第百二十八回 波乱の幕開け

 一一〇七年の春、開封府かいほうふ高俅こうきゅう宰相さいしょう蔡京さいけいに話があるからと屋敷へと呼び出されていた。


「私がりょうへの使節団しせつだん随行ずいこう……ですか?」

「そうだ。相手は一国の王。こちらも相応の者を遣わさねばならん」


 そうは遼と同盟を維持する為に毎年贈り物をしている。その話をしているのだという事はすぐに理解できた。……というか高俅は蔡京のとる行動を既に知っていた。


(……これで私は殿帥府太尉でんすいふたいいへ昇進という訳か)


「正使には儂の部下を派遣するつもりだ。貴殿には副使の役目を担ってもらいたい」

「副使……」

「うむ。引き受けてくれた暁には貴殿を殿帥府太尉へ推薦する用意がある」

「……」

「承諾してくれただけで出世できるのだ。貴殿にとっても悪い話ではあるまい?」


 その言葉で高俅は蔡京に対して膝をついて拝礼する。最初からこうするつもりだったかのように。否。彼は話がくる前の段階から既に決断していたのだろう。


「この高俅。蔡京様のご配慮に感謝いたします」


 高俅が任務を承諾し自分の屋敷に戻ると従弟いとこ高廉こうれんが待っていた。


「お帰りなさいませ。いかがでした?」


 公務扱いの高俅に対して高廉も立場をわきまえて対応する。この高廉も高俅に引き立てられ普段は高唐州こうとうしゅうの知府(長官)の立場にいるのだ。それくらいの使い分けは出来た。


「聞かせた通りの展開だ。殿帥府太尉に昇進した」

「おお! おめでとうございます!」

「面倒なのはここからだがな。頼むぞ?」

「はっ。……既に三百からなる我が精鋭、飛天神兵ひてんしんぺいを遼へ向かう途中で合流させる手筈てはずを整えておきました」

「うむ」


 高俅に頼りにされ高廉も惜しむ事なく彼の為に自分の持つ手札をきっていく。高俅は高廉とともに遼への使節団に同行する準備を着々と整えていった。



 ─北京ほっけい梁世傑りょうせいけつが治める地だがその公務室に彼の姿はない。そして部下達からすれば既にそれが当たり前の日常になっていた。


「司令官殿は今日もあの場所へとご出向か」

「俺達には民から財を絞り取らせていいご身分だよ」


 北京の武官である聞達ぶんたつ李成りせい王定おうていは民の怨嗟えんさの矢面に立たされている立場から日に日に梁世傑への不満を口に出すようになる。遼の国王の弟で、洞仙どうせんと名乗り文官として潜り込んでいる耶律得重から見てもその温度差は歴然であった。


(……官と民の不和の状態は明らか。反乱の下地を作る事には成功したとは言って良いだろう。しかし梁世傑と部下達の間にこうまで亀裂きれつが入るとは予想外。まさか奴が突然女にいれこむようになるとは思わなかったからな)


 責任だけ部下に押し付けて自分だけ楽しんでいるように見えてしまえば現場の人間の心が離れて行くのは仕方ない。耶律得重も目的を果たせる時は近いと青州せいしゅうの洞仙のように後は北京から離れる機会を窺えば良いだけだと考える。


(民による反乱か部下による反乱かは読みにくい部分が残るがな)


 だが耶律得重はある日街中を歩いている時に遭遇してしまう。


(あれは……梁世傑。すると隣にいる女が例の?)


 それは確かに梁世傑が入れ込むのも理解できる美貌を持つ女だった。本能的に死角に隠れる耶律得重。そして自分のとった行動に愕然とする。


「俺は今何をした? 向こうからは完全に死角でこっちに気付く事はなかっただろう。それでもなお俺は身を隠したというのか?」


 立場でいうなら洞仙は梁世傑の部下。しかも彼は表立って梁世傑の行動に釘をさしている訳でもない。見つかったら見つかったで別に隠れる必要はないのだ。偶然見かけただけで意図的なものなどそこにはなかったのだから。


 いや、本来の遼国内での立場を考えればむしろ率先して接触し、目的遂行の為の障害になるかどうかを確認していてもおかしくない。


(……本能的に隠れる事を選択したのか? ばかな?)


 彼は自分のとった行動が信じられず、物陰から顔を出してもう一度二人を確認しようとした。


(な、何ぃっ!?)


 梁世傑は女性を見ていて気付く気配すらない。だがしかし。隣の女は梁世傑を見ているようでありながら自然な所作しょさで耶律得重と視線を合わせてきたのだ。その上さらににっこりと彼に向けて微笑んだのである。美しい女性に笑顔を向けられれば悪い気はしないものであろう。だがそれも時と場合による。耶律得重が抱いた感情は言いようのない恐怖だった。


(なんだ!? め、目線を外せん。それに周囲から見られているような感覚は一体……?)


 背筋に冷たいものを感じた彼は必死になって女から顔を背ける事に成功すると一目散にその場を離れる。後に冷静さを取り戻した彼が自らを納得させる理由に選んだのは、妙に勘の鋭い女。とこじつけるしかなかった。


 視線が合ったというだけで何か実害が出た訳ではないのだからそんな風に思い込むしかなかったのだろう。


 残念ながらこの時僅かに抱いた懸念は後に現実となり、彼はその出来事を境にある者の存在に気付く事になる。



 ─梁山泊りょうざんぱく付近の街道。

 普段は何もないこの場所で大事件が起きていた。魯智深ろちしん武松ぶしょうが状況を知って駆けつけた時、現場には鄆城県うんじょうけんから梁山泊を訪れようとしていた朱仝しゅどう雷横らいおう。そして梁山泊の頭目である楊志ようし劉唐りゅうとう燕順えんじゅんが負傷してその場にうずくまっていたのである。


「ぐ……」

「う、うう……」


 その光景に魯智深と武松も驚愕した。しかし楊志達に声をかけながらも彼らを負傷させたと思われる目の前の者達への警戒は怠らない。


「武松、気を付けろ。かなりの使い手だぞ」

「ああ、そのようだ」


 対峙している目の前の人物は四人で全員が男。前に二人、後ろに二人。魯智深が見た限りだと前の一人は両手にそれぞれ槍を一本ずつ持っている。もう一人は手に何かを握りこんでいるようだ。後ろにいる二人は武器を所持はしているが抜いてもいない。一人は腕を組んで堂々としており別の一人は大きな荷物を背負って狼狽うろたえている。対照的だがそこから判断すると戦闘要員は二人で、その二人に楊志達が手傷を負わされたのだろう。


「また人相の悪い奴が増えやがった。いか……どうします?」


 一人が魯智深達を視界から外さないまま誰かに確認をとる。腕組みしたままの男が反応して言う。


「仕方ない。ぜんさん、かくさん。彼らもらしめてやりなさい」

「「はっ!」」


 その発言が戦闘開始の合図となった。

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