第61話


  くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずして誰かあぐべき


 ユリカはがしゃこん、がしゃこんと景気のいい音を立てて次々と活字の並んだ紙を吐き出す印刷機をぼんやりと見ながら、自分の胸元あたりまで伸びた髪を指にからませ、今日習ったばかりの『伊勢物語』の「筒井筒」の段に出てきた歌を思い出していた。求婚してきた幼なじみの男に対して女が返した歌である。

 この古い歌には、あなたと長さを比べてきた髪も肩のあたりを過ぎました、あなた以外のためには髪を結い上げないわ、という一途な女の心が表れている。

『伊勢物語』の書かれた平安時代では、自分の歳と同じ頃に髪を結い上げ、結婚したということがユリカには信じられなかった。知識としては分かっていても、どうにもぴんとこない。それはともかく、小さい頃からお互いに愛し合い、そのまま結婚できるのは幸せだと思った。もっとも、女はあとで裏切られるのだが。


 今日は割付が終わった部誌の原稿を学校の印刷室で刷り上げ、それを製本してもらうために業者に渡す予定であった。その作業をユリカは横井と大沢の3人でこなしていた。

「今年は1000部刷るって須永さん、結構強気よねー。」

 横井は刷り上がった用紙をダンボール箱に詰めながら、大沢に話しかけた。

「あれでしょ、去年に比べれば女の子3人のコスプレで客が呼べると見越してるんじゃない?オレも結構来ると思うよ。まあ、1000部売れるとは思わないけど、500部だって、純利250円×500でええっと、いくらだ・・・うん、12万5000円だよ。結構な額だね。」

 大沢はダンボール箱を台車に載せて一息ついて言った。

 ユリカは1000という数が気になりつつ、印刷が終わったページを横井に手渡しながら聞いた。

「そうやって稼いだお金はどうするんですか?」

「あのね、文芸部って部誌を作るお金は学校から出てるんだけど、書籍購入費はあんまりないのね。だから、ここで稼いだお金で本を買うわけ。ユリカちゃん、儲かればその分好きな本が買えるよ。でも去年はご存知のとおり、勇者のせいであんまり売れなかったから3万円くらいしか利益が出なかったの。」

 相変わらず大沢はちくちくと去年の失敗の傷跡をつつかれる。しかし大沢はすでに耐性ができているのか、少しも表情を変えずに話している。

「今年はさ、なんか良さそうじゃん。カフェ以外にも別に販売所を作って売るから500部くらいはいけるでしょ。そうそう、もう2人は美山さんに借りる衣装を選んだの?」

 2人は同時にうなずいた。

「選んだよ。とっても素敵なんだ。でもそれは当日までの秘密ね。」

 横井はそう言って最後のページの印刷に取り掛かった。

 刷られているのは横井が描いた須永のドイツの随筆の挿絵のページだった。そのイラストで横井はベルリンの古い街並みを簡素な線を使いスタイリッシュな構図に落とし込んでいた。そしてその街中を一人の長身の男が歩いている。

「この絵とっても素敵です。ここに歩いている人はもちろん須永さんですよね?」

 ユリカは横井の表現力に驚嘆しながらも、この絵を描くためには当然、須永の撮った写真を見ていることが前提となることを理解していた。ユリカはその写真を一枚も見ていない。もちろん頼めば須永は見せてくれるだろうが、なんとなく言い出せないまま時間が経ってしまった。だから写真を見た横井がちょっぴり羨ましくもあり、かすかな嫉妬をユリカは感じていた。横井はそんなユリカの考えを知ってか知らずか

「うん、まあそうね。でも須永さん写真はそんなに撮らなかったみたいで、あんまり参考にならなかったからネットでベルリンの街を調べて適当にでっち上げたの。」

 と肩をすくめて見せた。

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