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【9】


 どんなに経験を積んでも、どれだけ場数を踏んでも、突入の直前というものは緊張するものである。


 SATの三文字を背負った楠木は、突入の合図を待ち続けていた。犯人は人質をとっており、下手に刺激をしてしまうと人質にも危険が及ぶ恐れがある。もう長らく立て籠もっているがゆえに、犯人の体力も限界に近く、精神的にも磨耗している可能性が高い。もはや強行手段に出るしかないのは明白だった。このまま手をこまねくばかりで、万が一にも人質に危害が及んでしまったら責任問題になりかねない。


 まだか――。まだ突入の合図はないのか。そんなことを考えつつヤキモキとしていると、同じように待機していた隊員から肩を叩かれた。何事かと思って振り向くと、今度は両肩を掴まれて大きく揺さぶられる。こんな時に何をやっているのか。


「おい、大丈夫か? しっかりしろ!」


 肩を揺さぶられたと思えば、今度は往復ビンタである。どんな面の奴がこんなことをやっているのか――。確認してやろうと目を凝らす。すると、まるで狙っていたかのように投光器の明かりが目に入り、眩しさのあまり楠木は目を閉じる。


「何があったんだ? おい、起きろっ! 生きてるかっ!」


 投光器の光は眩しいわ、往復ビンタは地味に痛いわで踏んだり蹴ったりの楠木。ふと、現場にいたはずの自分が横たわっていることに気付く。相変わらず往復ビンタは続いていたから、無意識に手で払ってやった。


「おぉ、やっと起きたか――」


 安堵したかのような声を聞いて、楠木は、これまで見ていた光景が夢の類であったことを察した。投光器の明かりだとばかり思っていたのは懐中電灯の明かりだ。それを認識した途端、楠木はこれまでの出来事を一気に思い出した。気を失う前と同じく、真っ暗闇だったのが良かったのかもしれない。


「その声は確か、0.5係の……」


 懐中電灯の明かりが逆光になって顔は見えないが、声は何度も聞いたことのある声だった。正式にこのアンダープリズンへと0.5係が配属される前から、ここに出入りしていた唯一の刑事――。出入りする際の手続きが面倒だと、何度か文句を言われたことがあるから、なおさら声を覚えていたのかもしれない。


「あぁ、倉科だ――立てるか?」


 差し伸べられた手を掴んで起き上がろうとすると、頭がズキンと痛んだ。気を失う直前の記憶が曖昧なのであるが、恐らく鈍器か何かで殴られてしまったのであろう。


「――中嶋は? 中嶋はどうした?」


 頭の痛みを我慢しながら立ち上がると、そこに中嶋の姿がないことを思い出す。停電をしてからしばらく――楠木は暗闇の中で中嶋とはぐれてしまった。その直後、何者かに襲われて気を失ったと思われる。となると、中嶋も同一の人物に襲われた可能性が高いだろうし、近くで倒れているかもしれない。


「いや、この部屋の中には、お前さんしかいなかったがな。俺がここに来た時には、中嶋の姿なんてなかった……。一緒にいたのか?」


 倉科の言葉に頷くと、どうしても納得のいかない楠木は「ちょっと貸してくれ」と、倉科から懐中電灯を拝借。部屋の中をくまなく照らしてはみるが、しかし中嶋の姿はない。


「中嶋の奴――どこに行ったんだ?」


 ぽつりと漏らす。中嶋の身に何か起こったのであろうか。もちろん心配ではあるが、この広大なアンダープリズンを、しかも暗闇の中で探し回るというのは難しい。現状、楠木が懐中電灯を片手に中嶋を探し回るなんてことをしたところで、倉科が困るだけだ。まずは倉科と情報の共有をするところから始めるべきだろう。楠木は懐中電灯を返しながら話題を変える。


「なんにせよ、助けに来てくれたんだな。もう少し大所帯で来てくれるものだと思っていたがな――。まぁ、期待もしていなかったが」


 アンダープリズンの存在そのものが機密であり、大っぴらに助けを求めることができないような状態。上の連中は、きっと事件に対して騒ぐばかりで何もしないだろうし、組織そのものを大きく動かすこともしない。SAT出身で、それなりのしがらみを知っている楠木だからこそ、上の連中の保身的な性質は良く知っていた。まぁ、それでも0.5係の倉科一人だけなどという、完全に丸投げな形で助けが来るとは思っていなかった。今後は少し、0.5係に優しくなれるような気がする。


「あぁ、正直なところ俺自身がびっくりだよ。まさか俺一人になるなんて思ってもいなかったからな――。それで、状況はどうなってる? とりあえず、中嶋の奴がいなくなったってことは把握した。状況を掌握した後に探しに行こう」


 二人の間に社交辞令的な言葉はいらなかったのかもしれない。お互いベテランであるがゆえに、何を優先すべきなのか分かっているのだ。今は簡単でも構わないから情報の共有を行い、他の0.5係と合流すべきだ。中嶋のことを最優先としないわけではないのだが、闇雲に動いても仕方がないため、まずは態勢を整えるところから始める。


 楠木は事件発生から現状にいたるまでを、かいつまんで説明する。倉科は途中で何度か相槌を打ち、そして簡単な質問を交えながら、状況を掌握しようとしているようだった。


「――なるほど。思っていたよりも状況が悪いな。それにしても、坂田を独房から出すなんざ、上の連中が聞いたら泡でも吹いて倒れそうだ」


 状況を把握したであろう倉科は、小さく鼻で笑い飛ばしつつ続ける。それは、きっとお上のお偉さん方に向けられた嘲笑のようなものなのだろう。


「とにかく、ここが本庄とかいう女の部屋なのか――。俺は山本達とちがって常勤じゃないからな。名前を言われてもピンとこないが」


 状況説明ついでに、今の段階で容疑が浮上している人間のことも倉科には伝えてある。緊急事態であるから、こだわる必要もないのかもしれないが、楠木には逮捕権というものがない。一方、0.5係の倉科には、それらが現行犯であれば逮捕権が生じるはず。ゆえに被疑者については、特に詳しく倉科には伝えたつもりだった。


「あぁ、中嶋から聞いた話だが、どうやら今回の解放軍と同じような思想を持っていた男が、事件に一枚噛んでいるかもしれないんだ。で、本庄はそいつと男女の仲にあったとのこと。人のプライベートなんてどうでもいいし、女の部屋を漁るのも趣味じゃない。だが、ここまでのことが分かっている以上、調べないわけにもいかなくてな」


「それで、調べている最中に襲われたってわけか。だったら、この部屋を調べてから合流地点とやらに向かおう」


 楠木との情報共有を終えた倉科は、胸ポケットからジッポライターを取り出し、それを楠木のほうへと放り投げてくる。それを受け取ると、とりあえず石を擦ってみた。なかなか年代物のジッポであるらしく、手にしっくりとくるし、独特のオイルの香りが辺りに漂う。


「明かりの代わりにしてくれ。何もないよりはマシだろう?」


 倉科は懐中電灯を持っているが、楠木には明かりらしい明かりがない。それだと手分けして部屋を調べるにしても、楠木が手持ち無沙汰になってしまう。ジッポライターの明かりは、そこまで心強いわけではないが、もし倉科が来てくれなかったと思うと背筋が冷たくなる。流羽の部屋を調べるどころか、身動きひとつ取れなかったに違いないだろうから。


「――ありがたく拝借させて貰うよ」


 楠木と倉科。二人とも明かりを手にしたことで、流羽の部屋を調べ始める。この辺りはベテラン同士の阿吽の呼吸なのか。特に取り決めをしなくとも、自然と手分けをする形になる。

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