第19話

 江ノ電がついに入場制限となり、駅に入ることすら不可能となったので、仕方なく文学館まで歩くことにした。道路も渋滞で車の流れは遅く、混雑はピークに達している。江ノ電が踏切を通り過ぎたとき、車内が人でぱんぱんになっている様子がチラと見え、鎌倉情緒も台無しだなあと右足小指の痛みを気にしながらユリカは思った。


 国道311号線をたどって目印のたい焼き屋「なみへい」を右に曲がり、住宅街を抜けた先に「鎌倉文学館」の入口を示す看板があった。

 ここから坂道を登ったところに建物はあるらしい。しゃれた石畳で覆われた幅5メートルほどの道の両側には、一抱えもあるごろごろとした岩が無造作に積まれ、その上から木々が新緑の枝を伸ばしていた。

 梢は5月の日差しをさえぎり、その隙間からこぼれ落ちた陽光が石畳のあちこちに鹿まだらを描いていた。ちょっとした森の中を歩いている風情である。そのまま坂を登っていくと、苔むした石造りの短いトンネルが現れた。

「わあ、いい感じ」

 思わず横井が言葉を漏らす。ユリカも同感だった。ひんやりとしたトンネルを抜けると、膝上くらいのちいさな外灯があり、そこに刻まれている短歌は正岡子規のものと認められた。


 人丸ののちの歌よみは誰かあらん征夷大将軍みなもとの実朝


「大石さん、これどういう意味?」

 大沢が思考停止状態でユリカに尋ねた。

「ええと、人丸ってなんだろ。」

 ユリカが首をかしげていると

「多分ひとまろ、じゃない?」

 と須永が助け舟を出した。

「あっ、そうですね。柿本人麻呂ですよ。『東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ』の人です。中学の時に習いましたよね、大沢さん。」

「誰?」

 全く覚えていないらしい。

「万葉集の代表的な歌人です。とにかく、実朝は人麻呂以来のすごい歌よみだ、ってことだと思います。えらい褒めようですね。実朝は百人一首に『世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも』で採られてます。」

「もがもが・・・?」

 大沢はユリカが呪文を唱えているようにしか聞こえないらしい。

「もがもな、です。こうあってほしいなあ、みたいな意味ですよ。」

「ふーん。そうなんだ。オレ古典赤点ギリギリだから、全然わからないよ。よく文芸部にいるよね。それにしたって、大石さん、もしかして百人一首、全部覚えてんの?」

 大沢はユリカを尊敬の眼差しで見ながら言った。

「あ、はい、一応。幼稚園の時、父にカルタ遊びとか言ってだまされたんです。意味わからないまま毎日一首ずつ覚えたみたいです。みたいっていうのは、覚えた記憶がないんですよ。今では感謝してますけどね。」

「さすが大石さん、筋金入りだね。誰もかなわないよ。」

「い、いえ、そんなことないです。」

 ユリカは須永の賞賛に、はにかんだ。

「あ、なんか建物が見える。」

 一連の出来事に無関心だった美山がぼそっとつぶやいた。皆はその言葉を合図に再び歩き出した。木々の死角になって見えなかった青い屋根の瀟洒しょうしゃな洋館がようやく姿を現した。

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