そう言うと、さっさと会計を済ませてしまう倉科。尾崎はエビチリをタッパーへと詰めて貰い、それを大事そうに抱えていた。そんな尾崎を見て、縁は小さく溜め息を漏らす。あくまでも研修という名目で倉科の管理下にいる縁であるが、尾崎を見て刑事という仕事を判断して欲しくないものだ。


 店を出ると、倉科は「ついてこい」とだけ漏らし、ネオンの輝く神座の街を歩き出した。平日の夜ということもあり、客足は随分と少ないようではあるが、それでもスーツ姿の団体だとか、髪の毛を金に染め上げた若者の集団などが見受けられる。女性に無視をされてもしつこく声をかけようとする学生らしき男達の姿に、倉科は日本の平和を見たような気がした。相変わらず所構わず声をかけてくるキャッチセールスの姿にさえもだ。まさか、この歓楽街の地下で凶悪な殺人鬼が息を潜めているなど、誰も知る由がないであろう。


 ――正式に0.5係が認められることになった。


 日本酒を倉科のお猪口ちょこに注ぎながら呟いた法務大臣の姿が脳裏に浮かぶ。


 ――これまでは兼任という形で君に任せてきたが、ほら……殺人蜂の犠牲者も増え続ける一方だ。そこで一部から兼任ではなく専任の人間が必要であるという話が出てね。


 今思い返しても、無神経なことを言ってくれた叔父には腹が立つ。さっさと酔わせて丸め込んでしまおうという魂胆こんたんが丸見えであり、乾杯の一杯以降、倉科は一切お猪口に手を伸ばそうとはしなかった。


 ――それに、君もそろそろいい歳だ。もちろん、これまで通り兼任という形で0.5係に関わって貰うが、そろそろ君の業務を引き継ぐ人間が欲しい。そこで、こちらから候補となる人間を選定させて貰ったよ。


 この時ばかりは、尾崎と縁に心から申し訳ないと思った。どうせ叔父のことだ。他の場所から候補者を引っ張ってくるよりも、倉科の部下から引っ張ってきたほうが話が早いと思ったのであろう。つまり、倉科の部下でなければ、彼らもこんな面倒なことに巻き込まれずに済んだかもしれない。


 ――尾崎裕二君と、山本縁君。協議を重ねた結果、彼らに白羽の矢が立ったんだ。



 そこで思わず声を荒げてしまったことを倉科は覚えている。将来を決める権利は、当たり前のことだが本人にある。それなのに、白羽の矢が立ったなどと言って勝手に候補者にされても困る。そもそも、縁はキャリアであって、研修のために一時的に倉科の下にいるだけだ。現場のことは分からないのだろうが、0.5係の候補者にするなどもってのほかだ。


 彼らには彼らの人生がある。尾崎は今後の指導のやり方によっては、有能な刑事へと大化けするかもしれない。その資質があることも倉科は見抜いている。しかも、山本縁はキャリアであり、将来が有望な人物。現場は少し苦手なようであるが、いずれは警察組織に大きく貢献することだろう。――多少は話を盛った部分もあったが、お上さんの身勝手で部下の将来を決められては堪ったものではなかったから、倉科は必死に二人を弁護した。


 ――すまないが、決定事項なんだ。


 叔父から返ってきた言葉に、倉科は思わず胸倉を掴んでぶん殴りたくなった。いや、実際に酒がもう少し入っていれば、本当にやったかもしれない。しかしながら、ほとんど素面しらふだった倉科は、叔父の表情から切実な訴えがにじみ出ていることに気付けた。叔父もまた、さらに上の人間から告げられたことを倉科に伝えているだけだ。だとすれば、どこに怒りをぶつければいいものなのか。


 そこで二人の会話が途切れた。しばらく続いた沈黙を先に破ったのは、倉科のほうだったと思う。今思い返すと、苦し紛れの言い訳にしてはリアリティーがあったし、正当性もあったように思える。


 倉科はある提案を叔父にした。0.5係を増員しようとするのは結構なことだし、自分の負担が減ることも事実である。しかしながら、坂田は気性が荒く、また天邪鬼なところがあるため、気に入った人間でなければまるで相手にしない。これは嘘でもなんでもなく、事実だった。坂田は気に入った人間でなければ受け入れない。警察の――いいや、政府の身勝手な判断のせいで、死刑も執行されないまま、地下深くの監獄に閉じ込められているせいか、警察という身近な存在を敵視している。警察を小馬鹿にするような彼の態度には、それ相応の理由があるというわけだ。


 だから、せめて二人が坂田に受け入れられるか否かを確かめてから、返事をさせて欲しい――。この提案に、当然ながら叔父は渋い表情を浮かべた。なんせ、二人を0.5係に組み込むことは、他人の人生などゴミのようにしか思っていないお偉いさん方の決定事項なのだ。お偉さんを並ばせ、正座をさせた上で、人権という言葉の意味を理解できるまで叩き込んでやりたい。


 結局、倉科の説得により、叔父のほうが先に折れてくれた。二人が坂田に受け入れられないとなれば、それは決定事項を覆す立派な言い訳材料となる。叔父も大義名分を立てることができるのだから、お互いにそうすることにデメリットは生じない。事実、坂田に受け入れられなければ、0.5係など務まらず、結果が出ないとなれば、叔父の立場が悪くなるのが目に見えている。


 二人は倉科の思惑や苦悩など知らずに、世間話をしながら後についてくる。キャリアとノンキャリアの間に全く溝がない姿をちらりと見て、ますます0.5係などにするものかと思った。


 国の決定事項であろうが、務まらないと証明できればくつがえす隙は生じる。こんな思いをするのは自分だけで充分だ。いや、自分だって兼任という形だからこそ、これまでやって来れたのだ。もし専任ともなれば、本格的に二人は潰れてしまうかもしれない。


 重い足取りのまま、倉科は【人妻ヘルス】の前までやって来た。どうにも気が重い。もし、坂田が二人のことを気に入ってしまったら、それこそ言い訳が通用しなくなってしまうだろう。できる限り坂田に嫌われるようにアドバイスをしてやりたかったが、あいつはとにかく天邪鬼である。普通の人間が不愉快に思うことを、逆に愉快に思ってしまう節がある。余計な事前情報を二人に与えることは、あえてしたくなかった。


「ここだ――。言っておくが、ここから先で見たことは機密事項になる。勝手なことを言っているのは分かっているが、口外しないで貰うとありがたい。お前達のためにもならんだろうからな」


 機密など、もはやどうでも良かったのであるが、彼らの進退に影響するのはよろしくない。黙っていられるのであれば黙って貰っていたほうが良いに決まっている。もっとも、この先で見たことを口外したところで、それを信じる者なんていないだろうが。


「確かに機密っすねぇ。警部がこういうお店が好きだったなんて――。まぁ、人の趣味なんてそれぞれっすから、別に軽蔑もしねぇっす」


 外看板にでかでかと描かれた、いかがわしい女性の姿に、尾崎は納得するかのように頷いた。そうではない。そうではないのだが、普通の感覚で考えたら当然のことかもしれない。


「け、警部――。こういうところは尾崎さんと二人で来られたほうがいいんじゃないですか?」


 縁は顔を赤らめて軽蔑の眼差しを向けてくる。耳まで真っ赤にしている辺りウブなのかもしれない。


「いや、誤解だ。誤解。用事があるのはこの店じゃない」


 倉科は辺りを見回して人の目がないことを確認すると、いそいそと例の扉の前へと向かった。妙な誤解をされているという焦りからか、鍵を取り出すのに手間取ってしまった。


 半地下になっているヘルス店の脇。そこにある扉のさらなる先に、二人へと会わせたい人物がいる。まごつきながらも鍵を差し込むと扉を開け、中に入るように二人へと促した。


「人目につくとまずい。早く」

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