第29話

 紀貫之は『古今集仮名序』で

「ちからをも入れずして、あめつちを動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれとおもはせ、たけきもののふの心をなぐさむるは、うたなり。」

と書いている。どんな詩であろうと、相手を感動させることができれば「うた」、すなわち詩と言えるのではないか。


 ユリカは塚本邦雄の歌集を読んだ時の感動を思い出した。短歌がこんなに自由な表現力を持っているのかと、目から鱗が落ちる思いだった。草野心平の素朴な詩における句点の絶妙な使い方と、独特の言い回しは唯一無二であった。村野四郎の肉体が躍動するさまを、スローモーションを見ているように描写した『体操詩集』はいつ読んでも元気が出た。


 もちろん自分がそんな偉大な詩人たちと比肩ひけんしうる筈もないことはわかってはいる。しかし、そういう人たちに一歩でも近づきたいという思いが彼女にはあった。それにしても自分の詩はまだ誰にも感動を与えてはいない。今回発表した作品は、みんなが褒めてくれた。けれどもそれが相手の琴線に触れた、ということとは別問題だった。

 自分の詩を読み直したときに、それなりの作品ではあると思える。だが、やはりまだ何かが足りないということは自分が一番よくわかっているのだ。その何かは、まだ、わからない。一生かけてもわからないかもしれない。それでもユリカは詩を書き続けようと思う。

 自分の心に従って。いつか人の心を、鬼神をもあはれと思わせる表現を求めて。

「・・・さん、大石さん。」

 須永に呼ばれてユリカはハッとした。またいつの間にか考え事にふけって周りが見えなくなっていたらしい。

「あ、はい、なんでしょう。すいません、ぼうっとしちゃって・・・。」

「なんだ、やっぱり聞こえてなかったのか。じゃもう1度言うよ。まず今度の『若い人』の冒頭の作品は大石さんの詩に決定します。そして巻末は美山さんの詩で締めくくる。なんだか2人は陰と陽みたいだから、おもしろい演出かなと思って。みんな、いいよね。大石さんも、美山さんもオッケー?」

 ほとんどかすかに美山は頷いた。ユリカは驚いたが、須永に認められたと思うと誇らしい気もした。

「大沢のは、載せなくてもいいかね?」

 須永が意地悪くみんなに聞いた。先ほど配られた彼の作品は相変わらずのものだった。大沢はすかさず言った。

「いーわけないっしょ!オレだけですよ、こんなに原稿提出したの。そういう須永さん、1枚も出してないじゃないですか。」

「いやあ、ごめんごめん。ちょっと最近勉強が忙しくてさあ。今必死になって日本史やってるんだよ。早稲田ってものすごくマニアックな問題出すからさあ。」

「須永さん、早稲田受けるんですか。すごい。」

 そう聞きながら、ユリカは自分が2年半後にはもう受験だということが急に意識された。

「そう?俺理数が苦手で、はなっから私立文系。慶応か早稲田か迷ったんだけど、見学行ったらなんとなく早稲田のほうがしっくりきたんで、そう決めたんだ。」

「でも、それじゃあ勉強大変じゃないですか。原稿書いているヒマあるんですか。」

「まあ、外国語はドイツ語で受けるから問題ないし、国語も大丈夫だから。あとは日本史だけ。つってもドイツ語結構忘れてるんで、夏休みはまたデュッセルドルフに行くんだ。そこで何か書くよ。」

 ユリカはそれを聞いてびっくりした。ということは、夏休み中は部活があったとしても、須永に会えないということだ。ユリカは胸の奥にもやもやとした塊が生まれ、それがまるでおりのように溜まっていくような気がした。

「みんなにお土産買ってくるから、そのあいだにいい原稿を頼むよ。8月の最後の週に帰ってくるよ。」

 8月の末にはデスピノが予選を通過できたかどうかの結果が出ている。それを考えると、なぜかへんに不安な気持ちになる。須永の言葉を聞きながら、夏休みはバンドに専念しようとユリカは思った。

 そういえば、マヤとソメノも3年生で当然大学進学を考えているはずであるが、バンドをやっている場合なのだろうか?ユリカは人ごとながら、他ならぬ2人のことなので急に心配になってきた。

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