第12話

 辺りはもう薄暮が迫り、4月の華やかな空気のいろどりを塗りつぶし始めている。電車が駅へ入ってくる響きや、アナウンス、バスのぶおおおんというアクセル音が郷愁を誘う。行楽帰りと思しき親子連れや、サンリオピューロランドから駅に向かう女子中学生たちなどがそれぞれの家を目指し、自分勝手に歩みを進めている。

 こんなにも多くの人の群れにも皆それぞれ家があり、自分の生活があり、それでいて同じ時間を共有していることがユリカには不思議に思えた。


 彼女はパルテノン多摩の階段を踏み始め、ようやく80段昇りきったところで振り返ってみる。ここから見下ろすと、人々の動きはまるで分子運動のようだ。ユリカはしばらく無心でそのパノラマを眺めていた。

 春の夜のひんやりとした空気に促され、このまま公園に続く道を通り抜けて歩いて帰ろうと思い、振り返って空をあおぐと、見事な下弦の月が鮮やかに彼女の目に飛び込んできた。

 ふと夏目漱石のあるエピソードが思い起こされた。


 英語教師時代、学生に「I LOVE YOU」の訳を問われて


 「月が綺麗ですね」


 とでもしておけ、と答えたという話だ。真偽しんぎのほどは定かではないし、今ではいささか手垢てあかの付いた言葉になってしまったが、それでもユリカはこの古風な言い回しを気に入っていた。それと同時に須永の顔が思い浮かんだ。予期せぬイメージにユリカはうろたえ、心臓が動悸を打ち始めたので、それを紛らわそうと足早に歩き始めた。

 裏道の階段を降りて、しばらく歩いて自分の住む団地の方へふと目を向けると、巨大な建物群はそれぞれに明かりを灯し、すっかり夜の準備を整えている。

 ――あすこには人がいる、あすこには人がいない・・・

 などと明かりを数えつつ歩きながら、ユリカはここ1週間で変化し始めた自分の生活や、新たな出会いに思いを馳せた。

 ――袖ふり合うも他生の縁。なんて生きるって不可思議なんだろう。わたしは、わたし1人では生きていない。いろんな人に出会うことで、いくらでも生き方が変わるんだ。今日までの出会いを大切にしたい。みんなに感謝したい。わたしを導いてほしい。

 素直にそう思えた。しかしこれ以上考えすぎるとまた涙が出そうな気がして、

 ――がんばれ、わたし。泣き虫はもう返上だ。もっと気持ちを強く持つんだ。

 と自分に言い聞かせた。空には白く輝く下弦の月が浮かんでいた。

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