第114話

 倉田は視線を上に向けて、時折広告を眺めている。倉田のモッズコートを通して彼の体温が伝わってくる。白いシャツの襟が曲がっていたのでユリカはそれを黙って直してやった。倉田はハッとした様子だったが、すぐに嬉しそうな顔をした。

 調布を過ぎて、ようやく2人並んで座れた。窓の外はもう暗くなり始めている。

 ユリカは倉田に言うべきことがあった。なかなか言い出すことができなかったが、今が丁度いい機会だから、ここで知らせておこうと決心した。

「あのね、倉田君。わたし話があるの。」

 今まで黙っていたユリカが、改まった様子で言い出したので、倉田はドキリとした。

「な、何?」

「わたしね。」

「う、うん。」

 倉田は突然心拍数が上がるのを感じていた。息も少し荒くなったが、それをユリカに何とか気づかれないように抑えた。

「わたし、来月でバイトやめようと思うの。」

「ええっ!」

 全く違う方向の期待がふくらんでいた倉田は、その反動が大きかった分、恥ずかしさや驚きでやや混乱した。

「な、なんで?」

 ようやくその一言だけが彼の口をついて出た。

「うん、まあ、ギターも買えたし、他に必要なものも全部揃ったしね・・・。別にそのまま続けても良かったんだけど、まず、こないだの中間テストがヒドかった。勉強する時間がだいぶ減っちゃってね・・・。次の期末で取り返さないと大変なことになっちゃうんだ。後はデスピノがやっぱり忙しくなって。店長には今度言おうと思ってるんだけど。」

「そうかあ・・・それは仕方ないよな・・・。」

 倉田はなんとかユリカの気を変える方法がないかを一生懸命考えてみたが、考えるほど、自分の無力さを思い知ることになった。

「これからはお客として顔を出すよ。帰り道だからちょくちょく寄るよ。」

 ユリカは言うべきことを言って、少しホッとした。そしてその一方で、無表情を装う倉田の落胆ぶりにはひとつも気がついていなかった。

 倉田の話が聞けなくなったり、大人の世界で働く機会が失われたりするのは少し残念だったが、自分はあくまで進学校に通う高校生である。いつまでもこの状態が続けられるとは思っていなかった。

 変わらないものは、ない。

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