水滸幸伝～王倫・梁山泊にて予知夢を見る～

第八十一回 忘れた頃に来る嵐

　一一○四年、春。梁山泊（りょうざんぱく）から遠く離れた北西の地にある延安府（えんあんふ）。さる事情（じじょう）からここに隠（かく）れ住む男の耳に奇妙（きみょう）な噂（うわさ）が届いた。

　梁山泊にはどんな病気や怪我（けが）をも治せる高度（こうど）な医学書（いがくしょ）を持つ医者がいる。

　呉用（ごよう）の流した噂と桃香（とうか）が怪我人を治療（ちりょう）した話が混ざり合い、大袈裟（おおげさ）に広まった結果だ。

「……梁山泊。ここでじっとしていても母上の容態（ようだい）は良くならない。ならば向かってみるのが良いのだろう。母上、しばらく辛抱（しんぼう）してください。きっとお身体（からだ）は良くなりますので」

　その男は既（すで）に時代から消されていた……はずだった。だが、この噂の真相（しんそう）を確かめようとする決意（けつい）がこの者を再び歴史の表舞台へと立たせる事となる。男の名は……王進（おうしん）。

　※王進

　武術の達人（たつじん）で八十万（はちじゅうまん）禁軍（きんぐん）の教頭（きょうとう）（武術師範）をつとめていた。家族は六十歳を過ぎた老母（ろうぼ）との二人（ふたり）暮（ぐら）し。高俅（こうきゅう）の手から逃（のが）れる為に開封府（かいほうふ）を離れ延安府に隠棲（いんせい）していた。史進（ししん）という男に武芸（ぶげい）十八般（じゅうはっぱん）を教えこんだ事がある。

　王倫（おうりん）率（ひき）いる梁山泊がまた一人の強者（つわもの）を呼び寄せようとしていた。

　……その一方で。

「ああ！ 王倫様！ わたくしずっとお会いしたいと思っておりました！ いえ！ お会いできると信じておりましたわぁー！」

「うわぁ！？」

　その女は目標を確認すると脇目（わきめ）も振らずその男へと縋（すが）りつく。

　突然何者かに背中に縋りつかれた王倫は驚きの声をあげた。

「だ、誰ですか突然」

　王倫は頭を動かしてそれが誰かを確認しようとする。

「まあっ！？」

　が、それよりもはやく。その女は王倫の前へと回り込みその両手を自らの掌（てのひら）で包（つつ）みこむ！

　王家村（おうかそん）の往来（おうらい）で堂々（どうどう）と行（おこな）われているこの光景に周囲の者は訝（いぶか）しがる視線を送っている。しかし一人だけ違う反応を示（しめ）した者がいた。

　その者は時が止まったかの様に硬直（こうちょく）し、なんとか当事者（とうじしゃ）達（たち）から見えない死角（しかく）に逃（のが）れて息（いき）を吐（は）く。『本物の』王倫である。

　たまたま村の様子を見に来てこの場面と遭遇（そうぐう）した。

「あ、あの女性は確か……」

『その時』と同じように両手を固く握（にぎ）られ離してもらえない『鄭天寿（ていてんじゅ）』は目線（めせん）で周囲に助けを求めているようだ。

　そう、女は以前（いぜん）時文彬（じぶんひん）達と観劇（かんげき）した時の一座（いちざ）にいた白秀英（はくしゅうえい）。白秀英の執念（しゅうねん）は凄（すご）かった。彼女は昨年（さくねん）の巡業（じゅんぎょう）が終わった際（さい）に父を説得。娘（むすめ）の猛烈（もうれつ）な勢いに終始（しゅうし）おされた父親はそれを了承（りょうしょう）。希望通りに東京（とうけい）を引き払い、一座の者を連れて王家村へと移住（いじゅう）してきたのである。

「王倫様、この村には劇団（げきだん）がありませんでしょう？ わたくし達一座がこの村で生活し、皆様に娯楽（ごらく）を提供（ていきょう）させていただきますわ！」

　白秀英の話は隠（かく）れている王倫にも聞こえた。

(劇団などない村の方が普通（ふつう）だと思うがな……)

　ただ、娯楽の少なさは王倫も対策（たいさく）しようとしていたので一概（いちがい）に悪い話とは言えない。が、問題点のひとつとしてその決定権は迫（せま）られている鄭天寿にはないという事だ。

「そ、それは皆（みんな）にも意見を聞いてみないと……」

　鄭天寿は無難（ぶなん）な答えでやり過ごそうとしている。彼女がそれで引き下がるかどうかは別として。

(まぁ、妥当（だとう）な所か。……む？ いかん！)

　王倫は新たな問題点が鄭天寿の向こう側からやってきている事に気付いた。鼻歌（はなうた）混（ま）じりに歩いてくる王英（おうえい）だ。彼が女を見てちょっかいをかけない訳がない。ましてや相手は鄭天寿。下手（へた）な絡（から）み方をされたら白秀英にいらぬ情報を知られてしまう恐（おそ）れがある。

「やや！？ 見た事ないねーちゃんがいるな！」

　めざとく見つけた王英が駆（か）け寄（よ）ってきた。

(やはりそうなったか！ 仕方ない)

　王倫も覚悟（かくご）を決める。鄭天寿も王英に気付き顔色（かおいろ）が青い。最悪な状況（じょうきょう）を想像（そうぞう）したのかあうあうとしか言えないでいるようだ。

「あうあう」

「そんな恥（は）ずかしがられなくても……でもそんな表情（ひょうじょう）も素敵（すてき）！」

「そこの綺麗（きれい）なおねーちゃんは誰だい？ こんな美人が知り合いなら俺にも紹介してくれよ鄭……」

「王倫様ここにおられましたか！ 私です！ 貴方様（あなたさま）の身の回りをお世話させていただいております鄭天寿ですよぉっ！」

　王倫は王英の台詞（せりふ）をものすごい不自然な説明（せつめい）口調（くちょう）で遮（さえぎ）った。その勢（いきお）いに王英も白秀英もぽかんとして動きを止める。

「は？ それは何の冗談（じょうだん）ですか王……」

「て・い・て・ん・じゅ！ 私の名は鄭天寿です王英殿！」

「ど、殿？」

　王英は王倫の異様（いよう）な雰囲気（ふんいき）に呑（の）まれとりあえず黙（だま）った。様子を見るのが得策（とくさく）と思ったのだろう。だがもう一人は黙らない。

「貴方（あなた）ね……前もそうでしたけど今回もわたくしと王倫様の語（かた）らいを邪魔（じゃま）して！ いったいどういうおつもりなのかしら？」

　白秀英の明らかに敵意（てきい）を含（ふく）んだ視線が王倫を容赦（ようしゃ）なく捉（とら）える！

　今、この梁山泊に春（はる）の嵐（あらし）が吹（ふ）き荒（あ）れようとしていた。