第2話
午前中は実力テストであった。ここで及第点を取らないと、早速補習や追試が待っている。霊徳学園は進学校であるが、学業さえ怠らなければ基本的には学生の自主性を尊重していた。だから、校風はかなりリベラルで、その結果様々な分野での才能を輩出しており、卒業生にはアーティストや作家もいた。一方、自主性を最大限尊重するというその教育方針から、必然的に生徒会には強い権限が与えられており、入学式にあいさつをした生徒会長の口ぶりからもそれはうかがえた。
――新入生のみなさん。入学おめでとうございます。生徒会長の佐久間恭一です。みなさんは晴れて渋谷霊徳学園高校の新1年生となったわけです。それぞれみんなが学園の誇りと未来を背負っています。わが校はご存知のとおり、かなり自由な校風であります。ですから各自がそれぞれ個性を生かし、存分にその才能を伸ばしていただくことに関しては、全く問題はありません。ただ――最低限の守るべきルールを尊重し、学園の生徒としての
生徒会長佐久間恭一はこんな意味のことを言った。ユリカはなぜこんな脅し文句のようなことを佐久間が言うのか理解に苦しんだが、遠目に見ても、きっちり七三に分けた髪型と神経質そうな目つきがいかにも融通のきかない人間であることを示しているようだった。ともあれ、ユリカは(数学の出来はやや不安だが)なんとか実力テストをこなした。
昼休みには幼稚舎からの持ち上がり組の数人がスマホを片手にはしゃいでいるのを横目で見つつ、教室の隅で1人お弁当を食べ、残りの時間は『高野聖』を読んで過ごした。ホームルーム終了後、部活見学の話でざわつく教室を後に、リュックを背負って文化部室棟へと足を向けた。配布された校内見取り図を見ながら、部室棟にある軽音楽部の部室、すなわち音楽練習室を目指す。
ユリカは自然と鼓動が高鳴るのを感じた。徐々に緊張感が増し、手にはじわりと汗が滲んでいる。
――がんばれ、わたし。高校生になって、変わるんだ。バンドをやって自己実現するんだ。
こう自分に言い聞かせながら、ともすれば鈍りがちになる歩みをなんとか進めた。雲の上を歩いているのではないかと思えるほど足取りがおぼつかない。これしきのことで
ユリカは何らかのバンドが練習している音が聞こえてくるのを期待していたのだが、部室棟はやけにひっそりしている。やや拍子抜けしたものの、緊張した面持ちで軽音楽部の部室の扉の前にたどりついたユリカは、信じられないものを目の当たりにした。
マジックペンでの落書きと、様々なバンドのステッカーで装飾された軽音楽部の104と刻印された鉄の扉には、無機質なゴシック体で印刷された1枚の紙が貼ってあった。
告
当該クラブは著しく学園の品位を落とし、かつ秩序を乱す活動を行ったため、生徒会長の権限において無期限の活動停止を命ずる。
生徒会長 佐久間恭一
ユリカは張り紙を見るや、突然床に落とし穴が開き、奈落の底に落ちていくような気分を味わった。
しばらく呆然と扉の前に立ち尽くしていたが、無駄だと思いつつノックをしてみた。無論返事はない。念のためドアノブを回してみたが、鍵がかかっており、張り紙の宣言が伊達ではないことを証明しているようだった。この突然の冷や水に、ユリカはどう対処して良いかわからなかった。
この日のためだけに猛勉強をしてきた。マヤさんやソメノさんとメタルを語り合うことを夢見ていた。バンドに参加することで、内気な自分を変えたいと思っていた。そういった思いがぐるぐると頭をめぐり、卒倒しそうだった。
どのくらいぼんやりとしていたのだろうか。音楽室の方から、吹奏楽部の金管楽器によるロングトーンの音が耳に入ってきた。それをきっかけにユリカは向きを変え、のろのろと歩き始めた。
人気のない部室棟の真ん中にあるケヤキの木の下のベンチに座り、気分を落ち着かせようと、『高野聖』を開いた。しかし、活字がまったく意味をなさないのですぐに閉じてしまった。こんなことはついぞ無かったことだった。――本を読めないなんて!
今までにない絶望感をユリカは味わっていた。
――これから3年間、私は何を糧に過ごせばいいのだろう・・・。
教室の片隅で本を読み、1人でお弁当を食べている自分の姿が思い浮かんだ。これでは中学と何も変わらないではないか。自己の変革を切実に求めていた彼女は、バンドをきっかけに新たな生活が始まると信じ込んでいた。しかしその思いはたった1枚の張り紙で見事に砕かれた。そもそも軽音楽部がした秩序を乱す活動とは一体何なのだろうか?
とにもかくにも、いつまでもここにいても仕方がない。とりあえず帰ろうと思い、ベンチから腰を上げた。部室棟を去ろうとした彼女の目は、ふと建物の一番端にある101号室の表示に留まった。
文芸部
打ちひしがれた彼女にとってこの3文字は一筋の光明のように感じられた。何かしらにすがりたかった。音楽がダメなら、私には文学があった。バンドをあきらめるのはまだ早いが、とにかく現状を打ち破るためには行動が必要だと思った。ここでこのプレートを見たのも何かのえにしだと考え、迷わず扉をノックした。
――はあい
間延びした男の声が聞こえ、続いて
――どうぞお
と言われたのでユリカはおずおずとドアを開いた。10畳ほどの部室の両側には、本棚がしつらえてあり、様々な種類の本がびっしりと詰め込まれていた。
部屋の中央には歴史を感じさせるマホガニーの重厚な机が左右3つずつ置かれており、一番奥の位置に座る男子生徒がひとり、厚手の本に目を落としていた。ユリカから見て正面の広い間口の窓からは春の午後の陽光が差し込んでおり、やや逆光気味になっているので、その生徒の顔はよく見えなかった。
ユリカは後ろ手でドアを閉めたものの、その男子生徒が何も言わないので
しばらく待ってみたが、事態に変化が見られそうもなかったので意を決して、
「あの、すいません」
と話しかけた。すると男子生徒はユリカの存在に今初めて気付いた、という様子で
「あ、ごめんね。つい夢中になっちゃって。何か用?」
とようやく本を伏せて
「あの・・・部活動見学をお願いしたいんですけど・・・」
と彼女が答えると、ああ、今日からかと言いながら彼は席を立って奥の小さな戸棚の引き出しからプリントを1枚取り出した。それを持って、こちらにやってきた男子生徒の背は180センチはあろうか。
158センチのユリカが見上げるようにして間近で見た彼の目元は涼しく、かすかに垂れている目尻が常に微笑をたたえているような印象を与えた。誰もが彼の笑顔にきっと引き込まれるだろう。
「えーと、僕は文芸部部長の須永です。とりあえずこの見学希望用紙にさ、一通り記入してくれるかな。話はそのあとで。じゃ、よろしくー。」
そう須永は言ってまた元の位置に戻ると再びバルザックに集中し始めた。
ユリカはなんだか自分の姿を見ているようでおかしかった。
――さすがは文芸部だ。こうでなくちゃ。
妙に感心しながらユリカは渡されたプリントに目を通した。プリントは横書きで上から学年、生徒番号、氏名を書く欄があり、その下には「好きな作家・作品」というこの紙の半分以上を占めるスペースが設けられていた。一番下には「希望する創作分野」と書いてあり、順に小説・評論・詩・短歌・俳句・その他とあった。
大石ユリカと記入したあと、さてユリカは筆が止まってしまった。
好きな作家や作品が多すぎて、何から書いたものかと迷っていたのだ。あまりマイナーな名前を書いて生意気とも思われたくない。そこで、まずは当たり障りのなさそうな宮沢賢治の名前を書いた。次には夏目漱石と書いた。漱石からのつながりで大岡昇平が思い浮かんだ。『野火』の衝撃は今でも忘れられない。しかしその名を書いたところでユリカは、もはや遠慮する必要性のなさを感じ、次から次へと思いつくままに作家の名前を書き連ねた。
開高健、堀辰雄、谷崎潤一郎、太宰治、井伏鱒二、井上靖、芥川龍之介、コナン・ドイル、江戸川乱歩、夢野久作、澁澤龍彦、野間宏、梅崎春生、H・P・ラヴクラフト、倉橋由美子、フィリップ・K・ディック、石川啄木、宮本輝、黒井千次・・・こう書いていくうちに、ついにほとんど余白がないほどにプリントを作家の名で埋め尽くしてしまった。
己の
書き終えてひと呼吸してから、相変わらずバルザックに夢中な須永のところへ行き、
「あの、書きおわりました。」
と静かに声をかけた。
「んー」
と、さすがに書に
しかしその眠たげな眼差しは次第に真剣味を帯び始め、一瞬ユリカを見ると、再び書かれたものに視線を戻した。そしてまたユリカの顔を信じられないといった表情で見据えた。
「これ、ホントに全部読んだの?すごくない?」
「あ・・・はい。全部の作品ではないですけれど、ほとんどは・・・。」
須永はまだ半信半疑の様子で
「じゃ、例えば谷崎なんかはさ、何が好きなの?」
と聞いてきた。
「ええと、一番最初に読んだのが『蓼食う虫』でした。少し難しかったんですが・・・あの途切れない長い長い一文が独特で、まさに文豪!って感じだと思いました。次に『刺青』、『春琴抄』。あとは、『痴人の愛』もよかったです。友達にナオミって子がいて、全然関係ないんですけど、勝手に怖いと思い込んでました。『細雪』はさすがにまだですけど・・・。」
それを聞いた須永はやや興奮した様子でさらに聞いてきた。
「じゃあさ、『ドグラ・マグラ』なんかも読み通したわけ?ていうか、よく澁澤龍彦とか知ってるよね。1年生でこんなに読んでる子はいないと思うよ。なんでまたこんなに?」
「それはあの・・・わたし、父が国文学者なんです。ですから、私、小さい頃から本ばかり読んでまして。」
須永はそれを聞いて得心がいったようだった。
「そうかあ、なるほどねえ。オレも子供の頃から本ばっか読んでたよ。かなり日本の小説や古典も読んだけど、最近はむしろ外国文学専門。一番好きなのはカフカ。カフカ読んだことある?」
ユリカは名前を知っているがまだ読んだことはなかったので素直に
「いいえ、ありません。高校生になったんでもっと沢山、日本文学以外にも読みたいとは思っているんですけど。なにかオススメの本とか、あったら教えてください。」
と答えると、須永は少しのあいだ上目遣いで考えたあと、
「そうだねーやっぱりカフカだったら『審判』かな。大型本で3段だから結構読むのはかかるけど、とんでもない不条理的展開がいいんだよね。最後なんか「まるで犬のようだ!」って殺されるっていうね。あ、ネタばらしちゃった。でも最初は『流刑地にて』とかがいいのかな。『変身』が有名だけど、オレは『流刑地にて』が好きだな。」
物憂い様子から一転、にわかに
――やっぱり、高校は違う。いきなり文学の話ができる人なんて初めてだもの。
「あの、文芸部の活動ってどんな感じなんでしょうか?」
「ああそうだ、まずそれを説明しなくちゃ。ええと、まず年1回、部誌を出します。これは9月末くらいまでに発行して、10月の文化祭で販売するんだ。でもただ売るだけじゃ買ってくれないから、カフェをやりながら売るんだ。その準備は大変だけど、楽しいよ。これがメインの活動。基本的に普段はヒマなんで、ここに来ても本を読んだり、だらだらおしゃべりしたりで終わるんだけど。部員は今のところ3年はオレを含めて3人。2年生は4人。まあ、幽霊部員も含めてね。さっきもちょっと言ったけど、今時真面目に文学に打ち込む高校生なんかあんまりいないよ。とりあえず5月の連休にレクリエーションとして、鎌倉文学館へ行くことが今年は決まってる。これあげるから、あとで読んでみて。」
そう言って須永は戸棚から1冊、A5大の薄い冊子を取り出してユリカに手渡した。
表紙には、涙を流し、差し出した右手に砂を持った少女が海を背に立っているイラストが描かれており、その上に『若い人』というタイトルが乗っていた。イラストは白黒の鉛筆でラフに描いたタッチではあったが、少女の目はこちらを強く見据え、見るものに訴えるものがあった。絵の作者の確かな実力を伝えるものであった。
「このイラストのモチーフ、わかる?」
「啄木ですか?」
「正解!さすが。ウチの2年生に頼んで描いてもらったんだ。なかなか上手だよね。」
頬につたふ
涙のごはず・・・
と須永はその啄木の歌をそらんじ始めると、ユリカも自然に
――一握の砂を示しし人を忘れず
と声を合わせた。一瞬の間ののち、目があった2人は思わず笑いあった。しかしその後、突然しんとなり、須永の目に引き込まれそうになったユリカはあわてて
「この『若い人』はひょっとして石坂洋次郎ですか?」
と取り繕うように聞いてみた。
「うわ、それもわかるのか!君すごいなあ。ウチの文芸部、80年くらい歴史があるんだけど、『若い人』が当時流行ってたみたいで、それ以来部誌名はずっとこれ。それにしても君にはぜひウチに入って欲しいな!どんな詩を書くかも見たいし。」
そう言われたユリカも、すっかりもうその気になって
「はい、ぜひ入部させてください。最近はあんまり詩も作っていないんで、うまくできるかどうか・・・でもなんか、やれそうな気はします。」
と意気込んだ。
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