第十七回 林冲心服 後編

 王倫おうりん林冲りんちゅうが求めているものだと言って新しいやしきに案内した、しかし林冲は自分一人には広すぎるとこれを固辞こじ。だがすすめられるまま開けた衣装棚いしょうだなから現れた女性を見て表情を一変いっぺんさせた。


「まさか……お前なのか? 本当に?」

「はい旦那様。私もこうしてもう一度お会いできるとは思っていませんでした」

「ああ! 常に気にかけていた。 私の為につらい目にあわせてすまなかったな」

「いえ。こうしてまたあの方のおかげで旦那様の元へ来れましたから……」


 林冲はわれかえり王倫を見る。


「し、首領? なぜ我が妻がここに」

「それはこの者から聞くのが良いだろう。入ってこい」


 王倫に呼ばれて入って来たのは……朱貴しゅきだった。


「朱貴殿!? なぜ朱貴殿が妻を? 別の件で山寨さんさいを離れていると聞いていましたが……」

「ええ。林冲殿の奥方おくがたの身を案じた首領に命じられ都へとつかわされておりました」

「!? 一体何が……」

「林冲殿が山寨に来た日、話を聞いた首領は翌日私にこう言われました。 高俅こうきゅうとその息子の陰険いんけんさを考えれば奥方にはまだ受難じゅなんが続いているかもしれぬ。お前は都へ行き奥方の様子を探れ。そしてもし本人が希望するならかまう事はない、そのまま山寨にご案内せよ。と」

「な! ではまさか……」


 林冲は妻の受難を想像して青くなる。


「……私が到着した時はまさにご自身でそのお命をとうとしている所でした」

「!?」


 林冲の顔色は青を通り越して白くなった。


「おのれ! あやつめまだ我が妻にまとわりついていたのか!!」


 今度は赤くなり今にも都へ殴り込みをかけに行きそうな剣幕けんまくだ。だがその林冲を奥方がさとす。


「朱貴様には感謝しきれません。とめていただけたおかげでまた旦那様にお目にかかれました」


 泣きながら本当に安心しきった笑顔を見せると林冲は、


「どうか不甲斐ふがいない私を許してくれ」


 妻に謝罪し王倫達に顔を向けた。だが感謝の言葉を口にする前に王倫が続ける。


「林冲よ、この者も紹介しておく。入れ」

「え……」


 王倫に呼ばれて入ってきたのは……


「と、杜遷とせん殿!!」


 それは山寨から姿を消したはずの杜遷だった。無言で入ってきた杜遷だが、その動きのぎこちなさを林冲は見逃みのがさない。まだあの時の怪我けが影響えいきょうしているのだ。


「杜遷殿そのせつは大変な無礼ぶれいを……」


 杜遷が消えた一因いちいんは自分にあると思っていた林冲は謝罪しようとしたがそれは杜遷にさえぎられた。


「謝罪ならいりませんよ、林冲殿。あれは『友』としての彼に頼まれてやった芝居しばいですから。むしろこっちこそ変にからんですみませんでした」

「……え? し、芝居ですと……? な、なぜそんな自らが傷付くような芝居など……」


 林冲にとっては当然意味が分からない話だ。妻の件は朱貴が動いたという事で分かる。だが杜遷が自らを傷付ける事が何につながるか見当けんとうがつかない。


「最初に言っただろう。そなたが必要なものを用意すると。杜遷よ危険な橋を渡らせてしまったが、彼に渡してやってくれ」

「はい頭目。林冲殿これを。わが友がどうしてもこれを貴方に渡したいと私にねだった物です」


 林冲はその布でくるまれた何かを受け取る。それはずっしりとした重さがあった。


「……!? これはまさかっ! なぜこれがここに!」


 それは高俅が息子の願いを聞き入れ、林冲をわなにかける為に用意した名刀。林冲は商人からこの名刀の購入こうにゅうを持ちかけられ、どうしても欲しくなりなんとか値切ねぎって一千貫(三千五百万円)でゆずってもらった。その後噂を聞きつけたという高俅から名刀を見たいと頼まれ部屋を訪ねると、そのまま高俅をがいしようとする暗殺者あんさつしゃ仕立したてあげられたのだ。


「妻と離され、名刀や大金まで奪われたとは余りに不憫ふびん。出来る限り取り返してやりたいとの首領のお考えだったのです」


 朱貴が言う。林冲は余りの事に口をぱくぱくさせていたが、


「名刀はどうやって? 買い取れるとも思いませんし、盗みに入るなら怪我をする必要などなかった。何より高俅達に接触せっしょくすればどんな形であれ命を落とす危険があったはずです!」

「……それは簡単でした。高俅の息子に貴方あなたを売ったらすぐ食いついてきましたからね」

「……え? 今なんと?」


 杜遷は大袈裟おおげさに怪我が痛む振りをしながら言った。


「当然でしょう。『杭州こうしゅう』に向けて逃亡していた林冲に『ぎ』を働き返り討ちにあい、『仲間』も殺された。『うらみ』に思って『因縁いんねん』のあった『相手』に情報を持って行って何か不思議な事がありますか?」

「杭州?」


 林冲が流された滄州そうしゅうは都から北東にあって、滄州から南、都から東の位置に梁山泊りょうざんぱくはある。杭州は梁山泊からはるか南だ。当然林冲の頭に杭州までの逃亡計画など微塵みじんもない。


「受けた怪我をみせたら簡単に信じ込みましたよあの馬鹿息子」

「私が杜遷を叩いても良かったが武芸に関しては素人しろうと。もし相手に腕の立つ者がいれば傷の位置などでばれる可能性があったのだ。これは『達人たつじん』の仕業しわざではない、とな」

「私が失敗したと判断し、かりに別の刺客しかくを放っても林冲殿が杭州で見つかる訳がありませんけどね」


 王倫の言葉で杜遷のあの行動の意味をさとる。


「私の為に無理を……」

「言えば反対されたであろうからな」

「なんという……なんという無茶を……」

「林冲の執着しゅうちゃくしていた名刀で恨みを晴らしたいと言ったらすぐに渡してくれた上、ご丁寧ていねい治療費ちりょうひだとかで支度金したくきんまで渡してくれましたよ。ぬるま湯生活でありゃ価値観かちかんが色々ずれてましたね。おかげでやりやすくはありましたが」


 林冲の為に知り合って間もない男達がここまでしてくれた事に林冲は感極かんきわまっていた。


「なに、高俅とその息子の『嫌がる』事を考えたらそれが『偶然ぐうぜん』そなたの喜ぶ事であったというだけ。私はそなたに奥方殿と名刀を返し、そして『二人』で住める『邸』を贈りたかった。実際に動いてくれたのは朱貴と杜遷だしな」


 林冲は王倫の真意しんいに感じ入り、あふれ出る涙をぬぐいもせずに三人に向けてひざまずく。


「この林冲!今ここにちかいます! 我が命と忠誠を王倫様、そしてこの梁山泊にささげると!」


 ……夢で林冲に殺された王倫。しかしその彼がついに最悪の結果をくつがえし、さらには豹子頭ひょうしとう林冲の心までをも完全につかんでみせた瞬間しゅんかんだった。

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