13

【2】


 あてがわれた警察寮の部屋の扉が勢いよくノックされたのは、まだ夜が明ける前のことであった。ようやく、うとうとしていたというのに叩き起こされ、縁は眠たい目をこすりながら、何とか起き出した。お酒がほんのりと残っているのが嫌でも分かった。


 なかば寝ぼけたまま、スーツに袖を通し、ストッキングを履いてからタイトスカートを履く。さすがに全く化粧っ気がないというわけにはいかなかったが、化粧をしている暇はなさそうだったがゆえに、化粧ポーチを持って部屋を飛び出した。


 根本的に男と女とでは、準備にかかる時間に違いが出る。これでも手短に準備をしたつもりであるし、化粧だってしていないというのに、すでに外には尾崎と安野の姿があった。二人とも飲みすぎのせいか、顔色が随分と悪いような気がする。


「待機番じゃないからって――こんなことになるなら飲むんじゃなかったな。まぁ、とにかく行くぞ!」


 何が起きたのか知らされないまま、走り出した安野に続く。尾崎は口元を時折おさえ「気持ち悪いっす――」と、実に具合の悪そうな様子を見せる。それにしても待機番ではなかった安野まで引っ張り出されるとは何事だろうか。ただ、どこか嫌な予感はしていた。言ってしまえば、縁と尾崎は食人事件のために派遣された立場である。その縁と尾崎に声がかかったということは――。


 外では赤色灯が踊っていた。安野が先にエンジンをかけていたのか、アイドリングの音が響いている。安野は運転席、助手席に尾崎が乗り込み、そして縁が後部座席へと転がり込んだ。パトカーの中は明らかに酒臭い。本来ならば模範となるべき刑事が、まだ酒が抜けきっていないというのに運転をするなど、あってはならないことである。それは安野だって承知しているだろうし、それでもハンドルを握るということは、のっぴきならない事態が起きているのだろう。


「単刀直入に言う。まだ断定はできないが、どうやらまた食人事件の犠牲者が出てしまったらしい。これから、その現場に急行する」


 安野の言葉と同時にサイレンがけたたましく鳴り、それが合図だったかのようにパトカーは走り出した。土地勘がない縁からすれば、どこをどう走っているのか全く分からない。とにかく、荒い運転に耐えること十数分。フロントガラスの向こう側に幾つもの赤色灯が見え、そこでジェットコースターのようなドライブは終了。スピードを緩めて、他のパトカーの後ろにつけるとギアブレーキを引く安野。


 結局、化粧をする余裕がなかった縁は、諦めてすっぴんで現場に出ることにした。女のたしなみとしては必要なのかもしれないが、今はそれどころではない事態が起きている。あの食人事件が再び起きた――すなわち、第三の犠牲者が出たということなのだろうか。


 現場は国道らしき大きな道路が通っている陸橋の下だった。昼間は車通りが多そうな国道だが、その真下は随分とひっそりとしていて、なんだか、じめじめしているようにも思えた。車が陸橋を通過する度に、辺りの空気がびりびりと震える。


 陸橋の真下を交差してくぐるような形で道路が引かれており、その道路の途中からは立ち入り禁止のテープが張り巡らされている。それをくぐると、所轄の捜査員やら鑑識官やらが右往左往している辺りへと向かう。道路は反対側からも封鎖されており、そのど真ん中に青のビニールシートが敷かれていた。ビニールシートが人の形に盛り上がっているのは、そこに遺体があるからなのであろう。投光器のエンジン音がうるさい。


「安野さん! やっと来たのかよ! まぁ、あれだけ飲んでりゃ仕方のないことだろうけど」


 こちらの姿を見つけたのか、鑑識官の格好をした男が駆け寄ってきた。一瞬、誰かと思ったが、その声はほんの数時間前に聞いたばかりの声だった。麻田だ――。


「とにかく早く来てくれって! とんでもないことになってんだからさ。なんだったら、ママにも連絡してやったほうがいいかもしれない」


 スナックで会った時と違い、なんだか麻田が狼狽ろうばいしているかのように見えた。服装が違うから印象まで異なって見えるのか、それとも本当に麻田が狼狽しているのか――。安野の袖を引っ張り、ビニールシートのところまで連れて行こうとする辺り、どうやら後者のようだ。


「麻田、そんなに引っ張るなよ。仏さんに対面する前に、まずは身元やらなんやらを知っておくべき――」


「身元なんてとっくに知ってるって! いいから、さっさと手を合わせてやれよ。刑事としてではなく、一人の常連として」


 麻田の言葉に背筋が冷たくなった。なんとなくであるが、麻田の様子に不吉なものを感じたのだ。それは安野にも伝わったらしく、ただでさえ二日酔いのせいで青白くなっていた安野の顔から、さらに血の気が引いた。


「――どういうことだ?」


 安野が麻田に問うが、麻田は首を横に振るばかり。嫌な予感を察したのか、慌てて手を合わせてから、安野は呼吸を大きく吐き出し、ビニールシートをめくった。


「なんてこった……。嘘だろ?」


 安野が感嘆の声を漏らす。縁は両手を口に添えて、大きく息を吸い込んだ。尾崎は呆然と、ビニールシートの下に現れた見覚えのある顔を見下ろしていた。


「ミサトちゃん――。どうして?」


 そう、そこに仰向けで横たわっていたのは、ほんの数時間前まで一緒にいたはずのミサトだった。頭は見事なまでにかち割られ、そして虚ろな瞳が空を見上げている。すっかりと変わり果ててしまってはいたが、それは間違いなくミサトであった。


 人の命の価値というものは、どれも平等である。それは分かっているつもりではあるが、ほんの少し前まで言葉を交わし、そして同じ空間にいた人間が、変わり果てた姿で横たわっているというのは、正直なところショックが大きかった。昔からミサトのことを知っており、そして嬉しそうに名刺を眺めていた安野からすれば、なおさらのことであろう。


 絶句――。安野、縁、尾崎の三人は、ミサトの変わり果てた姿に、しばらく言葉も出なかった。いつもならば、遺体を直視することにすら拒絶反応が出る縁であるが、今日はいつもと違って遺体に向き合うことができていた。きっと、本能的なものよりも怒りと悲しみの感情が勝っていたからなのかもしれない。


「――麻田、今ちょっと現場を抜けられるか?」


 長い沈黙の後、安野が溜め息混じりに口を開いた。それの意味を察した麻田が「ちょっとだけならね。ママに電話を入れておけばいい?」と漏らす。安野はかすれた声で「あぁ、頼む」とだけ呟いた。遅かれ早かれ訃報はママの元へと届けられることであろう。しかしながら、安野は一刻も早く知らせてやりたかったのかもしれない。正式な手続きを踏まずにミサトが殺害されたことをママに伝えるのは、きっと守秘義務に反することであろう。しかしながら、これくらいのことは許されるべきである。――規則より大切なものは、数え切れないほどあるのだから。


 現場から離れる麻田の姿を見送り、改めてミサトのほうへと視線を移すと、今度は沸々と怒りが湧いてきた。無意識に拳を握りしめた自分がいる。それは、凶悪な事件が起きているにもかかわらず、悠長に酒なんて飲んだ自分達に対して、そしてミサトの命を奪った殺人鬼に対して向けられたものだった。


 ――遺体を調べるなんてどころの話ではなかった。自分達の愚かさと無力さを突き付けられ、ただただ心の中でミサトに謝罪することしかできない。つい数時間前までは元気だったのに。ようやく夢に向かって大きな一歩を踏み出し、希望に満ちあふれていたというのに。どうして彼女が殺されなければならなかったのであろう。


「ミサトちゃん――すまん」


 安野は深々と頭を下げると、そのままの姿勢で固まった。現場の慌ただしさの中に、鼻をすする音が聞こえたように思えたのは、きっと気のせいではないのだろう。しばらくすると目尻を拭い、安野は改めて手を合わせた。縁達も手を合わせる。そこには冥福を祈るというニュアンスよりも、申し訳なかったという謝罪の意味が強く込められていた。

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