11.ダイヤの原石

⑴厄

 Reality can destroy the dream. why shouldn’t the dream destroy reality?

(現実が夢を壊すことがある。それなら、夢が現実を壊すことがあっても良いじゃないか)


 George Moore







 航には、双子の兄がいる。

 二卵性双生児としてこの世に生を受け、19年。故郷であるニューヨークを拠点に投資家として活動し、デタラメな経歴を活かして自由奔放に生きている。


 この世には、科学では解明出来ない謎が幾つも山積みになっている。双子の兄は、航にとって最も身近な超常現象だった。


 二週間ある大学の春休みを利用して、航は兄の元に向かった。課題もバイトもあるので、滞在期間は一週間程度になる。それでも、兄や侑の顔が久しぶりに見られるのは嬉しかったし、楽しみだった。


 航が飛行機を乗り継いで日本に到着した頃、兄からメールが届いていた。出立直前に送り付けられたらしいメールには、飾り気の無い文章がたった一言記されていた。


 日本には来るな。

 それを見た時の心境は、噴火寸前の火山そのものだった。

 来日の予定は事前に伝えていたのに、どうして急にそんなことを言うのか。空港からとんぼ返りする訳にもいかず、航は腹立たしさに携帯電話を地面に叩き付けたくなった。


 当然、空港に迎えが来る筈も無い。

 航はボストンバックを肩に担ぎ、兄と侑に電話を掛けた。

 短いコール音の後に留守番電話に繋がり、埒が開かないので日本の知人に電話をした。


 電話は繋がった。

 航が事情を説明すると、迎えに来てくれることになった。

 苛立ちを呑み込みながら、退屈凌ぎに鞄から文庫本を取り出す。空港のロビーで本を読み、兄や侑に電話をするが繋がらない。


 嫌な予感が腹の底に広がって、火に炙られているかのような焦燥が込み上げる。足元は自然と貧乏揺すりをして、航は何度目かも分からない舌打ちを溢した。




「航!」




 羽田空港の入口に、見覚えのある青年が立っていた。頭の天辺から爪先まで真っ黒な服装をしていて、まるで葬式帰りみたいだった。


 人懐こい笑みを浮かべながら大袈裟に手を振っているので、道行く人が振り返る。航は溜息を呑み込んで、軽く手を上げて応えた。その青年は僅かに表情を和らげ、大型哺乳類のような優しい眼差しをした。


 キャリーケースを転がして先を急ぐ営業マン、旅行帰りの若者、充足感を漂わせる家族連れ。雑踏の中でボストンバックを背負い直し、航は青年の元へ向かった。




「急に悪かったな。あいつ等、電話に出ないから」

「大丈夫、聞いてるよ。航は大学生だったか?」

「今はな」




 そんな会話をして、二人で歩き出した。

 両親の母国に来たのは、二ヶ月ぶりだった。アメリカに比べて湿度が高く、息苦しく感じる。整然としたレストランフロアからタイ料理の店を選び、二人でテーブルを囲む。


 店員は日本人だった。空腹だったので適当に注文して、航は提供された水を飲み下した。


 黒ずくめの男――神谷翔太は、テーブルの下で携帯電話を操作しているようだった。


 浅黒い肌、均整の取れた肉体。戦闘になったら、まず距離を取るべきだろう。翔太が顔を上げたので、それ以上の考えは放逐した。丁度、香辛料の独特な匂いと共に注文した料理が運ばれて来た。




「元気そうだな。背も伸びたんじゃないか?」

「身長はもう打ち止めだよ。筋肉は付いたけどな」




 航は苦く笑いながら、グリーンカレーにスプーンを差し入れた。湯気の立ち上るカレーに息を吹き掛けると、パクチーとスパイスの匂いがする。舌を火傷しないように注意深く口に運ぶと、ココナッツミルクの甘さと青唐辛子の辛味が広がった。


 翔太はスプーンを弄びながら、微笑んでいた。




「大学はどうしたんだ?」

「今は春休みだよ。うちの兄貴はさっさと卒業しやがったから、俺も飛び級を考えてる」

「そんなに急いで大人にならなくても良いと思うけどな」




 翔太が苦く笑った。

 成長を楽しみにして、まだ子供でも良いと言ってくれる人がいる。それは幸福なことだ。航は苦笑した。


 翔太の言うことは、とてもよく分かる。逆の立場なら、同じことを言っただろう。

 航は現在、飛び級制度を利用して米国の大学に通っている。だが、同じく進学した兄は、更に飛び級して、米国最高峰の大学を卒業してしまった。焦るなと言う方が、無理だった。




「湊は元気か?」




 航が問い掛けると、翔太は口の中のものを嚥下し、頷いた。


 この神谷翔太という青年は、湊の友達なのである。顔見知り程度の交流しかないが、絵に描いたような善人であることは知っている。




「なんで連絡取れねぇの? 何かあったのか?」




 まめに連絡を取り合うような関係ではないが、生存報告の為の定時連絡は欠かしたことが無い。湊は兎も角、侑まで音信不通なのは不自然だった。


 翔太はトムヤムクンの海老と見詰め合い、視線を泳がせた。




「元気だよ。相変わらず、いかれてるだけ」




 翔太が笑った。

 兄がいかれていることは、航も知っている。


 翔太はトムヤムクンの大きな海老の殻を剥きながら、肉食獣のように噛り付く。殻ごと食べられたんじゃないかと思うくらいの勢いだった。


 互いの皿が空になると、店員が下げて行った。翔太が控えめに頭を下げる。そういう真面目で謙虚な所が、嫌いじゃなかった。


 翔太は温くなったグラスの水を呷り、うんざりした顔で言った。




「ニューヨークに帰った方が良い」

「なんで?」

「今の日本は第三世界並みに治安が悪い」




 航は眉を寄せた。

 日本は牧歌的な島国である。宗教や文化すら輸入して、受け入れてしまう程度には良い加減な国民性である。首都圏でサイバーテロ染みた大停電があったことは知っているが、他に特筆すべき事件は起きていない。


 翔太はさり気無く周囲を見渡して、声を潜めた。




「中国の青龍会で内部抗争があったことは知ってるか?」




 航は頷いた。

 国家を操る黒社会の総本山、青龍会。過激な派閥争いが起きて、一般人を巻き込むような破壊行為が続いていた。総帥である李嚠亮が敵対派を粛清し、抗争は一先ず決着が付いたらしい。




「その余波で、日本に海外移民が流れて来たんだ。自衛隊が出動するようなデモ活動とか、海外移民の犯罪とかが急増して、いつ銃撃戦が起きてもおかしくないような緊張状態になってる」

「それは、話を盛り過ぎだろ」




 治安が悪化していることは、知っている。

 きっかけは都市部にカジノが作られたことだった。閉鎖的な島国は変化を恐れて新しいものを排除しようとする。新しい価値観が新しい差別を生むように、時代の蠢動は思わぬ形で現れた。


 翔太は苦い顔をして、腕を組んだ。




「実際に見た方が早いかもな」

「そうするよ」




 航は携帯電話をポケットに戻して、会計の為に店員を呼んだ。ドル紙幣を日本円に換金してあるが、この国の物価は気紛れみたいに変動するので少し不安だった。


 良心的な金額だったことに内心ほっとして、航は財布から一万円札を取り出した。




「奢るよ」

「じゃあ、お言葉に甘えて」




 翔太が笑った。













 11.ダイヤの原石

 ⑴厄











 空港を出た時、初春の柔らかな日差しが降り注いだ。

 透き通るような青空に、開花を待ち侘びた桜並木が蕾を膨らませている。吹き付ける風は冷たいが、やがて暖かな春がやって来るだろう。


 タクシー乗り場は混雑していたが、利用客は行儀良く並んでいる。タクシーが滑り込み、少しずつ乗客は目的地へ運ばれて行く。


 航と翔太がタクシーに乗ったのは、午後一時を過ぎた頃だった。運転手は気難しそうな年老いた男で、目的を告げると無言で車を走らせた。


 窓の向こうは、以前と変わらぬ街並みが広がっている。だが、その影に隠れるようにしてホームレスの段ボールハウスや外国人が見掛けられた。呑気で良い加減な人々の中に、静電気のような緊張感が漂っているのが分かる。


 外国人が、随分と増えた。

 車内テレビでは、ニュースが流れていた。

 移民急増に対し、国家は移民特区の建設を検討。市民からは反対の声が上がり、デモ活動が起きている。中東で紛争が勃発し、欧州の商業ビルで自爆テロが発生。


 航が飛行機に乗って空の上にいる間に、世界は目まぐるしく変動している。若い政治家は拳を握り、時代が変わろうとしているのだと力説する。


 翔太は無言だった。まるで、何かに備えるかのように警戒し、鋭い眼差しは凡ゆる追及を拒絶するかのように窓の外へ向けられていた。


 日本には来るな。

 あのメールが、兄の声となって再生される。

 言いたいことは分かる。だが、遅いのだ。普段は余計なことばかり言うのに、こんな時に限って説明が足りない。


 タクシーは間も無く、エンジェル・リードの事務所近くに到着した。航は現金で支払い、ボストンバックを下げて歩き出した。


 雑多な繁華街は今日も騒がしい。

 シャッター商店街が封鎖されていた。店が潰れ、街路が破壊され、まるで被災地のような凄惨な有様だった。何があったのかは分からないが、平時の状態でないことは明白だった。


 寂れた雑居ビルは三階建てで、最上階がエンジェル・リードの事務所だった。一階と二階はテナントで、未だに空き部屋となっている。不動産屋の名前がエンジェル・リードに代わっていた。どうやら、ビル丸ごと買い取ってしまったらしい。


 翔太の後を追って薄暗い階段を上り、鉄製の扉の前に立つ。磨り硝子越しに、微かな明かりが見える。翔太がノックすると、磨り硝子の向こうに人影が映った。


 銀色のドアノブが回る。貝のように閉ざされていた扉が、ゆっくりと開いた。ラベンダーの爽やかな香りがした。




「よお」




 リラックスしたテナーの声が、そっと響いた。

 輝くような金髪とエメラルドグリーンの瞳をした男が、映画のワンシーンみたいに微笑んでいる。


 侑は、翔太と航を順に見遣ってから苦く笑った。




「やっぱり、間に合わなかったか」




 侑はそんなことを言って、二人を室内へ招き入れた。

 エンジェル・リードの事務所は以前と変わりなかった。玄関先には航が購入した青い抽象画が飾られ、来客用のシンプルなデザインの椅子が二脚置かれている。事務所の彼方此方には観葉植物が青々と茂り、まるで深い森の奥のような濃密な酸素に包まれていた。


 航は、少しほっとした。

 連絡が取れなかったので、何かあったんじゃないかと思ったのだ。侑がニューヨークに来た時は銃で撃たれて療養中だったし、五体満足の姿が見られて良かった。


 短い廊下の向こうは、応接室になっている。

 何の変哲も無い木製の扉が、実は内部に鋼鉄が入っていることを知っている。其処等のちゃちな銃弾では、穴一つ開けられないだろう。


 侑は扉の前に立つと、振り返った。

 エメラルドグリーンの瞳は宝石のように美しく、けれど、この世の地獄を見て来たかのような凄みを持っていた。




「今、客がいる。お前は深入りするな」




 そう忠告して、侑は扉を開けた。

 応接室には二人掛けのソファが一脚、対面するように一人掛けのソファが二脚設置されていた。焦茶色の低いコーヒーテーブルに置かれたマグカップから湯気が昇る。


 航が応接室に足を踏み入れると、褐色の肌をした異国の青年が振り向いた。その双眸は、ローマングラスのように澄み渡り、この世の何もかもを見通すような不思議な魅力を持っている。


 頸の辺りまで伸びた黒髪は、蛍光灯の下で赤茶色に見えた。顔の横に編み込まれた髪にも、見たことの無いアクセサリーが付けられている。十代後半くらいの青年だった。彼は航を見ると人懐こく微笑んだ。




「やあ、こんにちは」




 裏表の無い朗らかな声で、青年が言った。

 立ち上がると、手首に付けられた繊細なアクセサリーが音を立てる。重厚な輝きを持つそれが、本物の純金であることは分かった。値段が付けられないくらい高価な品であることも。


 青年は航の目の前に立つと、右手を差し出した。




「僕はムラト。初めましてだよな?」




 馴れ馴れしく距離感を詰めて来るのに、その笑顔は仮面のようだった。細められた青い瞳が吟味するように航を観察している。




「君の名前は?」




 手を差し出したまま、ムラトが問い掛けた。

 航が答えを迷い、口を開こうとしたその時。応接室の奥にある扉が開いた。




「名乗る必要は無いよ」




 全てを拒絶するかのような冷静な声だった。

 扉の向こうから現れたのは、久しぶりに会う双子の兄だった。湊は、つまらなそうにムラトを見遣った。映画館に足を運んで、ハズレだった時の落胆した顔に似ている。


 湊は航を見遣ると、残念そうに肩を落とした。




「メール、間に合わなかったね」

「何なんだよ、あれ」




 航が問い掛けても、湊は苦笑いするだけだった。

 室内は異様な緊張感に満ちている。翔太は退路を塞ぐように扉に凭れ掛かり、侑はムラトを冷たく見詰めている。そして、ムラトばかりが場違いのように明るく笑っていた。


 湊は眼精疲労を誤魔化すように眉間を揉んで、溜息を吐いた。航はムラトを指し示し、湊に尋ねた。




「何者なんだ?」




 その時、ムラトの影が揺れたように見えた。

 それが人間だと気付いた時、背筋に冷たいものが走った。

 ムラトの背後に、褐色の肌をした黒髪の美女が、影のように気配も無く立っていたのである。感情を削ぎ落とした顔は人形のように整い、闇から抜け出したかのような黒い民族衣装を纏っていた。


 意識すると目を引く出立なのに、印象に残らない。それが既に一般人ではないことを知らしめているようだった。


 湊は皮肉っぽく鼻で笑った。昔は、こんな笑い方をする奴じゃなかった。湊はムラトと後ろの美女を見て、忌々しげに言った。




「そいつは、うちの疫病神だ」

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