第107話

 104号室の軽音楽部のドアの前に立ったその時、ガコンという鉄の扉が開く音がした。そちらを見ると、文芸部室のドアが開き始めていた。

 出てきたのは黒のインバネスを着た須永だ。

 ユリカがいる場所は、ちょうど部室棟の照明がケヤキの木にさえぎられて影になっているので、暗闇に染まった彼女に気づかないらしい。嬉しくなって、一歩踏み出し、声をかけようとした次の瞬間、ユリカはまるで石像のように固まった。

 須永の後に続いて、彼の手を握り、寄り添うようにエンジ色のドレスを着た女子生徒が出てきたのだった。

 ユリカはなんとか声を飲み込んだが、エフェクターケースを思わず落としてしまった。

 しいんとした部室棟全体に突然だあん!という音が響いた。

 ふたりはすぐに手を離し、音の方を見た。顔の部分は影になってよく見えないが、黒いスカートからすぐに彼らはそこにいるのが誰であるか理解した。

「ユリカちゃん・・・?」

 先に声を出したのは横井だった。

 ユリカはそんなことを言うつもりはまるでないのに、勝手に口が動くのを感じた。

「いつ・・・から・・・です・・か・・・」

 その問いは、もはや無意味であることを彼女は知っていた。そして瞬時に様々なパズルのピースが頭の中で組みあがった。

 ――インターステラー・・・エスプレッソマシン・・・

 そう、本当のところ、ユリカはすでにわかっていた。様々な兆候を感じていたのだ。しかし、それらの事柄から無意識に目を背けてきたのだった。

 ――わたし、今のままで十分なんだけどな・・・

 いつか美山に言った自分の言葉を思い出していた。ユリカはいつまでも「今」が続くと思い込んでいた。文芸部の仲間たちと楽しく過ごし、その素晴らしい「今」を維持したまま、須永と文学の話をして、それがずうっといつまでも続くんだ・・・そんなことを考えていた自分の浅薄せんぱくさを痛感した。

 入学以来、変わろうとする自分がいる一方で、自分を取り巻く状況に対しては変わらないことを願っていた。しかし彼女はもう理解していた。


 ――変わらないものは、ない。


「いやあ、隠すつもりはなかったんだけど・・・なんとなく照れくさくてね。6月くらいからかな。文学館の後の頃から・・・。」

 そのあとの須永の言葉はもう耳に入ってこなかった。自分は今、きっとひどい表情をしている。ここが暗い場所でよかった。

「お、お似合いです・・・先輩たち。素敵です・・・」

 それ以上話すと声が震えているのが悟られそうなので、

「わたし・・・軽音の部室に用があるので・・・」

 とやっとのことで伝えた。

 エフェクターケースを拾い、何か言いかけた2人には応えずに、口を真一文字に結んでがむしゃらに鍵を開けて薄暗い104号室に滑り込んだ。

 後ろ手で鉄の扉を閉めた時、既にユリカは号泣していた。防音が施されたこの部屋でなかったら、完全に彼女の泣き声は外に漏れていただろう。どうしたって声を抑えることはできない。必死に歯を食いしばってみたが、すぐに嗚咽がもれ、涙が滝のように頬をつたう。

 えっえっ、としゃくりあげながらユリカは窓際に向かって歩いた。ブルーのチェアにくずれるように座り、メガネを外してテーブルに突っ伏した。部室棟の強い照明が窓から差し込み、ユリカのいるそこだけが霜が降りたように白く明るかった。

 今日はいったいなんて日なんだろうと思った。

 生まれて以来、最も幸せな瞬間と、最も悲しい瞬間を今日一日で彼女は味わったのだ。

 由比ガ浜の思い出や、アンペルマン騒動、今朝のやりとり・・・色々なことが頭の中に浮かんでは消え、それがより一層彼女の悲しみを膨らませる。ユリカはもう我慢することをあきらめ、ついには、ひたすら涙が流れるのに任せ、声をあげて泣いた。

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