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「あ、それ? だってぇ、なんか名前に【太る】なんて意味の漢字が入ってるの嫌だからぁ。私がデザインした名刺くらい、ちょっと変えてやろうと思ってぇ」
なんとも理解しがたい理由ではあるが、どうやら名刺の名前は誤字というわけではなく、ミサトがわざとやったものであるようだった。まぁ、ここは夜の店であるし、源氏名という形で解釈すれば、漢字の変更はありなのかもしれない。
「あぁ、そういうことなのか。それならそれでいいんだが――」
安野は納得したかのように頷くと、名刺を内ポケットの中へと仕舞った。それとほぼ同時に来店を告げるドアベルが鳴る。先生が戻ってきたものかと振り返ると、しかしそこには先生ではなく中年の男二人組がいた。
「いらっしゃいませー」
ミサトが出迎えに向かうと、安野が皮肉っぽく「今日は大入りだなぁ」と呟く。
「ミサトが辞めるって話が常連さんの間でも広がってるからね。わざわざミサトがいる日を狙って来てくれるお客さんが、最近多いのよ。まぁ、ゲンさんとムラさんは一昨日もきていたけど」
そう言いつつ、ミサトが二人組の常連を案内したテーブルを見つめ、なんだか少しばかり寂しそうな表情を見せるママ。テーブル席では、おしぼりより先にミサトが名刺を渡していた。同じように名前の違いを指摘されているような会話も聞こえてくる。ゲンさんとムラさんと呼ばれているくらいだから、よっぽどの常連なのであろう。
ミサトがカウンターを離れ、常連二人組の相手を始めてからしばらく。ようやく電話を終えたであろう先生が戻ってきた。
「ごめんなさい。ちょっと戻らなければならない用事ができたわ。こっちの要件はあらかた済んだみたいだし、悪いけど私はこれで――」
席に戻ってくるなり、先生は財布を鞄から取り出した。安野が「あぁ、ここは俺が出すから」と慌てて言うと「そう? じゃあ、お言葉に甘えて」と、財布を仕舞って鞄を拾い上げる。
「――事件のことについて知りたいことがあったら連絡してちょうだい。逆に、何か新しい発見があれば、そっちに連絡を入れるわ」
先生は安野に向かってそう言い、安野は「悪いな。助かります」と返し、そして先生は頭を下げると、店から出て行ってしまった。
「さて……だったら俺も帰るかねぇ。明日も早いしさぁ」
それがきっかけだったかのように、今度は麻田が立ち上がり、帰り支度を始める。
「麻田、無理を言って悪かったな」
安野の言葉に麻田は立ち上がりながら「いつものことだから慣れてるわけ」と、可愛げのない返し方をすると、麻田は帰ってしまった。
麻田が店を後にしたからなのか、いよいよ本格的にお開きという雰囲気になってきた。明日からどのように動くのかさえ、まだ安野からは聞かされていないのだが。
「麻田と先生も帰ったことだし、明日からの流れを話しておこうか。明日は俺と一緒に、事件現場を見て回ろう。そこまで早くから動くつもりはないから、ゆっくり体を休めてくれ」
簡単ながら明日の動きを説明してくれる安野。事件の現場を回って見せてくれるそうであるが、果たしてそこから何かを掴むことができるのであろうか。とにかく、今日は解散ということらしい――。
「ママ、俺もロックで貰おうか」
しかし、まだまだ帰る素振りは見せない安野。そこに尾崎が便乗するかのように「やっぱり、男は黙ってロックっす!」と空になったグラスを差し出す。安野が「お、かなりイケる口だねぇ」なんて言い出すし、尾崎は尾崎で「今日はとことん付き合うっす!」などと言い出す始末。ここに何をしに来ているのかを考えて欲しいところだが、そこまで堅く物事を考える必要もないのだろうか。ここまでのノリを見せられてしまうと、自分が堅いのか、尾崎も安野が緩いのか分からなくなってしまう。
尾崎も大分お酒が回っているようだし、しばらくしたら帰ると言い出すであろう――。そんな甘い考えを抱きながら付き合うこと二時間。二時間である。すっかりと出来上がってしまった安野と尾崎は、刑事とはなんぞや――などということを語り出すし、ミサトが相手をしている常連さん達によるコンサートまでもが始まってしまう。誰にだって息抜きは必要であるし、待機番でなければ酒を飲んでも構わないとも思うが、二人に限っては完全に飲みすぎだ。
「ママぁ! そろそろシメのラーメンだ。いつものところの岩のりラーメンを頼んでくれ」
二人に付き合っている縁を
それにしても、ママの犯罪に対する知識には驚かされた。全て推理小説の受け売りらしいが、縁と渡り合えるほどの知識を有している人間は、警察関係者の中にもいないだろうに。特に殺人蜂の事件にたずさわっていたことを話した時の食い付きようは、半端ではなかった。
「ママー! こっちにも岩のりラーメンねぇ!」
安野の言葉がボックス席まで届いたのか、ミサトが手を挙げながらラーメンの注文に便乗した。
ミサトとボックス席の常連は別にして、カウンターにいる人間は、ほんの数時間前まで食人殺人の話をしていたのだ。酒が回ってすっかりと忘れて飛んでしまったのか、それともシメのラーメンは別物なのか。縁も、まだ少しばかり胃がムカムカとしていたが、ラーメンと聞いてお腹が鳴るのだから、人体というものは不思議である。いや、ラーメンに秘められた魅力のせいなのかもしれない。
こうして、辺りに漂う酒臭さと戦うことしばらく。店のドアベルが鳴り響き、オカモチを両手に持った女性が入ってきた。ぱっと見た感じでは華奢な印象であるが、恐らくラーメンが何杯も入っているであろう岡持ちを両手に抱えるとは、中々にパワフルである。
「お待たせしましたー。楼々軒でーす」
息を切らしている辺り、車やバイクなど使わず、ここまで走ってきたのであろう。こんな時間に出前を頼んだにもかかわらず、嫌そうな顔は微塵も浮かべていない。化粧っ気のないソバカスだらけの顔には満面の笑顔があった。
「おーおー、
ただでさえ中年なのに、酔っ払っているせいか、完全に呑んだくれ親父と化している安野が手招きする。常連さんにいたっては、スタンディングオベーションをする始末だ。この酔っ払いのノリには、ちょっとついていけない。
「お待たせしちゃってごめんなさい。ちょっと店のほうがばたばたしてたもので――」
絵梨子と呼ばれた女性は頭に三角巾を巻いており、いかにもラーメン屋の娘といった印象だった。いや、楼々軒だなんて名乗るくらいだから、中華料理屋か。
「いやいや、いいんだよ。看板娘の笑顔が見れるだけで。なぁ!」
安野は物凄く嬉しそうな表情を見せると、どういうわけだか常連のほうに同意を求める。常連も常連で「そうだそうだ」と、完全に安野の言葉に同意する。
「そんなに褒めたって、何にも出ませんよー」
お店の看板娘であろう絵梨子は、舌を少しばかり出して、おどけてみせた。なんというか――美人というわけではないのだが、その仕草などに愛嬌がある娘である。看板娘として親しまれているのも、安野達の反応を見れば明らかだ。
「はい、それじゃあ、岩のりラーメンでーす」
社交辞令というべきか、面倒くさい酔っ払い達の相手を軽くしてから、彼女は仕事にとりかかった。オカモチの蓋を開くと、ボックス席とカウンター席へとラーメンを配膳する。
ぴったりと張り付いたラップをはがすと、立ち上る湯気に乗って、良い香りが漂ってくる。スープに浮いた背脂、チャーシューにメンマ、ナルトに青々としたほうれん草。そして、スープの湯気でしんなりとした岩のり。これが不味いわけがない。匂いだけでも充分に美味いことが伺える。
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