第百三十四回 思惑

 一本の蝋燭ろうそくが細々とした頼りない炎でその部屋を照らしていた。


 薄暗い中、椅子いすに座る人物がいる。時折見える着物の柄から判断するに女性だろうか。女性の正面にも片膝をついているのか黒い塊のように見える人物がいる。こちらは着物の人物とは違い動きやすそうな質素な服装だ。


「そうかや……あれはやはり梁山泊りょうざんぱくにかえ」

「はい。私では近付くだけで精一杯でしたが気配は間違いなく」


 その声はどちらも女性のように聞こえる。


「……いまいましいのぉ。わらわのものがそこにあるというに後から来たやからに邪魔されておるのはなぁ」

「強引に動かれますか?」


 問われた着物の女は室内に聞こえるようにため息をついた。


「ふぅ。あれは妾に絶対に必要なもの。じゃが無理をしてあやつらに妾の存在を気取られるわけにもいかぬ」


 少し逡巡しゅんじゅんしもう一度短くため息をつく。


「全く手間なことでありんすなぁ。……ふふ。まぁとは言っても布石はいくつか用意しておるしのぉ。とりあえずそなたは一度戻るがよかろう」


 その言葉に膝をついていた女が立ち上がる。着物の女は自分の右手の掌を相手に向けて差し出す。立ち上がった女も合わせるように左手の掌を差し出した。両者の掌が重なったその瞬間、一人がどろりと溶けたかのようにかき消えた。


 突然静けさに包まれた部屋には着物の女がいるのみ。僅かな蝋燭の炎に照らされ浮かぶ整った顔の輪郭と微笑んでいる表情。ただしその笑みには怪しいほどの妖艶ようえんさが含まれていた。



 一方そのころ。りょうからそうへ向けて帰路を進んでいた林攄りんりょ高俅こうきゅうら使節団の一行は突然荒れた天候に悩まされていた。


「なんなのだこの遼という国は! さっきまで晴天だったかと思えば突然激しい雨が降り、止んだかと思えば次に突風。そして今度は濃い霧だ」


 林攄が悪態をつく。高俅は霧を凝視している高廉こうれんを見た。高俅の視線に気付いた高廉は小さく頷く。と同時に獣の咆哮にも似た声が周辺に響き渡った。


「ひぃっなんだ!? こ、これだから未開の田舎はいやなんだ」


 林攄は強がっているものの、高俅にはその膝がしっかり震えているのが見える。


(ふん。だから忠告してやったというのに)


 立場は副使節の高俅。表立って蔡京さいけいと対立しても利がないので現在は協力する姿勢を見せることにする。


「林攄殿安心なされよ。蔡京様は貴殿を無事に帰国させるために某を使節団へと参加させたのでしょうからな」

「お、おお、高俅殿。これは頼もしい!」


 白々しくも林攄に貸しをつくらせる腹積もりの高俅は高廉の名を呼ぶ。


「高廉よ!」


 高廉も阿吽あうんの呼吸ですぐさま行動に移る。


「はっ! 飛天神兵ひてんしんぺい!」


 その掛け声に呼応して数名の高廉配下の兵士が無言で走り出て林攄に背中を向けて周囲をぐるりと囲む。手には札の貼られた盾のようなものを持っている。


 同じく別の飛天神兵が先を走り道沿いにやはり背中を向けて密集して並ぶ。


「さあ林攄殿、そこを進みましょう」


 高俅が林攄を促すと同時に突然霧の中から見たことも無いような生物が姿を現し林攄に襲いかかってきた。


「ば、化け物!? ひいぃ!」


 だがその化け物は林攄に触れられずガシンと見えない壁のようなものに阻まれ弾かれる。飛天神兵が盾を掲げていた。


「おお? よくやったぞお前達!」

「……」


 喜ぶ林攄に対して飛天神兵は無言のままだ。


「……むぅ。つれない奴らめ」

「それよりもさぁ今のうちに」

「う、うむ」

「蔡京様へはこの高俅の働きを宜しくお伝えくだされよ?」

「それは必ず伝えさせてもらいますぞ」


 知らぬは林攄ばかりなり。高俅と高廉はすでにこの化け物の正体を把握していた。


 使節団の一行が辛くも化け物の襲撃から逃れ……否、そう思っているのは林攄含め一部の者だけかもしれない。


(遼には幻術の使い手がいる。高俅の兄貴の言っていたのはこの相手か)


 高俅に従う高廉は彼の先を見る力に感心する。一方の高俅はこの出来事は遼に対して高圧的な態度に出た林攄への意趣返しと判断した。


(やれやれ。遼国王の腰が重くて助かった。開戦に踏み切るつもりならこの実害のない一手だけでは済まぬだろうからな。蔡京殿がどう思おうが現時点での開戦はまだ早いのだ)


 高俅は相手もまた同じ考えなのだと理解し、林攄が気付いていないのをそのまま利用。この場に遼の意思は介入せず、謎の化け物と遭遇し林攄を守りながら帰国した事実だけを公表する事にした。


(なかなかどうして。遼を侮るのは危険だ。やはりもっと備えるべきだ)



「ほう。宋の連中はすっかり腑抜けばかりになっていると思っていたが……」


 そう発した人物は使節団がいなくなった場所に立っている。霧は晴れ、足下にある何かを無造作に拾いあげた。


「なかなかどうして。手を抜いたとはいえ俺の術を防ぐ者がいたとは」


 一行を襲った化け物の形に見える木片を見つめながら呟く賀重宝かちょうほう。彼は耶律輝やりつきに仕える臣の中で道術を修めていた存在だったのだ。


「王がおっしゃられた事が正しいと裏打ちされたな。これなら急戦派も納得するしかあるまい。……が、いずれくるだろうその時には本気を出させてもらうぞ」


 賀重宝は一件を耶律輝に報告するために踵を返す。防ぐだけで反撃してこなかったのは余力がないからではないと見抜いたからこそ。


 思惑は違えど今すぐ開戦を望まない高俅と耶律輝の考えが互いに伝わった出来事になった。



 ……ピキッ。


 梁山泊の自宅の庭で動物の骨を使い占いをしていた羅真人らしんじん。骨にひびが入った音を確認し、木の棒でそれを焼くのに使っていた木の葉などを掻き分ける。


「む?」


 骨には蜘蛛くもの巣状のひびが。


「これは……またひと騒動起きそうじゃな」


 羅真人の漏らした一言が示すかのように。


 梁山泊を目指して北の扈家荘こかそうからは扈三娘こさんじょうが。東からは僧侶風の男が口笛を吹きながら杖を持ち軽やかに。西からは道具を背負った画家風の男が足取り重く。南からは懐に一通の手紙を携えた戴宗たいそう神行法しんこうほうで。


 各々の目的を持って向かって来ていたのである。


「すみません桃香とうか様。また不眠症の薬をいただきに……」


 そして桃香の所には度々やって来るようになった時遷じせんがいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る