事例2 美食家の悪食【エピローグ】1

【1】


 駆け抜けるかのような数日間が終わり、縁は日常へと戻ってきた。もっとも、その日常自体が非日常的な事象で形成されており、0.5係になった瞬間から、日常とはなんだったのか忘れてしまったような気がする。


 特に、このアンダープリズンは、非日常の象徴ともいえよう。死刑が執行されたことになっているが、いまだに最深部で息を潜める殺人鬼――。それだけならばまだしも、その殺人鬼は外で起きている事件の解決へも一役買っている。このアンダープリズンに関与している人間は、関わった瞬間から、自分の知っている常識を破壊され、そして受け入れ難い真実を知りながら、非日常へと身をゆだねているのだ。縁達もそうであるが、ここで働いている人間だって、とんでもないとがを背負わされたものである。


 いつものように、人目につかぬように扉の前中に体を滑り込ませ、エレベーターで地下へと降りて、もう顔パスで充分ではないか――なんてことは言葉にできないまま、面倒なやり取りをして、ようやく中へと入る。ここが職場だというのだから、なんだか悪い夢を見ているような気がする。


 手抜き工事とまでは言わないが、明らかに突貫であっただろう、全面コンクリートむき出しの部屋。表にはそれらしく【捜査一課対凶悪異常犯罪交渉係】なんてプレートが取り付けられているが、中身は殺風景で冷たい印象の小部屋である。縁のデスクと尾崎のデスクがあり、なぜだか縁のデスクの上には黒電話が乗っかっている。アナログ回線がどうのこうの――というのは、機密保持の点から考えても納得できるが、わざわざ黒電話にする必要がどこにあったのか。今では滅多に見ることのなくなったダイアル式の黒電話は、本当に外部と繋がっているのかさえ疑わしい。まぁ、ここの電話が鳴らないに越したことはないのだが。


 椅子を引き出して荷物を置くと、縁は殺風景な部屋を見回す。せめてもの抵抗と、造花を挿した花瓶を尾崎のデスクの上に置いてみたのだが、なんだか余計にむなしい。これを持ち込もうとした際にも、検閲が云々と文句を言われたのだから嫌になる。むろん、ここに持ち込む個人的な物――縁の荷物だって、いちいち中身をチェックされるのだ。ここが職場であるというのであれば、その辺の取り決めなどを早急に整備して欲しいものである。


 本当ならば気持ちの良い朝――のはずだが、ここが地下であるせいか、その実感はない。無機質な蛍光灯が照らす地下空間は、まるで時間の感覚を奪ってしまっているかのようだった。


 ここに毎日のように通ったところで、基本的に0.5係の仕事はない。もっとも、仕事がないに越したことはないのだが、しかし地下に朝から晩までこもっていると気が滅入めいる。一日が終わって外に出ると、たかだか数時間――長くても十数時間しか地下に潜っていないはずなのに、まるで浦島太郎になったかのような感覚にさえ陥る。出入りする際には人目を気にしなければならないし、やはりアンダープリズンは外界から切り離された特別な世界なのだと思う。


 ――ここが職場になってから、色々と分かったことがあった。それは、まだ扱いとしては縁や尾崎のほうが遥かに恵まれているということだ。ここの職員……一応、刑務官という立場になるのであろうが、そちらの待遇のほうがよっぽど悪い。


 刑務官達は基本的に泊まり込みの交代勤務体制。しかも、一日単位ではなく数ヶ月単位でとのこと。これは、面倒なところに出入り口を作ってしまったがゆえの、後付けシステムみたいなもの――とは中嶋から聞いた話だった。


 当たり前であるが、アンダープリズンに出入りするには、歓楽街の中にある【人妻ヘルス】のそばから、人目を気にしながら出入りしなければならない。そして、アンダープリズンで一度に勤務する刑務官は、ざっと数えても十数人。この人数が出勤時間になると、ぞろぞろと【人妻ヘルス】の前に集まり、そして退勤時間になると、ぞろぞろと出てくる。これでは、さすがに周囲から不審に思われてしまう。それゆえに、数ヶ月単位で刑務官を駐在させることによって、そのリスクを低いところに留めているそうだ。0.5係が全て手探りであるのと同様、このアンダープリズンそのものも、いまだに手探りの段階らしい。住めば都――なんて中嶋は言っていたが、きっと負け惜しみであるに違いない。それに比べれば、時間になったら退勤できる0.5係はまだマシであるといえよう。しっかりと非番もあるわけだし。


 そんなことを考えつつ、とりあえずデスクに着席してみる。どうにも落ち着かない。こうして、また丸一日、特に何もせずに過ごすのだ。悪食の事件に関しても、その後のことは耳に入ってこないし、わざわざ坂田に会いに行く理由もない。まぁ、彼に会わなくて済むのであれば、それに越したことはない。やはり、彼と顔を合わせるのは――様々な意味で苦痛を伴うのだから。なんとか自分を保ちつつ接してはいるが、それがいつ途切れてしまうか心配になることがあった。


 坂田は自分の家族を奪った仇である。本人はきっと覚えてもいないだろうが、それは紛れもない事実だ。表面上は0.5係として、坂田と共に事件に挑む姿勢は見せているものの、彼はいずれ復讐すべき相手。それを決して忘れてはならない――。自分に言い聞かせる。


「おはようっす……」


 気だるそうな表情を浮かべながら尾崎がご出勤。自分の中に隠れている黒い部分を慌てて隠し、縁は「おはようございます」と、取り繕いながら挨拶をする。尾崎もデスクに着席するが、その途端に大きく溜め息を漏らした。


「あー、今日もきっと、何もせずに一日が終わるっすよ」


 この地下空間という独特な環境と、ここしばらく何もせずに毎日缶詰状態になっていることが、尾崎にとって相当こたえているようだ。仕事をせずに給与が貰える――なんて言うと聞こえはいいのだが、こんな息苦しい地下に一日中閉じ込められ、特にやることもなく過ごすというのは苦痛である。一日や二日ならばいいのだろうが、もうこんな状態がしばらく続いていた。


 尾崎が席についてしばらくすると、無機質なチャイムが流れる。これはアンダープリズン全体の始業点検の合図だ。歓楽街の地下で、それこそ存在そのものが機密であるのに、チャイムを垂れ流すのはいかがなものか。中嶋の話だと、無駄に防音だけはしっかりしているとのこと。他に力を入れる部分があったのではないかと思うのは縁だけなのであろうか。


 とにもかくにも、縁と尾崎の一日は、この始業点検のチャイムから始まる。24時間体制であろう刑務官達にとっては、始業点検というよりは交代のタイミングと言ったほうがいいのかもしれない。


 またしても無為な時間を過ごさねばならないのか――。先の長い一日のことを考えると溜め息が出たが、今日はどうやら救世主が現れる日だったらしい。チャイムが鳴ってしばらくすると、恐らく0.5係の実態を把握していないであろう倉科が、表向きだけは【捜査一課対凶悪異常犯罪交渉係】なんて立派な名前がつけられた、単なるコンクリートで固められた小部屋に入ってきた。


「――ここの居心地はどうだ? まだ慣れてないだろうから、何とも言えないだろうが」


 倉科にとっては挨拶のようなものなのかもしれないが、今の縁と尾崎に対しては、完全なる地雷である。


「最悪っす。ここにいると頭がおかしくなりそうっすよ」


 ここで遠慮せずに思っていることをぶちまけることができるのは、尾崎の強みであると言えよう。あまりにもストレートな言葉に、倉科も苦笑いを浮かべる。

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