幕間【第一節】

 病院の待合室というものが、どうにも好きになれなかった。目も、鼻も、口も、耳さえないのっぺらぼうが、わけの分からない言語を操って、雑音を発する。口がないのにどうして喋ることができるのだろう――いつも彼女が疑問に思っていることだ。もっとも、全ての人間がのっぺらぼうというわけではないのだが、外で見かけるのは、圧倒的にのっぺらぼうのほうが多かった。


 白いワンピースに身を包んだ彼女は、待合室のベンチソファーに座ったまま、先日のことを何度も思い返していた。


 人の体にアイスピックを突き刺す感触。思っていたよりもあっさりと体の中に尖った金属が入っていき、本当に刺したのかと疑ってしまった彼女は、何度も殺人蜂の体にアイスピックを突き立てた。本当ならば殺してしまうつもりだったが、自分の立場が悪くなると面倒だったから、命までは取らないでやった。我ながら優しいと思う。あの時、どこかの部族仮面のようなものをかぶった天使が、天井の辺りでぶんぶんと鬱陶うっとうしい音を立てて飛んでいたが、きっと殺人蜂を迎えにきていたのかもしれない。その天使には悪いことをした。


 ふと、自分の名前が呼ばれたような気がした。彼女はふらふらと立ち上がり、診察室のほうへと向かう。ここには通い慣れていたから、のっぺらぼうの看護師に案内などされなくとも、どこに向かうのかは知っている。わざわざ看護師が近くまでやってきたが、それを無視した。看護師の服を着たのっぺらぼうに用事はない。それに、自分の名前を呼ぶ時以外は、なにを喋っているのか分からないのだから、相手にするだけ時間の無駄だ。


 小ざっぱりとした診察室に入ると、主治医の男がいつも通りの優しそうな笑みを浮かべて彼女のことを待っていた。相変わらず何匹ものゴキブリが体を這ってはいるが、この主治医はのっぺらぼうではなく、ちゃんと顔がある。もちろん、話す言語は日本語だ。


「山本さん。最近の調子はどんな感じですか?」


 主治医の男の名前は神谷かみやという。下の名前は知らない。少し髪の毛に白髪が混じった40代くらいの男だ。彼女がずっと世話になってきた先生である。


「とりあえず、まだこの時期は寒いから、そのワンピースだけってのはよくないね。また風邪をひいてしまうから――」


 先生の体を這うゴキブリがどうしても気になって、それを目で追う彼女。人の心配をする前に、自分の体を這っているゴキブリをどうにかしたほうがいいと思うのだが。


「まぁ、そんなところに立っていないで座って下さいよ。僕と幾つか世間話をしましょう」


 この先生は医者らしいことをしない。こうして診察して貰っても、ほとんど世間話をするだけで終わる。もっとも、彼女の中では数少ない話し相手だから、それはそれで構わないのであるが。


「周りの人達はどうですか? 相変わらず――顔がありませんか?」


 先生の言葉に彼女はこくりと頷く。すると先生は「そうですか」とだけ返し、話を変えた。


「最近、何か変わったことはありませんか? ささいなことでもいいんだけど――」


 先生の体を何匹ものゴキブリが這い回る。それは顔の辺りまでやってきて、左の耳から入って右の耳から出てきたりもする。気持ち悪くないのだろうか――。そんなことを思いながらも、彼女は口を開いた。


「あのね先生――。私、凄くいいことをしたの。何人もの人を殺した悪い奴をね、半殺しにしてあげたの」


 満面の笑みを浮かべているのが自分でも分かる。頭の中ではあの時の光景がフラッシュバックのように蘇り、ある種の恍惚感こうこつかんのようなものに包まれた。


「へぇ……。それはそれは。でも、殺しはしなかったんだね」


 先生は特に驚くようなこともなく、机の上に置かれたパソコンのキーボードを叩く。昔は手書きだったカルテも、今やパソコンで打ち込むだけだ。初めて先生に診て貰った時は手書きのカルテだったはずだから、先生ともかなり長い付き合いになる。


「いつか殺してやろう――って思っているの。ほら、この国は加害者に優しい国だから。どんなに悪いことをした人間でも、裁くことができるのは法律だけ。例え、死刑になったとしても、被害者や被害者の遺族が加害者を殺せるわけじゃないの。だから、せめて私が殺してあげないと」


 彼女が言うと、先生は大きく溜め息を漏らした。


「山本さん、どんな事情があったとしても、人を殺してはいけない。君が警察に捕まってしまうからね。人を殺したところで得をすることなんてないんだから」


「じゃあ先生、どうして世の中から殺人がなくならないの? あれはきっと、人を殺すことがとても楽しいからなんじゃないの? 損とか得とかじゃなくて、娯楽なんじゃないの?」


 彼女の言葉に、先生の体を這い回っていたゴキブリが、一斉にぴたりと動きを止めた。ただ、動きを止めたのはほんの一瞬だけのことであり、またしてもゴキブリは慌ただしく先生の体を這い回る。


「残念だけど娯楽じゃない。確かに、中には殺人に対して快楽を求めている特殊な人間もいるようだけど、少なくとも山本さんはそんな人間じゃないと、僕は思っている」


 人が人を殺す――。この行為は遥か太古より行われてきたものだ。よって、そもそも殺人という行為自体が、人間の本能として組み込まれているのではないだろうか。そうでなければ、人類が誕生してから長い歴史の中で、殺人という行為が現代にいたるまで引き継がれているわけがないのだから。


「先生がそう言うなら、今は止めておこうかしら。でも、気が変わったらやっちゃうかもしれないわ。私、気まぐれなの」


 人を殺してはいけない――。それは誰しもが認識している常識であると言える。だが、本質は誰も知らない。どうして人を殺してはいけないのかと問われて、まともに答えることができる人間が、果たしてどれだけいることか。


「その気まぐれが起きないことを祈っているよ――。まぁ、いざとなったら彼女が止めてくれるだろうけどね」


 先生の言う彼女とは、縁のことなのであろう。確かに、彼女は職業も職業であるし、必死になって止めに入ることであろう。実際、殺人蜂の一件でもしつこく詰問をしてきたのだから。


「そういえば、彼女は今どうしているんだい?」


「寝てるわ――。今日は非番だし、最近色々とあって疲れていたみたいだから」


 こちらが答えると、先生は改めてパソコンのキーボードを叩く。何やら打ち込んでいるようだが、字が細かすぎてよく読めない。自分では気付いていなかったが、視力が落ちてしまっているらしい。その割には、先生の体を這い回っているゴキブリだけは、はっきりと見えるのであるが――。


「まぁ、そうなんだろうとは思っていたよ。山本さんは、どういうわけだか、その辺りの気遣いがしっかりできているからね」


「褒めても何も出ないわ――。でも、そうね、私は優しいもの。これでも気を遣ってあげてるのよ」


 彼女はそう呟くと、すっと椅子から立ち上がった。特に理由はないのだが、そろそろ帰ろうと考えたからだった。強いて言うならば――先生とのお喋りに飽きてしまったというのが理由になるだろうか。この辺りの唐突な気持ちの切り替わりも、彼女にとっては平常運転だった。


「先生、そろそろ私は帰らなきゃ。それじゃあ、またね――」


 彼女の言葉に先生は苦笑いを浮かべ「あぁ、またね――」と、軽く手を振った。手を振り返しもせずに、そのまま鼻歌混じりで診察室を後にする。


 ゴキブリはずっと先生の体を這い回るばかりだったし、待合室にはのっぺらぼうばかり。しかしながら、彼女の心はどこか晴れやかなものになっていたのであった――。



 幕間【第二節】に続く

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