⑺霜害
霧のような雨が降っていた。
航は寂れた薄暗いスタジオにいた。隣県の小さな音楽スタジオは気の良い老夫婦が経営しており、昔ながらの喫茶店みたいにアットホームでレトロな雰囲気だった。
親父の知人で、常盤霖雨と言う弁護士の紹介だった。老夫婦は昔、かなり尖ったロックミュージシャンで、ライブハウスで派手なパフォーマンスをして、器物損壊で起訴され掛けたことがあるらしい。
スタジオをエンジェル・リードの名義で借りて、飛梅の練習場として提供した。老夫婦は飛梅を孫を見るみたいな優しい眼差しで迎え入れて、親切に対応してくれた。
ライブまで、あと三日。
イベントに出演するミュージシャンは既に決まっていたので、其処に捻じ込んだ飛梅に与えられる時間は少ない。三人でセトリを考えていると、時々話が脱線した。飛梅の話術やキャラクター性が異様に高く、いつまでも彼女の話を聞いていたいとすら感じた。
飛梅の両親は海外のロックバンドのファンで、彼女は幼い頃からロックミュージックに囲まれて育った。出身は九州で、高校には進学せずに上京したらしい。その時にも彼女を叱ったり、反対したりはせず、笑って背中を押してくれたと言う。
彼女の話を聞いていると、航は死んだ両親のことを思い出す。反抗期の自分に辛抱強く向き合ってくれて、支えてくれた。好きなことも嫌いなことも、自分で決めて良いと笑っていた。あの温かく穏やかな日常はもう戻れないけれど、尊敬する両親が誇れるような人間になりたいと強く思う。
「聴き手に寄り添うのと、媚びるのは違う。貴方は好きに演って良い」
楽譜を見ながら、湊が言った。
側にはノートパソコンが開かれていて、強引に時間を捻出して此処に来ているのだと分かる。
エンジェル・リードの活動費は、湊の個人資産だ。息をするように大金を動かしながら、湊は温厚に笑っている。
「応援されるのは、久しぶりだ」
飛梅が自嘲するみたいに溢した。
そりゃそうだろう。学歴社会のこの国で、進学もせずに夢を追い掛けるなんて無謀な行為を応援するのは、難しい。他人なら好きに言えるけれど、彼女は本当に両親に恵まれた。
「下らない夢は捨てろとか、現実を見ろとか、今まで何度言われたことか」
飛梅は肩を竦めて笑った。
反対する気持ちも分かる。だけど、彼女の歌声には価値がある。航は今もそう信じているし、彼女の夢が叶う瞬間が見たいと心から思う。
湊は楽譜から顔を上げた。
「人間の成功って何なんだろうね?」
億万長者になることか、一家の主人となることか。
世間から評価されることか、社会に貢献することか。
湊にも、夢がある。
それは細やかで幸福で、誰も傷付けない優しい夢だ。航は、湊の夢だって叶って良い筈だと思う。
湊は楽譜を返して、濃褐色の瞳で飛梅を見据えていた。
「俺は、夢にどれだけ真剣に打ち込めたかってことなんじゃないかと思うんだ」
結果ではなく、過程を。
夢という種を撒き、丁寧に手入れをする。灼熱の太陽が降り注ぐこともあれば、嵐の日もあるだろう。例え萎れて枯れそうになっても、諦めずにいれば、いつかそれは大輪の花を咲かせるかも知れない。
「たった一人で見た夢が、百万人の現実を変えるかも知れない。そうでしょう?」
輝くような存在感を放ちながら、湊が堂々と問い掛ける。柔らかな口調でありながら、それは否定を許さない。鏡のようにあるがままを反射して、目を逸らすことを認めない。
そうだね、と飛梅が笑った。
それは、闇の底に光る小さなダイヤモンドのようだった。
11.ダイヤの原石
⑺霜害
飛梅をスタジオに送り届けたその足で、航は美大に向かった。帰国の日が近付いているので、少しでも湊と侑の力になってやりたかった。
美大は静謐な空気の中にあった。
自分だけの夢を持ち、努力することが許される。それは、爆弾の降り注ぐ戦場や差別と貧困に苛まれる現実では叶わない。
北棟の奥、底冷えする狭いアトリエで、松雪は相変わらず油絵に没頭していた。蚊のような細い神経を持った卑屈な男だが、芸術と向き合う時だけは、まるで吸い込まれそうな集中力を発揮する。
声を掛けると松雪が椅子の上で跳ねて、怯えて距離を取ろうとする。目も合わないし、会話も成立しない。航が話し掛けてもストレスが溜まるだけなので、湊が翻訳機代わりだった。
湊は、歯の浮くような賛辞を並べて、根気強く鼓舞した。松雪は少しだけ湊に心を開いていて、或る程度は会話することが出来るようになっていた。
「僕はもう26歳だし、後輩にも追い抜かされてる。才能が無いんだ。夢を見るには遅過ぎるんだ」
松雪の弱音は空気そのものを腐らせる。彼の言葉は後悔と諦念に染まっていて、聞いているだけで足元を絡め取られるような不安に駆られた。
些細なきっかけで、松雪はすぐにネガティブな考えに取り憑かれる。幾ら励ましても、暖簾に腕押ししているように虚しい。
航は早々に匙を投げた。意思疎通が出来ているのか、会話が成立しているのかすら分からない。
向上心の無い奴はクソだな。
航は内心で吐き捨てて、湊を見遣った。
湊は肩を竦めて、明るく言った。
「貴方には、まだ見ていない世界がある。現実を諦めるには早いと思いますよ」
「君に何が分かるんだ……」
「分からないから、一緒に見に行きませんか?」
諭すように、湊が問い掛ける。
「貴方の絵が、世界を切り裂いて行くのが見たいんだ」
自信を分け与えるかのように力強い声だった。
詐欺師みたいだな、と航は思った。松雪は茫然と口を開き、そして、ぐしゃりと顔を歪めた。
「同じことを、言われたことがあるよ……」
独白みたいに、松雪が零した。
「その人、見る目があるね」
そう言って、湊は挑戦的に笑った。
上から目線で言っているのに、腹が立たないのは何故なんだろうか。松雪は崩れ落ちるみたいに椅子に座った。
「僕の恋人だった」
「最高の理解者だね」
湊は描き掛けの油絵を抱えて、自分のことみたいに嬉しそうに言った。松雪はこの世の終わりを迎えたかのように項垂れ、額を押さえた。
「去年のホロコーストで、殺されたんだ……」
それは、歯の隙間から溢れ落ちたような悲鳴だった。
部屋の中が、凍り付く。
湊の手からカンバスが滑り落ちる。航は落下する寸前で受け止めた。見上げた時、湊はまるで、凡ゆる希望が奪われて、絶望のどん底に突き落とされたかのような酷い顔をしていた。数秒前の明るい笑顔は消え去り、今にも倒れそうに真っ青になっていた。
「彼女さえ生きていたら……僕は、僕は……!」
湊は唇を噛み締めていた。握られた拳が震えている。
これ以上のことは、聞かせたくなかった。
あのホロコーストは、侑の弟がやったことだ。だけど、その時の天神新はSLCの薬物で脳を破壊され、犯罪組織の操り人形だった。
湊も侑も、天神新を助けたくて、守りたくて、必死に手を伸ばして、それでも届かなかったのだ。
SLCは解体したし、天神新は死んだ。だけど、あの時の傷は癒えていない。その傷痕は今も深く刻み込まれ、多くの人を地獄の底に叩き落とした。
湊を連れて来るんじゃなかった。
こんな話を聞かせるくらいなら、一人で来れば良かった。例え、松雪の話し方に苛付いて胸倉を掴んで怒鳴ることになったとしても、湊にこんな顔をさせたい訳じゃなかった。
湊はぎゅっと目を閉じた。目を開けた時にはいつもの笑顔を浮かべていたけれど、顔色は死人のようだった。
「俺も、大切な人を亡くしたことがある」
噛み締めるように、語り聞かせるように、湊が言った。
泣きたかったのかも知れないし、叱って欲しかったのかも知れない。
「本当は今も生きているんじゃないかって、悪い夢を見ているだけなんじゃないかって。そんなことを思う度に遣り切れ無くて、死にたくなる」
天神新は、湊の友達だった。
親友だったのか、共犯者だったのか、それ以上の何かだったのか。湊は関係性に名前を付けなかった。それが良いことだったのか、そうではなかったのかも、航には分からない。
航の傷を湊が共有出来ないように、湊の傷を航も共有出来ない。産まれる前から一緒だったのに、一番近くにいた筈なのに、俺はその傷をどうしたら癒してやれるのか分からない。
湊は瞳に炎を灯して、恫喝するように凄んだ。
「でも、部屋に閉じ籠って何が変わる。俺は生きて行く。今日も明日も生きて行くんだ。大切な人との思い出を忘れたくないし、死んだことを無意味にしたくない」
突き付けるように、湊が言った。
その眼差しは氷のように冷たく、透き通っている。
湊は擦り切れそうな声で、言った。
「悲しみには意味があると思いませんか」
松雪の瞳に透明な膜が張るのが見える。
耳が痛くなるような静寂と沈黙。湊は唇を噛み締め、低く言った。
「逃げたって壁は無くならないぞ」
湊はそう言って、逃げるみたいに部屋を出て行った。
男の子だったんだね、と松雪が今更なことを零した。
どうでも良いことだ。航は部屋から飛び出した湊を追い掛けるのに精一杯だった。
湊は泳ぐように人混みを掻き分けて、まるで何かに駆り立てられているみたいに歩いて行く。学生の群れが衝立のようだった。航が漸くその肩を掴んだのは、来客用の駐車場だった。
駐車場は伽藍として、茜色の夕陽に染まっている。
何処か遠くで車のクラクションが聞こえた。烏の鳴き声が、両親の葬儀で聞いた鐘の音に重なって響く。
湊は乱れた呼吸を整えるみたいに肩を上下させていた。振り返らない背中の向こうで、どんな顔をしているのか。航には、それを見る勇気が無かった。
「松雪は、辞めよう」
航は言った。
湊や侑がこんな思いをするくらいなら、松雪なんてずっと部屋の中で燻っていれば良い。湊は背中を向けたまま言った。
「あの人は才能がある。磨けば光る、ダイヤの原石だ」
「それを俺達が磨く必要はあるのか?」
「俺達は、努力に対して正当な評価をする。それが例え、どんな人間であっても」
そう言って、湊が振り向いた。
夕焼けに染まった面には、涙の一つも見られない。
「あの人の絵が、いつか誰かを救うかも知れない」
だけど、それはお前じゃない。
航は拳を握った。遣り切れなくて、悔しくて、何かにぶつけてやりたくなる。だけど、航にはその拳の向ける先が分からなかった。誰を恨み、何を憎めば良いのか。誰が悪くて、何を責めれば良いのか。――そんなの、誰にも分からない。
航が反論しようとした、その時だった。
突き上げるような轟音が鳴り響いて、大地が波のように揺れた。悲鳴が上がって、航と湊は咄嗟に互いの手を握った。
湊の目が、空を見る。
鮮やかな夕焼けの中に、一筋の黒煙が朦々と立ち昇るのが見えた。
携帯電話の回線は一瞬でパンクした。
電話もメールも、ネット接続すら不可能だった。右も左も分からず、人々が助けを求めて逃げ惑う。地響きは長く続いた。
行かなきゃ、と湊が溢した。
故郷の訛りのある英語だった。
航は揺れが収まったのを確認して、バイクに飛び乗った。後部座席に湊が乗り込み、単車は弾丸のように駐車場を飛び出した。
道の彼方此方で車が停車し、通行人は不安そうに立ち竦んでいる。緊急車両のサイレンが鳴り響き、航は全てを振り切るつもりでアクセルを全開にした。
「何が起きてる?!」
「分からない!」
湊が怒鳴った。
自然と住居に向かって走っていた。何が起きているのか全く分からないが、侑が心配だった。
立ち昇る黒煙が空を埋め尽くし、今にも雨が降り出しそうな鉛色の雲が広がって行く。警察の白いヘリコプターが横切って、烏が羽音を立てて飛び立つ。
高速道路は避けて、街路を選んだ。入り組んだ道は通行人で溢れていたが、クラクションを鳴らすと避けて行った。カーブの手前で速度を落とした時、湊が言った。
「テロだ」
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