14
頭の中が真っ白になり、そして空っぽになる。目の前に突きつけられた現実に、自分の存在価値を問われているような気がした。自分へと問う。何のためにここにいる。何のために、わざわざ遠方の地へとやってきた。――事件を解決するためであって、遊びに来たわけではないのだ。後悔をして済むのならば、幾らでも後悔する。謝って済むものであれば、どれだけでも謝る。けれども、ミサトは戻ってこない。つい数時間前まで生きていたはずで、夢に向かって大きく踏み出した彼女は――もう二度と戻ってこない。
「ミサトちゃんをこんな目に遭わせた奴は――絶対に許さん」
黙祷を終えると同時に、安野がぽつりと呟いた言葉は実に力強く、けれども小さく震えていた。怒りは二次感情であると言われている。その根底には大元となる感情があり、それが引き金となって怒りとなる。悲しみ、悔しさ、情けなさ、不安――それらが入り混じり、きっと耐え難い怒りを引き出すのであろう。安野だけではなく、縁もまた怒りを感じていた。きっと尾崎だって同じだ。
何よりも縁に怒りの感情を呼び起こしたのは、遺体の欠損だった。これまでの犠牲者は両者とも指を失っていたが、ミサトは違った。同じ女性として同情さえする。――両耳がないのだ。まるでそこに初めから何もなかったかのごとく、すっぱりと両耳が消えてなくなっていた。これまでと同様の事件だとすれば、犯人はそれを喰らったことになる。
「――正しく、
唇を噛み締めた尾崎の言葉は、的を射ているなと思った。人の肉を喰らうなどという狂った行為は、それこそ悪食以外のなにものでもないだろう。
「とにかく、こうなってしまったのには、俺達の責任もある。今――やれるべきことをやろう。そう、悪食をとっ捕まえるために」
悲しみと怒りに取り巻かれた空気を、安野の言葉が打ち破った。はっきり言ってしまうと、気持ちの切り替えなんて簡単にできるものではない。まだ、目の前で横たわっている遺体がミサトであると認めたくないし、信じたくもない。しかし――しかし、彼女に対して縁と尾崎がしてやれることは、悲しみに暮れることでも、怒りに打ち震えることでもない。刑事としての本分を全うすることだ。もちろん、安野だって同じ想いであろう。
悲しんでいる暇などない。今は目の前のことを刑事として見つめなければならない――。自分にそう言い聞かせてはみるが、やはり罪悪感のようなものが心の中に残っていた。本当に悪いのは悪食であるが、しかし事前に凶行を阻止できなかったことが申し訳なくて仕方ない。
ミサトの死に直面したことで、縁の周りの時間だけが、世の中より早く刻まれていたらしい。ふと気がつくと、隣に鑑識係の腕章が見えた。見上げると、そこには浮かない顔をした麻田がいた。どうやら、ママに連絡をして戻ってきたらしい。守秘義務や規則――そんなものは、ミサトの死に比べれば些細なもので、もはや気にもならなくなっていた。
「思ったよりも取り乱されたけど、なんとか上手いことやっておいたから」
お店の女の子が死んだ。しかも、あのカウンター越しに聞いていた事件に巻き込まれてだ。そんな報せを受けて、取り乱すなというほうが無理な話だ。ママの心情を察すると同時に、改めて犯人――悪食に対する怒りが増幅される。
「そうか――」
安野はそこで言葉を切ると、改めて麻田のほうへと真剣な眼差しを向けて続けた。
「麻田。この事件を捜査本部に任せるなんて無粋なことはしたくない。今現在、分かっている範囲で構わない。全部教えてくれ」
今回で三件目。当たり前であるが、すでに捜査本部が設立され、安野もその傘下へと入っているのであろう。となると、捜査の指揮をしているのは安野ではなく、彼よりも階級の高い人間になっているはずだ。普通の会社で例えるのであれば、警部は部長クラスにすぎず、大きな事件ともなれば、その発言力もかなり弱まるのだから。
「そうくると思ってたわけ。まぁ、ここは目立つからさ、人の目がないところで――」
通常、鑑識官と刑事という存在は、付かず離れずの関係を保っているというか、直接事件の情報をやり取りしたりはしない。しかしながら、麻田と安野の関係は、どうにもそれを超越しているような気がする。なんにせよ、ここの現場では完全に余所者となってしまっている縁達は、安野の後をついて回るしかない。テープをくぐって現場から離れた安野達の後に続いて、縁と尾崎も現場を後にした。
安野と麻田は、現場から少し離れた――それこそ人目のないところで立ち止まる。遥か後方では、いまだに人が右往左往する現場が見える。ようやく辺りが明るくはなってきたが、辺りはひっそりと静まり返っていた。交通量が多くなってきたのか、頻繁に頭上が振動し、それが静寂に突き刺さるかのごとく降ってきていた。
「それじゃあ早速。言うまでもないことだけど、被害者は――
淡々と――そして冷静に言葉を並べ立てる麻田。ただ、被害者の名前を口にする時に、少しだけ
「死因は先生のところに回してみないと断定できないけど、恐らくこれまでの被害者と同じく、頭部に与えられたダメージによるものだと思う。切り取られた耳の周囲には、おびただしい出血痕があるし、生きたまま切り取られたものだと考えて問題ない。ちなみに、見える範囲だけしか調べてないけど、体の中心を通る印みたいなものも残されていた。間違いなく、例の食人鬼の仕業だ」
麻田は鑑識官としての見解を述べているようだが、それらは全て頭の中に入っているだけで、明確な資料としては提示されていない。スナックを訪れた時は、わざわざレシピのコピーまで持ってきてくれたが、今回の事件はまだ発生したばかりであり、そこまで手が回っていなくて当然である。
「――レシピは?」
安野は手帳を開き、忙しそうにペンを走らせながら問う。かくいう縁と尾崎は、直面した事実に打ちのめされてしまっていた。尾崎はどうだか分からないが、心はここに在らず――といった様子に見える。なぜなら、縁自身もそうであるから。
「残されていたよ。しっかりね。後日、隙を見て拝借するつもりでいる。コピーができ次第、安野さん達のほうにも流すよ」
犯行の手口は、前の二件と全く同じ。そして、決定的なのは現場に残されていたというレシピだ。この連続殺人事件そのものが、まだマスコミに公表されているものではないため、現場にレシピが残されているのを知っているのは警察関係者と犯人だけ――。すなわち、これは模倣犯などではなく、間違いなく同一犯の仕業である。
「あぁ、そうして貰えると助かる」
この二人のコンビネーションには、改めて驚かされる。刑事と鑑識官の距離が妙に近いというべきか、本来ならば後になって鑑識から回ってくる情報を、安野が先取りして仕入れているというべきか――。こうして人の目につかないところまでやってきて話をしている辺り、それがよろしくない行為であることは、二人とも自覚しているようだ。はっきり言ってしまうと型破りなのだ。
「とりあえず、今のところ分かっている情報はここまで。これから鑑識が被害者の所持物なんかを調べる手筈だから、情報が上がってくるのは少し時間がかかると思う」
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