえた。姉は扉の前で不気味な笑みを浮かべたまま動かない。しかし、こんな光景ですら、縁にとっては日常の一部である。むしろ、今日はいつもより具合が良いようだ。


「ただいま。お姉ちゃんご飯は? どうせ朝から食べてないんでしょ?」


 縁は荒れ果てたリビングを乗り越えるとキッチンへと向かい、冷蔵庫から適当な食材を出す。もっとも、全て出来合いの冷凍食品ばかりで、調理に必要なのは電子レンジだけだ。


「ずっとそこに――縁ちゃんが立っている辺りにね、腕と首のないマネキンと、足と首のないマネキンがいたの。私のことを必死に探していたわ。見つかったら殺されると思ったから、ずっと部屋に隠れてたの。もうお腹ぺこぺこよ」


 あぁ、またいつものやつか――。姉がおかしなことを言っているのは分かっているし、そんなことがあり得ることではないことも理解している。ただ、それを頭ごなしに否定してしまうと、姉は癇癪かんしゃくを起こして、えらく混乱してしまうのだ。完全に肯定してもいけないと、主治医からもお達しを受けているのであるが、穏便に済ませるために、つい話を合わせてしまう。


「そう――。それは怖かったね。でも、もう大丈夫だよ。もうここには来ないって、さっき言ってたよ」


 縁がそう言ってやると、姉は本当に安心したかのように胸を大きくなで下ろす。


「良かった――。あんなのがしょっちゅう家に来てたら、きっと頭がおかしくなっちゃうから」


 縁の姉である彼女は山本円やまもとまどかといい、縁の唯一の肉親だ。ただ、ある事件のせいで後天性の統合失調症になってしまい、身の回りは全て縁が面倒を見ている。


「そうだね。今、ご飯の準備をするから、お姉ちゃんは部屋でもう少し待ってて」


 縁は表情に疲れを出さないようにしながら、姉に笑顔を見せるように努めた。姉は縁にだけは心を許しており、言動に不審な点はあるものの、ごく普通のコミニュケーションを取ることができる。主治医が相手だと完全に支離滅裂なことを繰り返すばかりなのであるが。


「縁ちゃん――。やっぱり、あのマネキンは坂田を探していたのかしら。なんとなくだけど、あのマネキン達、お父さんとお母さんに似ていたのよね。そうよ……きっと坂田を探していたんだわ」


 袋からカチカチに凍ったピザを取り出しつつ、縁は思わず手を止めてしまった。姉の口からその名前が出てくることは日常茶飯事であり、それもまたすっかりと慣れたものになっているはずなのであるが、どうにもこればかりは別問題になっていた。以前はすでに死刑が執行されたものだとばかり思っていたから、簡単にあしらうことができたのだが、今となってはそうもいかない。実際に坂田は生きていて、縁はその坂田と関わり合いを持っているのだから――。


「そうなのかもね。だから大丈夫だよ。もうここには誰もいない。私とお姉ちゃんだけ」


 縁が言うと、それで納得したのか、姉は気味の悪い笑みを浮かべながら、すっと部屋の中へと消えた。縁は小さく溜め息をこぼしつつ、とりあえず皿にのせたピザを電子レンジへと入れ、自分の部屋に荷物を置きに向かった。少しばかり深呼吸をする。姉の言葉に、自分が直面している現実に、改めて気付かされたからだ。動悸がしていた。


 そう、縁は手にすべきではない禁断の果実を手に入れてしまった。その果実には毒があり、存在そのものが許されぬもの。それは、坂田の死刑が執行されずに彼が生きているという事実。そして、どんな因果なのか分からないが、その坂田と接点を持つことができる0.5係に任命されてしまったことだ。


 これまでは、その果実が遠の昔に朽ち果てて腐ってしまったものだと思っていた。わざわざ腐った果実を手に取ろうとは思わないし、ましてや、それをかじってみようなどとは思わない。しかし、腐っていたとばかり思っていた果実は、縁の知らないところで新鮮なままぶら下がっていた。そして、それを手にする機会を縁は得てしまった――。


 当たり前だが縁には両親がいた。平々凡々ながら、しっかり者で優しい母と、少しばかり抜けているが気さくな父だった。両親と姉、そして縁。ごくごくありふれた四人家族だった。平凡でありながらも、何不自由なく過ごしていたように思える。


 ここから先は縁本人が覚えていないため、主に周囲からの伝聞になる。その日はごくごく当たり前の一日になるはずだった。事件が起きたのは肌寒い秋のことで、当時高校生だった縁は、いつも通りに布団へと入った。寝ている最中、何だか物音が聞こえていたような気がすることは覚えている。


 気がつくと病院のベッドだった。あの見知らぬ真っ白な天井は、今でも夢に良く見る。縁が目覚めたことに、親戚の叔父が慌てて医者を呼びに行ったことを覚えている。


 何が起きたのか、どうして自分だけこんなところにいるのか。そして、両親と姉はどこに行ったのか。何も分からないまま病院で日々を過ごし、退院してからはなぜだか親戚の家に世話になることになった。自分の家族はどうなったのか――。それを口にする度に、叔父と叔母に言葉を濁されていたような気がする。思い返せば、きっと未成年だった自分にはあまりにも残酷な現実を見せたくなかったのかもしれない。


 こうして親戚の家で暮らし始め、そして転入という形で新しい学校にも通い始めた縁。何がどうなって日常を失っていたのかは分からぬまま、新しい生活が始まってしまったのだった。


 ――真実を叔父から知らされたのは、それからほんの数ヶ月くらい後のことか。両親と姉の所在を毎日のように問う縁に、隠し立てできないと覚悟したのか、それともいずれは話さなければならないと思いながらも、話すきっかけがなかったのか。いつものように夕食を終えた後、そのままの流れで叔父の口から真実を聞いた。

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