「――ん、まぁ別に構わないけど」


 麻田はそう言うと席を離れ、縁の隣である角っこの席へと着席。先生は「サンキュー。助かるわ」と、麻田が座っていた椅子へと着席した。


「お二人とも、飲み物は?」


 二人が着席した頃合いを見計らってママが注文をとる。


「どうせ安野さんのキープボトルが馬鹿みたいにあるんでしょ? だったら水割りでいいや。ねぇ、知ってる? あそこの棚……一列全部安野さんが入れてるボトルだから」


 麻田はお手拭きを受け取りつつ、ボトル棚のほうを指差した。彼の隣に座っているのは縁だけだから、恐らく縁に対して話しかけているのだろう。初対面だというのにフランクすぎるというか、妙に馴れ馴れしい男である。それにしても、ボトル棚一列を使うほどボトルを入れてるなんて、どういうことなのだろうか。こっちの地域にしかない暗黙のルールがあるとか。そんな縁の疑問を見透かしたかのように、なんだか妙にわざとらしく麻田が声を上げる。


「え? どうして安野さんが馬鹿みたいにボトルをこの店に入れているかって? それはね、ここのママに事件を丸投げ――」


「あっ! 先生はどうする? 仕事に差し支えるというのならば、無理に飲まんでも構わんが!」


 なんだか安野が慌てた様子でカットイン。さっきもママが何かを言いかけた際に慌てて言葉を被せていたが、またしても麻田の言葉を遮るかのように会話を別方向に投げようとする。


「だからね、安野さんって、基本的に自分の手に負えない事件だと思ったら、真っ先にここのママに……」


 安野に割り込まれたものの、何事も無かったかのように改めて喋り出す麻田。その表情が緩んでしまっているのはなぜなのだろうか。


「あ、麻田! 腹減ってないか? なんなら、近場の高級寿司を頼んでやってもいいぞ!」


 必死な様子で割り込んでくる安野に対して、麻田は小さく鼻で笑って「じゃあ、特上握りで」と返した。麻田に弱味でも握られているのだろうか。安野は随分と憔悴しょうすいしているように見えた。


「――特上寿司なんて食べられないかもねぇ。これから話すことは、内容が内容だから。まぁ、肉料理じゃないだけマシかもしれないけど」


 そのやり取りをぶった切ったのは先生だった。持ってきた手提げ鞄の中からクリアファイルを取り出し、資料らしきものを漁る。その片手間に「私は烏龍茶でお願いします。お酒は世界が歪むから嫌なの」と、なんだか哲学的な理由でお酒を断る。酔っ払って平衡感覚を失うのが嫌なのだろうか。


「安野さん、始めちゃいましょう? 私も暇じゃないから」


 少しばかり緩んでいた空気が、先生の言葉ひとつで張り詰めたような気がした。さすがは法医学医というべきか、合理的に話を進めてしまいたいようだ。その点に関しては縁も大いに同意である。ここにきた目的は、安野達と親睦を深めるためではない。事件の話をするためだ。


「あぁ、そうだな――。それじゃ、早速始めようか」


 冷水をかけられて目を覚ましたかのように、安野はボロボロに使い込まれた手帳を取り出した。彼の刑事としての年季を語っているかのようだ。


「あ、あの――ママには席を外して貰ったほうがいいんじゃないでしょうか?」


 事件の話を始めるのは結構であるが、縁はずっと引っかかっていたことを言葉として具現化させる。ここに集まった人間は、法医学の先生も含めて全員が警察関係者だ。この間で情報を共有することは問題ないのだが、ママは完全なる部外者だ。部外者の前で、それこそマスコミも報道していない事件の話をするのはいかがなものだろうか。守秘義務に反するのは言うまでもない。


「あぁ、心配いらないわけ。この人、こういうの無駄に慣れているから――」


 麻田がママのほうを一瞥して呟く。つられてママのほうに視線をやると、微笑んで返された。


「で、ですが――」


 納得がいかずに食い下がってはみたが、しかし安野は「彼女は特殊だと言ったろ? その辺のことは心配するな」とだけ言い、事件の話をする準備をすべく、手帳をぺらぺらとめくる。部外者に情報を流出させることになってしまうが、それでいいのだろうか。そんなことを思いつつ、あまり強く言えない縁は、仕方なくその場の空気に従うことにした。尾崎は酒が入ったせいで、その辺りのことは一切気にならないような様子だった。酔った勢いで0.5係のことをばらしたりしないだろうな――そんな余計な心配事が頭をよぎった。


「事件が起きたのは先月の初旬のことだ。親不知と子不知の間を通る国道の中央分離帯で若い女性の遺体が見つかった」


 また犠牲になったのは若い女性か――。しかも先月の初旬ということになると、殺人蜂の事件と時期が少しばかりかぶっているように思える。季節は梅雨入り前だから、逆算して考えても間違いない。いつから、そんなに世の中は物騒になってしまったのだろうか。


「殺害されたのは中田未来なかたみく、20歳。この街の企業で、ごく普通の事務員として働いていた女性だ。こっちで一人暮らしをしていたようでな、遺体が発見される少し前に、無断欠勤を不審に思った会社の同僚から捜索願が出されていたようだ」


 てっきり、倉科のように資料のひとつでも用意してくれているだろうと思っていたが、どうやら安野は口頭のみで事件のことを話すつもりらしい。慌てて自分のメモ帳を取り出すと、早速ペンを走らせた。そんなところに、恐らく先生が用意してくれたであろう資料が回ってきた。さっき手提げ鞄から取り出したクリアファイルに入っていたものだ。それを見るなり、縁はペンを止めて、込み上げてきた胃液を必死に飲み込みつつ言葉を絞り出した。


「――酷い」


 その資料には、解剖結果が羅列されているようだったが、それよりも目を引いたのは、幾つか掲載されている写真だった。ぱっくりと頭が割られた女性の上半身を写したものと、なぜだか薬指だけがなくなってしまっている血まみれの両手を写したもの、そして体のおおよそ中心を走っている点線らしき奇妙な印を写したもの――全てが事件の残酷さを物語っている。


 酒の入っていた尾崎は、その衝撃に耐えられなかったのだろう。勢い良く立ち上がるとトイレに駆け込んだ。つられて胃液が再び込み上げてくるが、資料から目を離して必死に堪えた。どうしても遺体というものが苦手な縁ではあるが、きっとこの遺体の場合は、ごくごく普通の人間が見ても、胃液が込み上げてくるほどグロテスクなものであろう。事実、尾崎の資料を手に取ったママでさえ、手を口に当てて「うっ!」と、眉をひそめたのだから。


 頭は鋭利な刃物か何かでぱっくりと割られているようだ。恐らく脳みそであろうものが表皮と髪の毛にこびりついているのが生々しい。縁は視界の片隅に資料の写真を入れながら、ただただ吐き気と戦っていた。直視にたえないとはこのことだ。


「――情けないねぇ。まぁ、今回のやつが、かなりエグいことには違いないけど」


 トイレのほうに視線をやりつつ、涼しい顔をして呟く麻田。現場の鑑識にもたずさわったらしいし、少なくとも縁達よりは今回の事件の遺体に耐性がついてしまっているのだろう。――どんなに頑張っても慣れるようなものではないようにも思えるが。


「安野さん、続きをお願い」


 尾崎が離れてしまったことで一時的に中断はされたが、真っ青な顔で彼が帰ってくるなり先生が話の再開を促す。ごくごく当たり前のようにママも一緒になって話を聞く姿勢を見せるが、本当に問題ないのだろうか。資料は尾崎に返したものの、解剖記録だって、本来なら外部に漏らしていいものではないだろうに。いまだに込み上げてくる胃液を抑え込みながらも、そんなことを考えていた。いや、思考をそらすことによって、遺体の写真を頭の片隅にやってしまおうとしていたのかもしれない。

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