⑸エール

 閑散とした駅前の広場に、屈託の無い朗らかな歌声が響いている。それは一陣の風のように人々の間を通り抜け、爽やかな春を連れて舞い戻る。


 時刻は午後四時を過ぎていた。

 買い物帰りの主婦と、下校途中の小学生が疎に散って行く。広場の中央には貧相な噴水があって、白い石が泉を囲っていた。


 噴水の前に、飛梅がいた。

 飾り気の無いエレキギターを抱えて、観客もいないのに声を震わせて歌い上げる。誰も振り向かないし、足を止めない。それでも、彼女は蝉のように魂を削り、何かを懸命に伝えようとしているように見えた。




「死ぬ間際まで、夢を見ていたいじゃないか」




 使い古されて擦り切れそうな綺麗事が、鮮やかなギターの音色に重なって響き渡る。時代遅れな骨太のロックンロール。誰も見てない。誰も知らない。誰も気に留めない。だけど、それでも。


 それでも、其処にはあるのだと。

 春は、寒い日と暖かい日を繰り返しながらやって来る。いつかを夢見て歌う彼女を、一体誰が笑えると言うのか。


 兄の憔悴と、侑の沈黙。

 爆弾で死んだ父と、背中で潰れた母。

 腹の底で何かが引き絞られるような息苦しさがあって、そのまま千切れて消えてしまいそうだった。


 俺の夢。

 湊が夢を叶えて、侑が心から幸せな未来を見てみたい。渡り鳥が羽を休めるように、飛び疲れた彼等が帰って来られる居場所を作りたい。


 こんな消極的な夢しか見られない俺は、一体、何になれるんだろう。誰を守れるんだろう。何を掴めるんだろう。誰も分かってくれないなんて独りで腐って、俺だって何も分かっていない。


 形容し難い熱が込み上げて、何故なのか視界が歪んだ。

 あ、と思った時にはもう遅かった。両目から熱が零れ落ちて、地面に丸く染みを作った。


 航は舌を打ち、袖で頬を拭った。こんな情けない姿は誰にも見せたくない。大きく深呼吸して、頬を打つ。水を浴びたように視界が鮮明になった。


 航は、飛梅の前に立った。

 飛梅は驚いたみたいに瞠目して、不敵に笑った。途切れることなく続く歌を最前列で聴いた。安い綺麗事が、まるで流星のように降り注ぐ。歌が終わる度に拍手を送った。それ以外の称賛の仕方は知らなかった。


 セットリストの終了と共に、彼女は深く頭を下げた。

 その時になって、少しだけ観客が集まっていたことに気付いた。僅かばかりの金銭がギターケースに投げ入れられる。逃げ出すみたいに住居を飛び出してしまったので、財布が無かった。




「アンタ、格好良いな」




 航が言うと、飛梅が笑った。

 作り物みたいに真っ白な八重歯が覗く。




「君の名前は?」

「航」

「今日は、あの子と一緒じゃないんだね」




 飛梅は明るく言った。

 湊の泣きそうな目が脳裏を過ぎる。飛梅はギターを大切そうにケースに入れて、悪戯っぽく問い掛けた。




「彼女?」

「俺の兄貴だよ。双子なんだ」




 航が言うと、飛梅がわざとらしく肩を竦めた。

 湊の外見は、何故なのか少女に見えるらしい。航はずっと一緒に居過ぎたせいで、感覚が麻痺して分からなかった。




「喧嘩して来たとこ」

「勝った?」

「さあ」




 俺達の喧嘩は、大抵の場合、勝敗が無い。どっちの言い分も正しくて、同じくらい悪いらしい。今回はどうだったんだろう。手を上げた俺が悪いのか、何も言わない湊が悪いのか。


 侑なら、違ったんだろう。

 天神新だったら、喧嘩にならなかったんだろう。

 卑屈な考えが溢れ出して、自分が情けなくなる。誰かを羨んだって、その人になれる訳じゃない。自分として生きていかなければ何も変わらない。


 飛梅は何かを見透かすように、力強く言った。




「劣等感だって、舞台に上げればロックだ」




 航は笑った。

 惚れ惚れする程、格好良い女だ。


 気の強い人は、好きだ。

 好きなもので自分を語れる人は、格好良いと思う。


 航は飛梅の歌声に価値があると思ったし、彼女が成功する姿が見たいと思う。ダイヤの原石は土の中に埋まっていて、磨かれなければ光らない。彼女が見出されるのは、いつなのだろう。




「この国には、沢山の外国人がいる。その内、スラム街なんかが出来て、人種や宗教の差別が生まれる。色んな考え方の人がいて、みんな違う方向を向いてる」




 飛梅は遠くを眺めるみたいに、滔々と言った。




「だけど、歌はきっと国境も差別も超える。あたしの歌がそうなったら、どんなに素敵だろう?」




 どんなに、素敵だろう。

 航はその言葉を、胸の内で繰り返した。


 主義主張の異なる人々が共通の目標を持ち、足並みを揃える未来は、まだ遥かに遠いだろう。だけど、そんな途方も無い理想論を、飛梅は胸を張って誇らしげに語る。




「馬鹿馬鹿しい夢かも知れない。でも、自分が味方になれなかったら、他に誰が味方になれるって言うのさ」

「……そうだな」




 その通りだ。

 夢に大きいも小さいも、貴賎も無い。

 夢見る権利は、誰にでもある。


 その時、人混みの向こうから自分を呼ぶ声がした。振り返ると、コートを着込んだ湊と侑が立っていた。寂れた駅を背景に、二人にスポットライトが当てられているみたいだった。


 湊が子犬みたいに駆けて来て、苦々しく顔を伏せた。

 謝罪の言葉を吐き出そうとするのを、航は寸前で遮った。




「謝るなよ。俺が惨めになるだろ」




 俺だって謝らない。

 航が言うと、侑の手が伸びて、頭を撫でた。




「それが、お前の最大の長所だよ」




 侑は、そんなことを言った。

 湊は片付けられたギターを見遣り、惜しそうに言った。




「今日はもうお終い?」

「ああ。遅くまでやると、通報されちゃうからね」




 世知辛い世の中だ。

 侑はポケットに手を入れて、穏やかに言った。




「今度、聴かせてくれよ」

「もちろんさ」




 飛梅は愉快そうに言って、ギターケースを背負った。カブトムシみたいだ。

 湊が豊富な語彙と優秀な頭脳を使って、彼女の歌が如何に素晴らしいか力説する。これだけ褒められたら自己肯定感は空を突き抜けるんじゃないかと思うくらいの称賛だった。

 侑はそれを、とても優しい目をして聞いている。




「投資するか?」




 侑が訊いた。

 航は、ちょっと意外に思った。そういう選択肢があることに思い至らなかったのだ。湊は顎に指を添えて、思案するみたいに唸った。


 答えの代わりにポケットから銀色の名刺を取り出して、飛梅に手渡した。社名と電話番号だけが記されたシンプルな名刺を見詰めて、飛梅が読み上げる。




「エンジェル・リード?」




 湊は頷いた。




「あと一歩が足りないと思ったら、電話を下さい。俺達が背中を押してあげるから」




 よく分からないことを言って、湊が微笑む。

 飛梅も曖昧に頷いて、名刺をギターケースに入れた。


 雑踏の中に消えて行く背中を見送ってから、三人で帰路を辿った。湊は飛梅をずっと誉めていて、侑は否定せずにただ耳を傾けている。




「上手い奴は沢山いる。売れるには、他の奴に無いものが要る」




 侑が言った。

 それは、侑がエンジェル・リードの買い付けの中で学んだことなのだろう。世の中に芸術家やアーティストは数多くいて、脚光を浴びるのは極僅かだ。


 湊は頷いて、腕を組んだ。




「アーティストのプロデュースは、やったことが無いんだよな……」




 やったことのある人の方が少ないと思う。

 俺に何か出来るかな、と湊が呟いた。芸能界のコネクションは無いらしい。プロデュースは難しい。自分がどれだけ認めていても、大衆に受けるかは分からない。


 俯いた湊の前髪が、少し伸びて鬱陶しかった。外見に頓着が無いので、放っておくとオタクみたいな風態になってしまうのだ。

 後で切ってやろうと考えた時、美大で会った松雪のことを思い出した。




「会って欲しい画家がいるんだけど」

「良いよ。どんな人?」




 二つ返事で受け入れて、湊が目を輝かせた。




「陰気なナード野郎で、目が合わないし、会話が出来ない」

「航、怖いもんな」

「俺は何も言ってねぇ。話したのは侑だ」

「侑は格好良いからな」




 流石に腹が立ったので、湊の後頭部を叩こうとした。

 航の手は侑に受け止められた。




「だから、頭は止めろ。怪我したばっかりなんだ」

「初めて聞いたぞ」

「中国で色々あったんだ」




 だったら、最初からそう言えよ。

 それなら俺だって、叩く場所くらい考える。

 湊は何も聞こえていないみたいに唸りながら歩いて行く。太腿を狙って蹴ってやると、振り返った湊が怒った。












 11.ダイヤの原石

 ⑸エール












 火曜日の午前中に、湊を連れて美大に行った。

 平日の構内は学生で溢れていた。明らかに外部の人間である航と湊は好奇の視線に晒され、まるで見世物小屋のパンダにでもなった気分だった。


 松雪のアトリエに行くと、湊が先陣を切った。

 室内には数名の学生が作品制作に打ち込んでいたが、突然の闖入者に手を止めた。湊は構わず辺りを見渡している。


 航が松雪を指差すと、彫刻の影に隠れた陰気な学生が悲鳴を上げた。どういう反応なんだ。

 湊は合点行ったみたいに頷くと、真っ直ぐに松雪の前に蹲み込んだ。会話するには少し距離がある。湊は下から覗き込むみたいにして、問い掛けた。




「貴方が、松雪さん?」




 松雪は、動揺と困惑の入り混じった中途半端な顔で、恐る恐ると頷いた。物事をはっきり言わない奴は好きじゃない。自分だったら今頃、怒鳴ってる。


 湊は床に膝を突いて、馬鹿にも分かるようにゆっくりと言った。




「貴方の絵が見たいんだ」




 初対面の犬に対する接し方だと気付いた。

 湊なりの配慮なのかも知れないが、自分だったら引っ叩いてる。松雪は少しだけ表情の緊張を解いた。




「君は?」

「早戸と申します。昨日、名刺をお渡ししたエンジェル・リードの者です」




 さらりと偽名を名乗って、湊は微笑んだ。

 松雪は当惑していたが、部屋の隅に重ねられたカンバスを引っ張り出した。自分達では、会話も出来なかったのに。


 松雪が取り出したのは、殆ど写真のような写実的な油絵だった。満天の星、落ちて来る滝、岩陰に咲く一輪の花。自然が好きなんだろう。




「すごいな……。油絵って、こんな風に描けるの?」

「いや、僕なんて大したことないんです。だから、誰にも評価されないし、就職先も見付からないし、留年してるし……」

「そんなの全然関係無いよ。貴方の絵には努力が見える」




 カンバスを掲げた湊は、まるで宝の地図を見ているみたいだった。松雪は俯いて、ボソボソと言った。




「でも……、僕の絵なんか駄目なんだ。みんな、写真で充分だろって笑ってる……」

「写真みたいな絵が描けるって、すごいと思うよ。天才だ」




 よく苛々せずに聞けるものだ。湊を連れて来て正解だった。

 航は遠くから眺めていた。近付いたら、胸倉を掴んでしまいそうだった。




「他人には言わせておけば良いさ。笑う奴は無視しろ。そんな奴等を視界に入れてやる必要なんて無い」




 湊は、カンバスに描かれた満天の星を眩しそうに見ていた。


 松雪は、放心したみたいに目を丸めていた。自己肯定感の低い被害者体質。染み付いた負け犬根性と劣等感の塊。その努力を正当に評価されたのは、もしかしたら初めてのことだったのかも知れない。


 何か変わるかも知れない。

 湊の率直な称賛と正当な評価は、松雪と言う男の性根を叩き直すことが出来るかも。


 航がそんな期待を見出した時、松雪が探るような目付きで湊を睨んだ。




「もしかして、何かのドッキリ? 僕を騙したって何にもならないぞ」




 何なんだ、こいつ。

 これだけ褒められて、認められて、どうして何も響かないんだ。松雪は侮蔑するみたいに吐き捨てて、放り投げられていた絵筆を拾った。




「僕なんかが認められる筈無いんだ。誰も、僕なんか見ちゃいない……。僕の絵なんか……」




 湊が溜息を吐いた。航にも、その気持ちは痛い程に分かる。

 何を言っても、松雪と言う男は糠に釘を打つみたいに響かない。底の抜けた器には、幾ら注いでも水は溜まらないのだ。




「君の物差しは歪んでいる。買い換えるか、捨てろ」




 湊が言うと、松雪はナイフで刺されたみたいに顔を蒼くした。否定の言葉ばかり過剰に響いて、此方の意図は何も伝わらない。


 僕なんか、僕なんか。

 松雪の卑屈な言葉がエコーみたいに木霊する。


 怒りのゲージが溜まって行く。航は風船が破裂するかのように、衝動的に松雪の胸倉を掴んでいた。




「ボソボソ喋るんじゃねぇよ、ナード野郎!!」




 室内は水を打ったように静まり返った。

 松雪の顔が恐怖に歪み、その瞳に怯えの色が映る。他人の厚意を無下にして、閉じ籠って被害者面しやがって!


 そんなんじゃ、お前を見付けた俺が間違っていたみたいじゃないか!




「俺には、お前が売れない理由が分かるぜ」




 認められない自分を憐んで、理解してもらおうと努力もせず、他人を羨んで妬んで、誰かの同情を引こうとする。そういう根性の腐った負け犬が大嫌いだ。




「お前は技術だけで、空っぽなんだ!」




 恵まれた才能も無駄遣いだ。

 芸術は表現なのに、こいつは伝えたいことが何も無い。薄っぺらで空っぽな癖に、自己承認欲求だけは人一倍高い。初めてこいつの絵を見た時は、天才だと思った。酷い裏切りをされた気分だった。


 松雪は顔を歪めて、両目に涙を浮かべた。

 こんな根性無しは、虐めたって何も楽しくない。航が手を振り払うと、横から湊が割り込んだ。




「……今のはベルベル語で、貴方の絵は最高だと言っています」




 湊が遠い目をして言った。

 流石に無理がある。湊は微笑んで、松雪の顔を見詰めた。




「貴方は世界に伝えたいことがあるんだと思う。俺には、そう見える。だけど、それを伝えるのが怖いんじゃないかな?」




 伝えるのが怖くて、どうして絵画なんて描くのか。

 湊は梟みたいに首を捻って、ゆっくりと語り聞かせるように言った。




「もしも、その背中を押して欲しいと思ったら、連絡を下さい。俺達は貴方のファンなんだ」




 名刺はもう、渡してある。

 俺達に出来るのは此処までなんだ。救われる覚悟のある奴しか救えない。


 湊は小さく会釈して、さっさと歩き出した。

 手応えはまるで感じられなかったけれど、仕方が無い。航は湊の後を追って、歩き出した。

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