⑹リスタート

 最新機種のスマートフォンは、テーブルの上で死んだように沈黙している。航はうんともすんとも言わない携帯電話を眺めながら、何度目かも分からない溜息を呑み込んだ。


 エンジェル・リードの仕事用携帯電話だった。

 普段は事務所に置いているのだが、事務所界隈の治安が悪過ぎるので仕方無く住居に持って来たのだ。時々、悪戯電話みたいに鳴ることもあるが、繋がりはしない。


 飛梅からも、松雪からも連絡は無い。

 航は夕飯の支度を始めた。今晩は豚肉の生姜焼きを作る予定だった。午後八時を過ぎ、窓の向こうはもう夜だった。湊は相変わらず寝室に篭ってギターを弾いて、侑はまだ帰らない。航はカーテンを閉じる為に、寝室へ向かった。


 扉を開こうとしたその時、玄関から音がした。

 侑が帰って来た。




「ただいま」

「おかえり」




 侑はリビングを見渡して、そのまま洗面所に向かった。

 微かに、血と硝煙の臭いがした。侑がシャワーを浴びている間に湊がリビングにやって来て、腹が減ったと声を上げる。


 テレビは、消されたままだった。

 もしかしたら、もう二度と点けられないのかも知れない。


 侑の実弟、天神新。

 SLCというカルト宗教団体による薬物実験の被害者だった。その薬物は脳と人格を破壊して、操り人形にする。破壊された脳は元には戻らず、薬物の影響が出たら、もう手遅れだった。


 湊が緩和剤を制作し、投与するまでの僅かな誤差。

 それが、天神新の運命を決めた。薬は出来ていたのに、臨床試験が間に合わず、天神新は人格を破壊された。そうして操り人形となった彼は、SLCに使われて、或る街で大量の民間人を虐殺した。


 湊と侑が必死に追い掛け、助けようと奔走し、どれだけ手を尽くしても、天神新は救えなかった。彼は大量殺人犯の汚名を被り、その名誉は取り戻されず、闇に葬られた。


 どんな気持ちだっただろう。

 天神新を追い掛けた湊、目の前で救えなかった侑。彼等を置いて逝かなければならないと分かった時の天神新は、どれだけこの世を恨み、絶望しただろう。航には、彼等の苦しみを想像することも出来なかった。


 りんりん、と鈴が鳴る。

 湊の足首に巻かれたミサンガに、銀色の鈴が付いている。澄んだ高音は、離れていても聞き取れるくらい綺麗な音だった。


 湊は脇に雑誌を抱えていた。

 ドイツの科学雑誌だった。侑がシャワーを浴びている間、湊はずっと雑誌を読んでいた。その真剣な横顔は、真理を探求する科学者と呼ぶよりも、被災地を視察する調査団みたいだった。




「何を読んでるんだ?」




 航が問い掛けると、湊は雑誌に目を落としたまま答えた。




「ドイツの大学の研究チームが、動物油のプラスチックを開発したんだ。殆ど完全なリサイクルが出来る次世代のプラスチック素材だ。人体への影響が少ないから、医療への導入が検討されている」

「ふうん」

「この次世代プラスチックは人体組織に近いから、レントゲンにも映らない」




 独り言みたいに、湊が言った。

 良いものが開発されたのだろう。科学が医療でも真価を発揮するのならば、素晴らしい発明なのだろうと思う。




「まだ市場には出回っていない……」




 分子構造とかモノマーとか、よく分からないことを言っていた。その内、洗面所から侑がやって来た。石鹸の匂いを漂わせて、侑が雑誌を覗き込む。湊が同じ説明をすると、侑は目を眇めて、神妙な顔をしていた。




「従来のものに比べると融点は低いけど、絶縁性が高い。ちょっとした機械なんかを内部に仕込んでいても、金属探知機には引っ掛からないかもね」




 侑が関心を持つのは、意外だった。

 湊は呪文のように化学式を羅列して、コピー用紙に書き付けた。




「吾妻さんの母校だ。訊いてみる」




 そう言って、湊は寝室へ引っ込んでしまった。

 航はリビングに取り残され、風呂上りの侑を見遣った。




「湊は何の話をしてるんだ?」




 兄の話はいつもよく分からない。

 侑は意味深に笑って、言った。




「彗星の話さ」












 11.ダイヤの原石

 ⑹リスタート











 暇を持て余した水曜日、何となく駅前の広場に行った。

 飛梅に会えるんじゃないかと、あの心を揺さぶるような歌が聴けるんじゃないかと期待した。けれど、広場に飛梅の姿は無く、閑散とした寂しげな街並みが広がっているだけだった。


 湊も侑も、忙しそうだった。

 湊はパソコン二台を使って、よく分からない数式と闘っていて、侑は不在にしている。航に出来ることは殆ど無く、食事の用意をしたり、偶に茶を淹れたりして暇を潰した。


 帰国の予定は日曜日だった。

 この国の状態を考えると、予定通りに出立出来るかは分からない。携帯電話を見遣ると、バシルからメールが来ていた。


 日本にいることを告げると、バシルは驚いた顔のキャラクタースタンプを送って来た。バシルの親友も日本に来ているらしい。


 世間って狭いな。

 もしも会ったら宜しく、なんて言われて、航は見なかったフリをした。バシルの親友なら、きっと超御人好しで、世界善人決定戦のトップに立つような奴なんだろう。


 世界のテロ発生状況をネットで見てみると、中東では昨日も市民を巻き込むような銃撃戦が起きていた。この世界はどうなってしまうんだろう。いつか、武力によって制圧されて、俺達も徴兵されて、戦争の道具にされてしまうのだろうか。


 特筆すべきことも無いまま、水曜日は暮れていった。

 帰宅すると、湊と侑がリビングテーブルを挟んで小難しい顔で唸っていた。テーブルには無数のコピー用紙と、センスの無いロゴマークが幾つも描かれている。


 エンジェル・リードのロゴマーク。

 湊は、自分達がどんな組織なのか一目で分かるようなロゴマークを創りたいらしい。




「翼が良いんじゃないか?」




 侑が言った。

 エンジェルで連想するのは、確かに翼だ。だけど、エンジェル・リードのエンジェルは、天使のことではない。活動の本質はLead ――導くことにある。




「星も好きなんだけどな」




 ボツになったロゴマークを指して、湊が首を傾げる。

 星が好きなのは湊自身であって、活動には何も関係がない。しかし、まあ、昔の船乗りは星を目印に航海したと言うから、的外れでも無いのかも知れないけれど。


 航はボツになったロゴマークを並べた。

 センスはダサいけれど、アイデアだけは豊富である。湊は直線や曲線をきっちりと描く。遊び心が無いのだ。


 コピー用紙を捲っていると、下の方に炎のようなエンブレムを見付けた。それは燃え盛る紅蓮の炎と呼ぶよりは、遠くに光る灯火のようだった。ボールペンで描かれたシンプルなデザインは、何処にでも溶け込む。




「これ、良いじゃん」




 航が言うと、侑が目を丸めた。エメラルドの瞳に微かな驚きが映り、予備動作も無く航の手元からコピー用紙を拐って行った。




「それはただの落書きだ」

「侑が描いたの?」




 航は驚いた。

 湊の陳腐なデザインよりも、ずっと洒落ていた。何処にでもありそうで、何処にも無い。そういう不思議な魅力が、その絵にはあった。


 そういえば、侑の弟は油絵を描いていた。

 芸術や感性は、自分達よりもずっと上だったのかも知れない。側溝から小銭が出て来たみたいに、意外な才能を見付けた。


 侑が拐って行った紙を、湊が掠め取る。

 手癖が悪いのだ。湊は炎のエンブレムを眺めていた。




「そのマークに、エンジェル・リードの名前を重ねたら、結構良いと思うけどな」




 航が言うと、湊が微笑んだ。掠め取った用紙をプリンターに読み込ませて、パソコンのディスプレイに投影する。エンジェル・リードの名前をそのまま載せるので、字体や文字の大きさを変えさせた。ロックバンドみたいなマークになってしまったが、航は格好良いと思った。


 それはそれでプリントアウトして、湊は全体をシンプルに処理した。名刺に載せたら、ちょっと目を惹くモダンな良いデザインになった。炎の上に勝手に三つの星を並べて、湊は感嘆の息を漏らした。




「次からは、この名刺を使う」




 湊はそう言って、名刺を作り始めた。

 エンジェル・リードの銀色の名刺が湊のお手製であったことも初めて知った。侑は何かを言いたげにしていたが、航はとても気に入った。ロックバンドみたいなエンブレムは、ステッカーにして、愛車に貼ってやりたいくらいの出来だった。


 並べられた三つの星は、何だろう。

 湊と侑と、もう一人。それは俺なのか、それとも、天神新なのか。訊いても、湊は曖昧に微笑むだけで答えなかった。


 翌日の木曜日、駅前の広場に行ったら飛梅がいた。

 以前の朗らかな笑顔は無く、まるで葬式帰りみたいな陰気な顔をしていた。ギターケースは閉ざされたまま、歌う気力も失くしたみたいに項垂れている。


 そんな姿を見るのは、初めてだった。

 航は買い物に向かう途中で、荷物持ちに湊を連れていた。意気消沈する飛梅を見て、湊が駆け寄って行く。


 飛梅は、痛々しい笑顔を貼り付けていた。湊が隣に座って、心配そうに顔を覗き込む。いつの間にか他人の予防線を超えて、懐に潜り込む才能は見ていて恐ろしいくらいだった。




「昨日、オーディションがあってね……」




 落ちちゃった、と茶化すみたいに飛梅が笑った。

 無理して作った笑顔は、とても寂しそうに見えた。


 才能があっても、どれだけ努力しても、評価されるとは限らない。路上で歌い続けた飛梅は狭き門を通ることが出来なかった。


 上手い人は沢山いる。売れるには、他に無いものが必要だ。

 そう言ったのは、侑だった。




「あたしの歌は、時代遅れなんだってさ。これからはキャッチーでみんなが歌いたくなるような曲を作ることにした」




 そう言って、飛梅は楽譜を見せた。


 飛梅の書いた歌詞は、まるで昨今の恋愛ソングを切り貼りしたみたいに無難で退屈だった。或る程度は大衆受けするのかも知れないが、これを彼女が歌う姿は、見たくないと思った。




「こんな所でいつまでも歌っていたって、何の未来も無い」




 捨て鉢みたいに、飛梅が吐き捨てる。

 まるで、見えない刃に切り裂かれたみたいだった。


 俺の認めた女が、何も知らない他人に値踏みされて消費されて行く。それは自分自身が馬鹿にされるよりもずっと屈辱だった。航は拳を握り、怒りの波が過ぎ去るのを待った。感情のままに怒鳴ったって何も変えられない。




「そんな大衆に媚びた曲で、ロックの神様は許してくれるのかい?」




 航が問い掛けると、飛梅が目を伏せた。


 観客がいなくても、堂々と歌い上げる姿が好きだった。向かい風を物ともせずに走り続ける背中が好きだ。こんなチープな曲を歌う飛梅の姿なんて見たくない。




「失敗したから、何だってんだ。失敗から学んで、また立ち上がれば良い」




 夢なんて叶わないのかも知れない。

 理想なんて届かないのかも知れない。

 だけど、それでも、航は彼女の夢が叶う瞬間が見たい。




「扉が開くまで叩き続けろ。それが、ロックだろ」




 飛梅が顔を上げた時、湊が蹲み込んだ。

 飛梅さん、と労わるように優しく呼んで、湊が微笑んだ。




「あと一つの努力で、その夢に手が届くかも知れない。あと一つの坂道を越えたら、朝日が見られるかも知れない。そう思いませんか」




 語るように、諭すように、湊が問い掛ける。


 他の誰が彼女を否定しても、俺達はその努力を称賛する。

 彼女の夢が叶う瞬間が見たい。




「次の土曜日に、都心の小さなライブハウスでロックイベントがある。一人くらいなら、捻じ込むことが出来る」

「ロックイベント?」

「かなり小規模だけど、スカウトマンも来る」




 湊は、本当に顔が広い。

 今まで何処で何をしていたのか知らないが、この国の人間以上に界隈の情報に精通している。


 業界に直接売り込むのではなく、コネクションで押し通すのでもなく、あくまで飛梅にチャンスを与える。金や権力にものを言わせるのではなく、世間には彼女自身の才能を評価して欲しい。




「俺は沢山のことを諦めながら生きて来たから、貴方の歌にぶん殴られた気分だった。――貴方の夢を、俺にも見せてよ」




 湊は手を差し出した。航には、その小さな掌に、輝かしい未来への切符が乗せられているように見えた。幾ら手を差し伸べたって、取ってくれなきゃ救えない。どんなに優れた才能も、舞台が無ければ輝かない。


 俺達なら、それが出来る筈だ。

 湊が叫んだ。




「夢の終わりなんて見たくない!」




 勇気を分け与えるような力強い声だった。

 それが声が呼水となって、航も声を上げていた。




「まだ終わりじゃないぞ!」

「もう一度!」




 航と湊の声は、ぴったりと重なった。




「何度でも!!」




 不安に染まっていた飛梅の瞳に光が宿るのが見える。


 俺達は、生まれる前から一緒だった。どんなに遠く離れても、どんな世界を生きていても、同じ夢を見ることが出来る。


 飛梅が手を伸ばす。断崖絶壁に、一本の橋が架けられたみたいだった。湊は握手を交わすと、真新しい名刺を差し出した。


 銀色の名刺を傾けると、侑の描いたロゴマークが社名の下から光った。それは、燃え盛る炎ではなく、遠くに見える灯火のような小さな火だった。

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