渡部美由わたべみゆです。よろしくね」


 水商売といえば、偽名を使った源氏名というイメージがあるのだが、ママから手渡された名刺には、名前が漢字で――しかもフルネームで記されていた。本名らしい。


「あ、山本縁です。よろしくお願いします」


 本来ならば名刺返しをしたいところなのであるが、まだ0.5係としての名刺は作っていなかった。前の肩書きの名刺ならあるのだが、なんだか身分を偽るような気がして出せなかった。仕方がなく、口頭にて自己紹介を済ませる。


「自分、尾崎っす!」


 尾崎にいたっては、元より名刺返しという風習が頭の中から抜け落ちているのだろう。わざわざ手を挙げて名乗る辺りが、それを如実に浮き彫りにしている。


「お、なんだ? 俺にもくれるのか?」


 縁と尾崎が名乗ったことに、改めて「よろしくね」と笑みを浮かべた美由は、常連であろう安野にも名刺を手渡す。もはや互いのことを知っている間柄であろうに。


「えぇ、実は名刺を新調したのよ。デザインが前のと変わってるでしょ? 今日届いたばかりなの。せっかくだから安野さんにも」


 ここで名刺を貰うのは初めてだから、名刺が新調されたことなど分からない。しかし、安野は名刺を見るなり「前のと、かなり印象が変わったなぁ」と呟く。


「でしょう? その名刺――ミサトが作ってくれたのよ。これまで店にお世話になったお礼だってね」


 ママはそう言うと、ほんの少し寂しそうな、それでいて嬉しそうな――そんな表情を浮かべた。


「ん? ミサトちゃん辞めるのか?」


 ミサトという名前は、この店に入ってすぐに聞いた名前だった。この店のスタッフで、今は買い出しに出ているはずだ――。完全なる身内話に耳を傾けつつ、出された水割りを口に含んでみた。焼酎という飲み物は、やはりあまり得意ではない。


「えぇ、今月一杯でね。ミサトが専門学生だったのは安野さんも知ってるでしょう? 通っていたのがデザインの学校で、今年の春に卒業してからは、小さなデザイン事務所で働きながら、まだお店にも出てくれてたのよ。まぁ、本業のほうが忙しくなってきたみたいだし、私も引き留めるわけにもいかなくてね」


「そうか――寂しくなるなぁ」


 安野はそう言うと、水割りを一口。なんだか、重苦しい空気というか、哀愁あいしゅうが店内に漂った。それを払拭するかのごとく、ママは手をパンパンと叩く。


「はい、しみったれるのはここまで。今日はミサトもラストまでいるから、ゆっくりして行ってよ」


 そんな話を聞いた後に、ここで事件の話をするというのは、なんとなく気が引ける。これは安野も想定外だったのか、苦笑いを浮かべていた。


「あぁ、そうだ。乾杯がまだだったな。せっかくなんだから、ママも一緒にどうだ?」


 縁はもう焼酎に口をつけてしまったし、安野もついさっき口をつけてしまった。それでも、この妙にしみったれてしまった空気を拭うには、乾杯も悪くないかもしれない。結局、後で事件の話をするのだろうし、別の意味でしみったれてしまうわけだが。――それにしても、やはりお客はいなくとも、店の人間がいる前で事件の話をするのはよろしくないように思える。


「えぇ、せっかくだから頂こうかしら」


 ママはそう言うと、手早く自分の水割りを作る。便宜上、全員の手元に飲み物が行き渡ると、安野が咳払いをしてグラスを手に取った。


「えー、それでは。わざわざこんな僻地までやってきてくれた山本さんと尾崎君の歓迎と、ミサトちゃんのこれからに幸多きことを願って――」


 安野が言っている途中で「ミサトのことは、本人がいる時のほうかいいんじゃないの?」と、美由が口を開く。正しくその通りであり、安野も言葉を詰まらせたが、そのまま強行するという荒技を見せた。


「かっ、乾杯っ!」


 あまりにも締まりのない乾杯に苦笑いを浮かべつつも、安野達と乾杯をする縁。ママはグラスを合わせた後、小声で「頂きます」と呟いてからグラスに口をつけた。縁も改めて口をつけてみるが、やっぱり焼酎の味は好きになれなかった。尾崎にいたっては、ロックであるのに一気に飲み干す始末。飲むなとは言わないが、自分達には本分があるわけだし、少しは考えて飲んで欲しいものだ。


 心配する縁をよそに、尾崎が三杯目のロックを飲み干した頃のことだろうか。来店を知らせるベルが鳴り響き、梅雨時期前の湿った空気が店内に流れ込んでくる。


「おぉ、遅かったな」


 振り返って口を開いた安野につられて振り返ると、そこには一組の男女がいた。男性のほうは髪の毛にウェーブのようなパーマをかけており、歳は縁より少し上といった感じだろうか。女性のほうは縁なしの眼鏡をかけており、長い黒髪を真ん中から綺麗に分けている。化粧はやや派手であるが、これまた縁より歳はやや上といった印象だった。


「思ってたより道が混んでたわけ。それと、先生のどうでもいいような仕事を、なんだかんだ手伝わされてさ――。タダ働きなんて俺の主義じゃないのに」


 男性のほうが言うと、それに対して女性が「進んで手伝ってくれたわけじゃないの? まぁ、何事も勉強よ、勉強――」と呟く。


 察するに、彼らが安野の呼びつけていた警察関係者なのであろう。明らかにちゃらちゃらとした様子の男性と、やや知的に見えながらも、どうしても派手目の化粧が際立ってしまう女性――。お世辞にも警察関係者には見えない。


「紹介しよう。こいつは麻田。こんな見てくれをしてるが、一応うちの所轄の鑑識官だ。今回の事件の鑑識にもたずさわってる」


 こちらへとやって来た二人のうち、まずは男性のほうの紹介をする安野。鑑識官というと真面目で堅物――こつこつと証拠を積み上げる根気強い印象があるのだが、彼のまとっている空気からは、そのような印象は一切受けない。面倒なことはすぐ投げ出してしまいそうなタイプに見える。


「あんた達が安野さんが泣きついたっていう他の所轄の人達? 遠路はるばるご苦労さんなわけ――。俺、麻田誠あさだまこと。よろしく」


 麻田はそう言いながら、気だるそうに尾崎と縁の間の席へと座った。やはり、どう見ても彼から鑑識官の空気が感じられない。もっとも、そんなことを口にできるわけもなく、縁は当たり障りのないように「よろしくお願いします」と、頭を下げた。それにしても、安野が泣きついたとは随分な言い草である。


「泣きついたわけじゃない。警察学校の同期の計らいで応援に来て貰っただけだ」


 安野がグラスを片手に答えると「さて、どうだか――」と、麻田は悪戯な笑みを浮かべた。場を取り繕うかのように安野は咳払いすると、今度は女性のほうへと視線を移した。


「で、こちらは法医学医の中谷先生だ。これから話す事件の司法解剖を担当して貰っている。専門家の意見も必要かと思ってね。今日は無理を言って来て貰ったんだ」


 安野に紹介された先生は、縁と尾崎に向かって軽く頭を下げた。立てば芍薬しゃくやく座れば牡丹ぼたん歩く姿は百合の花――なんてことわざがあるわけだが、正しく彼女のような立ち振る舞いの女性のことを指すのだろう。こちらに歩いてきた時の仕草、頭を下げる動作、どれひとつとっても妙に均整がとれていた。化粧がやや派手目なのが残念なくらいである。


中谷美華なかたにみかよ。どうぞよろしくね」


 縁達に向かって言うと、先生は続けてママのほうに向かって頭を下げた。ママはやや気遅れた様子で会釈を返す。どうやら、ママも彼女とは初対面のようだ。


「ねぇ、麻田君。私、そっちの席がいいんだけど代わって貰えない? 隅っこって、なんだか寂しくて好きになれないの」


 空いてる席は一番端――縁の右隣の席だけだった。そこに座るのかと思ったのだが、どうやら美華は麻田の座っている位置が良いらしい。変なこだわりであるが、端っこは両隣に人がいるわけではないから、やや寂しいような気がするというのは分からなくもない。

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