【2】


 どうして、こんな勝手なことをしてしまったのであろうか。上司である倉科には相談できなかったとはいえ、同志ともいえる尾崎にならば相談することができたのではないか。時間も遅いし、一日捜査をしていたからと気を遣っている場合ではなかったのかもしれない。


 覚えているのは、例の進学塾を訪れたところまで。まだ辛うじて塾は開いており、そこに殺人蜂のことを改めて訊きに行ったのだ。殺人蜂がどこに住んでいるのか――家族構成はどうか、連絡先は――。とにもかくにも、ある人物の言動に引っかかりを覚えた縁は、それが気になって仕方がなかった。それに、こうしている間にも犠牲者が増えてしまうかもしれない。一刻も早く凶行を止めねば――そんな使命感に突き動かされていたのかもしれなかった。


 その結果がこれだ。塾を後にした直後、背後から物凄い衝撃に襲われた。今をもってしても頭がズキズキと痛むから、きっと後ろから頭を殴られてしまったのであろう。それから、どのようにして運ばれたのかは分からないが、気がついたらどこかの廃墟らしき場所の中だった。


 ご丁寧に両手を後ろ手に縛られ、足もくるぶしの辺りでしっかりと結束されてしまっていた。殴られてからどれだけ時間が経過していたのかは分からなかったが、とにかく連絡を取らねばならないと思った。


 普段はバッグの中に入れて持ち運ぶのであるが、家を出る際に慌てていたせいか、ポケットの中にスマートフォンが捻じ込んであった。それをなんとか取り出せないものかと、身をよじらせ、色々と体勢を変え、ようやくスマートフォンが床に転がり落ちたのが、ついさっきの話だ。


 後ろ手に縛られたままロックを解除すると、尾崎からメールが届いていることに気付いた。そこで日付が変わっており、本来ならばアンダープリズンに向かっているはずの時間であることを知った縁は、尾崎のメールに従ってアンダープリズンへと電話をかけた。手は縛られていたものの、指先は自由に動かせたおかげで、そこまで手間は取らなかった。


 スマートフォンをスピーカーの状態にして、倉科と連絡が取れたまでは良かった。後で説教が待っているものの、これで助かったと思った。自分勝手に行動を起こしてしまった自分を反省したし、倉科達に迷惑をかけて申し訳ないとも思った。しかし、その電話は止むを得ず、途中で切らなければならなくなった。その理由は――実にタイミング悪く殺人蜂がやって来てしまったからだ。


 恐らく背後から殴られ、そして気が付いたら廃墟らしき場所で監禁されていたのだから、殺人蜂の顔を直接見てはいない。漠然とした直感と、ある人物が漏らした一言が引っかかっていただけで、確証なんてものも全くなかったのだ。


 殺人蜂は、縁が外部と連絡を取っていたことに気付くと、その手に握ったアイスピックを振り上げ、縁のほうに向かって振り下ろした。両手両足を拘束されてしまっている縁は、声を上げながら横に転がることしかできず、だが辛うじて殺人蜂の一撃をかわすことができた。その代りにアイスピックは、床に置いたままだった縁のスマートフォンに突き刺さってしまった。


「こ、ここここここここっ! 困るなぁ。この女を抱くつもりなんてなかったのにぃ。ぼ、ぼぼぼぼぼっ! 僕は若い女がいいのにぃ!」


 アイスピックをスマートフォンから引き抜きつつ、左手で頬をさする殺人蜂。その風体は、前に会った時と全くの別人になっていた。


「で、でででっ! でも! お前だって思っていたんだろう? み、みみみみ! みずほらしい男だって。心の中で馬鹿にしてたんだろう?」


 スマートフォンからアイスピックが完全に引き抜かれた。ふらりふらりと、殺人蜂が縁のほうへと歩み寄ってくる。縁は芋虫状態であり、何度も殺人蜂の悪意を回避することはできないだろう。


「お、おおおおおおおっ! 女ってのは、これだから駄目だ。どいつもこいつも、僕を見下した目で見やがって。ぼ、ぼぼぼっ! 僕が怒ると怖いんだぞ!」


 身動きが取れない状態でも、なんとか身をよじらせて殺人蜂から離れようとする。だが、その一心で離れている間に、とうとう部屋の隅まで追いやられてしまった。倉科に連絡を取ってから、まださほど時間は経っていない。これですぐさまパトカーのサイレンが聞こえるのは、それこそ刑事ドラマだけの話だ。


 殺人蜂がアイスピックを振り上げた。もう逃げ場がない。こんなところで終わってしまうのか――。自分勝手に動いてしまったのは自分なのだから、完全に自業自得であるが、まだ自分にはやるべきことがあるのだ。そう――両親を殺害し、姉をあんな風にしてしまった坂田への復讐が。


「い、いいいいっ! 痛いのは最初だけだよぉ。す、すすすっ! 直ぐに気持ちよくなるからねぇ!」


 もう駄目だ――。アイスピックが振り下ろされる瞬間、覚悟を決めた縁は目を閉じた。だが、次の瞬間、ふっとどこからか物音がした。目を開けると、ひとつの影が殺人蜂に体当たりをする瞬間が目に飛び込んできた。


 突然の乱入者に驚いたのは縁だけではなかった。当然ながら、殺人蜂本人もまた、ここで第三者が飛び込んでくるとは思ってもいなかったのであろう。目の前で繰り広げられる殺人蜂と第三者の取っ組み合い。最終的には第三者が殺人蜂を勢い良く突き飛ばした。カラカラと音を立て、アイスピックが部屋の隅へと転がった。


「ごめんね。あいつが本性を現すまで、出てくるわけにはいかなかったんだ」


 その第三者は、急いだ様子で縁のほうへと駆け寄って来て、まず足の拘束を解いてくれた。殺人蜂は突き飛ばされた勢いで仰向けに倒れ、とりあえず立ち上がってくる様子はない。


「こいつがやったこと――全部動画で録画してある。後は、これを警察に持っていけば、雪乃の仇が取れるんだ。ずっとあいつが犯人だと思っていたけど、決定的な証拠がなくて――」


 続いて手の拘束が解かれた。これで縁は自由の身となった。もし、彼が――がここにいなければ、きっと縁は殺人蜂の六人目の犠牲者になっていたことであろう。そう、飛び出してきた第三者の正体とは、あの高校生……広瀬だったのである。少しでも彼のことを疑ってしまったことに、申し訳ない気持ちで一杯だった。


「ありがとう。助かったよ――」


 縁が礼を言って立ち上がろうとすると、広瀬が部屋の隅に向かって身構える。そちらに目をやると、殺人蜂が起き上がるところだった。


「ど、どどどどっ! どいつもこいつも馬鹿にしやがって! ほ、ほほほほっ! 本気さえ出せば、僕だって――僕だってぇぇぇぇ!」


 立ち上がるや否や、こちらに向かって駆け出してくる殺人蜂。相手は凶器であるアイスピックを見失ってしまっている。それに、広瀬が一緒にいてくれるおかげか、妙に冷静でいることができた。


「広瀬君! こっち!」


 殺人蜂の標的は、縁から広瀬へと切り替わっていたらしく、その動きを見極めた縁が広瀬の腕を引っ張った。殺人蜂は狼狽ろうばいしているのか、そのまま広瀬の脇を駆け抜けて行き、そして自ら蹴つまずいて前のめりに転んだ。必死に両手足をばたつかせながら「くそぅ――くそぅぅぅ!」と奇声を上げる。それを見て、縁は自分の本分を思い出した。


「五人の殺人容疑――そして、私に対する監禁及び殺人未遂で貴方を逮捕します。殺人蜂――いいえ」


 縁がそこで言葉を切ると、殺人蜂が動きを止めて、顔だけ縁のほうへと向けてくる。その表情には、あの時の余裕など全くなかった。尾崎と縁を塾の中へと案内してくれた時は、爽やかな青年を演じていたというのに。


「――岡田さん!」


 そこにいた殺人蜂の正体は、縁達を塾の中まで案内してくれたアルバイト講師――岡田であった。

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