第百二十三回 遼という国

 その男は王の間にいた。目の前の玉座に主の姿はない。男は静かに主が来るのを待っていた。やがてどかどかと大きい足音と共に玉座の主は姿を現す。


「おう洞仙侍郞どうせんじろう、戻ったようだな」

「は! この洞仙。王様に拝謁はいえついたします!」


 洞仙は姿勢を正し臣下の礼をとる。彼が会っている相手は遼国りょうこくの王、耶律輝やりつきだ。一見、その態度は気さくに見えるが王としての資質は備わっている。が、あまり細かい事は気にしない性格であった。


「戻ったのは一人だけか? もう一人の『洞仙』殿はどうした?」


 耶律輝は豪快に笑いながら問う。ここは遼国の首都、燕京えんけい。遼はそうより北にあり、主に契丹きたん系民族により構成されている。現在の宋とは同盟関係の間柄にあった。遼からの軍事的介入を嫌った宋側からの毎年貢ぎ物を献上される条件で結んだもので信用はお互いにないと言って良い。


「は。耶律得重様はまだ北京ほっけいに残っておられます」

「ほう……我が弟はいまだ宋国に残り貴様だけが戻ってきたというのだな?」


 耶律輝から威圧感が放たれ洞仙は身をすくませ平伏する。


「は、はっ! 私ごときより王弟おうていであられます耶律得重様の方が大切な身であるのは重々承知しておりますが」


 だが洞仙の言葉を王はさえぎった。


「ふん。冗談だ。だが弟が文官の真似事までして貴様と共に宋国に潜り込んだ理由は忘れてはおるまい」

「はい。もしも同盟が破綻はたんした時に備えて内部から弱体化させておく事です」

「そうだ。それで宋国が併呑へいどんしやすくなると言った、他でもない得重とお前の献策けんさくよ。そしてこうしてお前が戻ってきたのは何かしら成果があったからで、帰還の指示を出したは弟。……違うか?」


 洞仙は目を見開く。


「王様の深謀しんぼうにはただただ恐れ入るばかりにございます!」


 これでこそ遼国の王よとその才に感心する洞仙。


世辞せじはいい。立って何があったか話せ」

「私のいた青州せいしゅうはその軍事力を大きく後退させました。ですがこれは狙っていた住民の反乱によるものではなく、山賊の討伐に立て続けに失敗した結果にございます」


 そして自身も一軍を任されたものの、まともに戦うことすらできずに捕虜にまでなった事を詳細に報告した。


「倍の兵、しかも魚鱗ぎょりん鶴翼かくよくで正面から……か」


 耶律輝が要点を繰り返したその時、


「その話、それがしも興味がありますな」


 一人の男が王の間に入ってくる。男は洞仙の横に並ぶと耶律輝に拝礼した。


兀顔光こつがんこう、王様に拝謁いたします」


※兀顔光

遼国随一の将で役職は都統軍ととうぐん。身の丈八尺の体躯たいくを誇り、十八般の武芸に通じ、兵法(特に陣法)の奥義を極めた智勇兼備の名将。


耶律国珍やりつこくちん殿に耶律国宝やりつこくほう殿。我が息子である兀顔延寿こつがんえんじゅの出立。見届けて参りました」

「ご苦労」


 耶律国珍、耶律国宝は耶律輝のおいで猛将と名高く兀顔延寿は父と同じく陣形に通じている人物だ。洞仙はもしやと思い王を見る。


女真族じょしんぞくがまた妙な動きをしているというのでな」


 耶律輝は洞仙の胸中を見抜いたかのように先に答えを出してきた。女真族は遼に服属している民族であるが、契丹民族はこの女真族から搾取さくしゅを繰り返していたため良好な関係とは言い難く、力で威嚇いかくする場面が今回も含めて何度かあったのだ。


「そちらはすぐに落ち着くでしょう。それより王様。先ほどの話ですが」

「わかったわかった。洞仙、兀顔光に詳しく教えてやれ」


 洞仙が耶律得重と謀り北京と青州の国力低下を目的として官と民との不信感を利用。過程で青州の司令官が山賊の討伐に乗り出したものの敗北し、自身が捕虜になるまでを話す。


「宋国の兵があまりに弱かっただけでは? 一見有利な側が戦術を間違え敗北するのは珍しい事ではありませぬ」


 兀顔光は耶律得重と洞仙の戦略部分には何も言わなかった。自分の役割をよく心得ているのである。そして彼を名将たらしめているのが、将兵を天上の星々になぞらえて配置した変幻自在の陣法・太乙混天象たいいつこんてんしょうの陣をみだし使いこなしている点だ。


「まぁ待て兀顔光」


 あごに手をあて考えていた耶律輝が口を開く。


「仮に宋国の兵がそこまで弱体化しているとしたらこちらにとって悪い話ではない。が、相手はそれでも同盟国だ。こちらから直接仕掛けるような真似はせぬ。奸臣かんしん跋扈ばっこと悪政で反乱が頻発ひんぱつするようになればその限りではないがな」


 これを実現させるために王の弟が自ら潜入工作をしている。洞仙もその一人だった。


「兀顔光よ。我が国内で宋国の内情に最も詳しいのは私か? それともお前か?」


 兀顔光は王の言いたい事にすぐに気付く。洞仙の働きを軽んじるようにも受け取れる発言を遠回しに指摘してくれたのだ。


「(なるほど)……確かに失言でありました。洞仙殿は以前より最前線で戦っておられた。今の言葉、お忘れください」


 すぐに洞仙にびる。


「弟が洞仙を戻した真意を考えるなら……宋国の混迷が見えてきたということか。それにその勢力……」


 宋国に反抗しているなら味方にできるかもしれないという考えが耶律輝の頭に浮かぶ。


「彼等は私を青州の官吏かんりとして接し、朝廷に敵対する気はないと歓待かんたいして解放してくれましたが、その言葉を口に出すには過ぎた勢力かとも感じました」

「……本心では攻撃してくる相手とは戦うつもりでいるかもしれんな」


 どこか遠くを見ているような表情で耶律輝は問いを口にした。


「兀顔光。我等が宋国を併呑すると決めた場合、最も重要な要素はなんだ?」

「は。……それはもちろん速度であると考えます」


 宋国の北から侵入しその南端なんたんまで制圧せいあつするとなればかなりの距離がある。主力が国を離れる時間が長くなればそれだけ不確定要素が増してくるので兀顔光のこの意見は正しい。


「では宋国の正規の軍ではなく、ぶつかれば時間をとられる相手と戦うのは正しいのか?」


 兀顔光は耶律輝の真意を悟る。王はこの勢力を懐柔かいじゅうする気なのだと。兀顔光自身にそんな考えはない。叩きつぶして軍門にくだらせれば良いだけだと考えているからだ。だが王のこの言葉は自身の考えを理解している上で何も言うなという事に他ならない。


「私は王様の判断に従うだけでございます」


 拝礼してこう答える。


「よし。では洞仙侍郞に命ずる。毎年宋国より届く貢ぎ物の中から絹や陶器だとかを適当に見繕みつくろって持って行け。我が国の使者としてな」


 洞仙も理解し命を受ける姿勢になった。山賊に過ぎない勢力に国が外交を持ちかけようというのだ。普通なら即決できるような内容ではない。


「名目は……そうだな。我が国の者を救ってくれた事に敬意を表する。とでもしておけ。向こうはお前がこの国の者であることを知らぬのだろう?」

「口に出すことはもちろん尾行びこうにも十分警戒しておりました。間違いなく宋国の者と思われているかと」

「ならこの演出も効果があろう。本人が行くなら説得力もあるだろうしな。向こうの驚く顔が見れないのは残念だが」


 耶律輝は笑っている。兀顔光と洞仙は目の前の王の大胆さに驚かされたが、同時にこれが名目通りの使者だけではないという事はすぐに理解していた。


「全く。弟に甥。家臣に至るまでがこうも有能で勤勉な者ばかりだと楽ができて良いな」


 遼国の王は家臣二人の、貴方が言うなとばかりの表情を気にもとめない。

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