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 警察法第一章総則第二条。警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当たることをもって、その責務とする。


 これは、言わば警察の使命であり、肝に命じておかねばならない責務だ。そのために尾崎だって丸暗記をしている。そして、特に重要視され、優先されるべきなのは、個人の生命、身体及び財産の保護。そう――警察の人間である以上、優先すべきは人命なのだ。それなのに、なんとも自分は無力なのだろうか。周囲の人を誰一人として救えていないのに、自分ばかりが逃げようとしている。守るべき人間を見捨てて、ここから脱しようとしている。尾崎の本心ではなく、結果的にこうなってしまったと言い訳はできても、刑事として失格だと思う。


「チョンマゲ――行けっ!」


 足を止めた尾崎を叱咤しったするかのごとく、流羽の声が響いた。混乱の渦の中にいるはずなのに、彼女が珍しく荒げた声が、やけに尾崎の耳には届いたのである。


「後で絶対に助けに来るっす!」


 包囲網を突破されたことに気付いた解放軍が、尾崎のほうへと一斉に銃口を向けてくる。尾崎は流羽達に向かって呟き落とすと、きびすを返して駆け出した。先に食堂の混乱を鎮圧すべきと考えたのか、それとも自己判断にいたることができなかったのか、尾崎を追ってくる者はいなかった。


 息を切らしながら走る、走る、走る――。何も考えずにひたすらに走る。どこかにまだ見ぬ解放軍のメンバーが潜んでいるのかもしれない……なんてところまで頭が回らなかった。そんな尾崎の足は、自然と地下のほうへと向く。


 もしかすると、武器となるものを手に入れたいと考えたのかもしれない。それとも、無意識に自分が慣れている場所――居心地の良い場所を求めたのかもしれない。なんにせよ、その無意識の行動が、結果的に吉と出た。


 目的地である0.5係の詰め所の前までやってくると、尾崎は呼吸を整えながら扉を開けた。ピンと張り詰めた空気、向けられた銃口には息を飲んだが、次の瞬間には空気がやや緩んでいた。


「――尾崎さん? どうやってここに?」


 拳銃を下ろしながら、溜め息をついたのは縁だった。続いて、アサルトライフルを構えていた楠木が、ゆっくりと銃口を逸らす。尾崎もようやく安堵の溜め息を漏らすことができた。


「その様子だと、どうやら食堂のほうでも動きがあったみたいだな」


 0.5係の詰め所にいたのは、縁と楠木――そして中嶋だった。どうして中嶋がここにいるのか。今度は尾崎が聞く番のようだった。お互いにお互いの状況が掌握できず、それを見兼ねたのか、縁がぽつりと漏らす。


「とりあえず、ここまでの状況をまとめてみませんか? お互いに混乱しているみたいですし」


 坂田を解放するという名目で、ライオンと一緒に食堂を出た縁と楠木。道中で中嶋との合流を果たし、そこで反撃に出たのだとか。中嶋は中嶋で、食堂が占拠された後になって、タイミング悪くアンダープリズンに戻って来てしまい、この事件に巻き込まれてしまったようだ。中嶋の存在があったからこそ、縁と楠木が反撃に打って出ることができたのであろうが、中嶋本人の立場に立って考えると、実に運の悪い話である。


 また、ついさっきの話になるが、外部へと助けを呼んだらしい。助けを求めた相手は倉科であり、こうしている今も奔走してくれているだろうとのこと。すぐに助けが来るというわけではないだろうが、外部に話が伝わっているというだけでも、気の持ちようが随分と変わってくる。


 縁達の話をあらかた聞いた尾崎。今度は自分の身の回りで起きたことを簡潔に説明することにした。食堂内で、職員による暴動――反撃の狼煙が上がったこと。それによって、再び人が死んでしまったであろうこと。流羽、桜、善財と脱出を試みたが、最終的に逃げ出すことができたのは自分一人だったこと。自分が情けないことを認めるみたいで抵抗があったのだが、洗いざらい全てを話した。


「お互い色々あったみたいですが、とにかく無事で何よりです。それで、どうしますか? 食堂のほうが大変なことになっているみたいですし、こっちにもある程度の戦力が揃っています。このままオズの魔法使い軍団をやっつけに行きます?」


「――いや、食堂に戻るのは危険だ。中嶋、お前が思っている以上に、あっちの戦力は大きいんだよ。幾ら、こっちが武器を有しているとしても、ライオン野郎から奪ったアサルトライフル一丁に、0.5係の拳銃が二丁だ。まぁ、何もないよりマシだろうが、戦力が集中している食堂に、これだけの武器で突っ込むのは焼け石に水。自殺行為だ」


 中嶋の言葉を遮るようにして、尾崎の気持ちを代弁してくれたのは楠木だった。食堂の状況を知らないからこそ、この程度の戦力でなんとかなると思ってしまうのだろう。はっきり言って、どうにもならない。指揮系統が乱れていようと、アサルトライフルの殺傷力が落ちるわけではないのだから。


「ならばどうします? このまま、ここで倉科さんがなんとかしてくれるのを待ちますか?」


 食堂は脱出できたものの、外には出られないことは、先ほどの話の流れで聞いている。倉科に助けを求めたらしいが、いつ助けに来てくれるかは分からない。食堂に引き返すにしても、戦力が違いすぎるし、下手を踏めば全員再び拘束されるなんてこともあり得る。流羽達を置いてきてしまった手前、食堂に戻りたい気持ちは誰よりも強いつもりではいるが、今はぐっと我慢だ。感情に任せて動いたところで、プラスになるとは思えない。


「いえ、ここの状況も刻々と変わっていくでしょう。詰め所で籠城ろうじょうするわけにもいかないし、かと言って食堂に向かうのも危険です。だとすれば――当初の予定通り、坂田のところに向かうべきです」


 縁がそう呟くと、楠木が大きく溜め息を漏らした。


「あれは、状況を切り抜けるための方便だと思っていたんだがなぁ。あんな奴を独房から出したら、何が起きるか分からないし、解放軍の要求を飲んでしまったことにもなるぞ」


 坂田のことをあまり知らない楠木からすれば、独房は言わばパンドラの箱の蓋。開けてしまえば、様々な災厄が飛び出す。けれども、そのパンドラの箱の底には、あるものが残されている。これは実に有名な話であるが、災厄が飛び出した箱の底には――希望が残っているのだ。


 坂田を独房から出すのは様々なリスクがあるだろう。鉄格子越しでさえ、こちらが拳銃を突きつけねば、意識もろとも取り込まれそうになってしまうような相手だ。九十九殺しの異名は嘘ではないし、独房から出したところで、ろくなことにはならないと思うのが普通だろう。解放軍の要求を飲んでしまうようで面白くないという気持ちも分かる。しかしながら、曲がりなりも坂田との付き合いのある0.5係にしか分からないことというものもあるのだ。


「尾崎さん、この状況で坂田を独房から出したら、何をしたがると思います?」


 当たり前だが、坂田のことを全て理解しているわけではないし、彼の性格を完全に把握しているわけでもない。けれども、尾崎に問うてみると、縁の考えとほとんど同じ答えが返ってきた。


「解放軍をぶっ潰そうとするんじゃないっすか? 彼にとって、解放軍の存在は、退屈な日常を覆す暇潰しであり、そして彼の興味対象っす。少なくとも、近場にいる自分達に危害を加えるなんて真似はしないっすよ。それは、やろうと思えばいつでもできそうなことっすから」

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