⑻嵐の中

 記憶の底に押し込んで来た苦渋が染み出す。両親の命が奪われたのも、テロだった。それは政治的目的の為の暴力による脅迫行為。平和から最も駆け離れた鬼畜の所業。


 まさか、この国でも起こるのか?

 両親を奪ったあの赤い悪魔が、また。

 臓腑が冷えて、全身が鉄のように固まっていく気がした。




「大丈夫」




 力強く、湊が言った。

 背中に、兄の体温を感じた。肩に置かれた掌が、現実に引き留めてくれる。その時、銀色のセダンが併走した。パワーウィンドウがするすると降りて、中から見覚えのある男が顔を覗かせた。


 秋田犬のようなつぶらな瞳をした男が、強張った顔で呼び掛ける。




「遅いぞ、エンジェル・リード!」




 航は、その男を知っていた。

 警察庁警備局警備企画課、ゼロと呼ばれるこの国の暗部。両親が亡くなった時、日本に亡命する際に世話になった。


 羽柴綾はしば りょうと言うのが、その男の名前だった。羽柴はハンドルを握りながら、片手で車の上に回転灯を設置した。赤い光がサイレンと共に鳴り響き、人も車も存在しない無人の帯が目の前に広がった。




「ペリドットは動いているのか?!」

「当たり前だ!」




 湊が叫ぶ。

 羽柴は黒煙の昇る都心に向かっているようだった。航は、侑のことが気掛かりだった。連絡が取れない時は、死んだと思え。では、今は一体、どうすれば良いのか。




「ちゃんと追い込んでる。だから、大丈夫」




 湊が、そんなことを言った。

 羽柴とは途中で別れ、航は住居に向かって走った。


 平日昼間のマンションは、恐怖と動揺に支配されていた。穏やかな日常が脆くも崩れ去り、暗黒の時代がやって来る。銃弾の雨に怯え、子供を抱え、助けを求める先も無い。


 住民は空を見上げ、次はその悲劇が自分の身に降り注ぐのではないかと震えている。マンション前の公園はそんな緊迫感に包まれ、今にも恐怖が破裂しそうだった。


 その時、公園の向こうから空咳が聞こえた。

 小さな滑り台の奥、金髪の男が背中を丸めている。


 溺れる者が藁に縋るみたいに視線が集まる。気道に異物でも詰まらせたみたいな咳をして、侑が口元を覆っている。黒いジャケットは埃塗れで、彼の美しい金髪も汚れてしまっていた。




「侑!」




 航と湊が駆け寄ると、侑は遠慮するみたいに手を振った。

 けれど、咳込みは止まない。航が背中を摩ろうと手を伸ばした時、侑は嘔吐を堪えるように口元を隠した。


 そして、次の瞬間。

 侑の掌に、一輪の花が咲いた。


 航は面食らった。まるで、魔法を見せられたみたいだった。

 侑は黄色のガーベラを差し出して、悪戯っぽく笑った。




「大成功?」




 黒煙の立ち昇る空を背景に、人々の恐怖を受け流すみたいに、侑はガーベラを持って笑っている。その顔を見ていると、緊張や不安は潮が引くように消えてしまった。


 最初に反応したのは、子供だった。

 侑の手にあるガーベラを見て、もっととせがむ。蒼い顔をしていた母親達が駆け寄って、叱り付ける。恐怖が伝播する。刹那、湊が笑った。




「大丈夫。この世の終わりじゃないよ」




 夜の闇を朝日が切り裂いて行くように、人々の間から恐怖と不安が消えて行く。呆気に取られる母親と、手品をせがむ子供達。侑と湊は、逆風に立ち向かうかのように背筋を伸ばしていた。


 たった一輪の花が、たった一言の勇気が、現実を変えて行く。侑と湊は群衆に一礼すると、早足に歩き出した。













 11.ダイヤの原石

 ⑻嵐の中













「悪ィ。玉を逃した」




 住居に向かう道すがら、侑が苦々しく溢した。

 航には、何のことか分からなかった。湊は否定も肯定もせず、淡々と了承の返事をした。




「まだ大丈夫」




 湊がポケットから鍵を取り出して、玄関を開けた。ラベンダーの柔らかな香りが風のように吹き抜ける。二人は靴を脱ぎ捨てて、真っ直ぐ寝室に向かった。


 航は散らかった靴を揃えて、後を追った。

 追い付いた時には湊が机の前に座っていて、侑はその肩越しにパソコンを覗いていた。ディスプレイには近隣の地図とニュース速報、メールが映し出されている。


 既に湊はパソコンに集中していて、誰の声も届かない状態に入っていた。侑が埃塗れの金髪を掻き上げると、血と火薬の臭いがした。




「何が起きてるんだ?」




 恐々と訊ねると、湊に代わって侑が言った。




「赤い牙の爆弾テロだよ」




 嫌な記憶が脳裏を掠めた。

 航は幻影を振り払うように拳を握った。侑は溜息を一つ吐き出した。




「公安からの依頼で、テロリストの誘導をしていたんだ。一網打尽にするつもりだったんだが、親玉に逃げられた」




 侑の声は荒野のように乾いている。


 中東の過激派組織が、この国に潜入していた。

 侑は公安に協力して、テロリストを捕縛する為に暗躍した。それが、ここ数日の不在の理由だった。


 その内容が具体的にどんなものだったのかは分からない。

 だが、赤い牙の親玉は逃げ果せて、爆弾テロを決行した――。


 これ以上ないと思う程に、事態は深刻になっている。この国はテロの脅威に晒され、地獄の底に叩き落とされる。その時、湊の指先が高らかにキーを叩いた。




「死傷者は出ていない。まだ大丈夫だ」




 ディスプレイに映し出されたのは、爆心地と思われる荒れ果てた画像だった。煙と瓦礫の奥に、重油を垂らしたような海が見える。


 爆破されたのは、海岸沿いの工業地帯らしかった。

 環境汚染を理由に幾つもの工場が廃止され、この国は跡地に空港を作ろうとしている。治安悪化や政界の入れ替わりを理由に計画が頓挫し、犯罪の温床となっていた。


 其処が爆心地となり、被害者が出なかったのは、公安や侑の誘導のお蔭らしかった。けれど、テロは起きてしまった。民衆の不安は膨らんでいる。




「不発弾が爆発したことにする」




 キーボードを叩きながら、湊が言った。

 情報操作と扇動。真実を隠したまま避難区域を拡大し、民衆をテロから遠去ける。




「そんなこと、出来るのかよ」

「やるだけやるさ」




 湊はそう言って、笑った。

 侑も湊も、不自然に落ち着いている。世間は大災害に見舞われたかのように怯えているのに、彼等だけが平静の状態を保っていた。




「こうなることが、分かってたのか?」




 何処から何処までが、彼等の筋書きだったのか。

 侑が冷静に言った。




「望んだ訳じゃねぇ。準備していただけだ」




 凡ゆる不幸と悲劇を想定して、最悪を回避する為の根回し。何万人もの死傷者を出すかも知れなかった爆弾テロを最小限に抑え込んだのは、表舞台に立たない彼等の尽力だった。


 湊は、蛇蝎の如くディスプレイを睨んだ。




「アフマドを誘き出す」

「何をすりゃ良い?」

「今は辛抱だ。必ず餌に食い付く……」




 湊も侑も、深い疲労感を滲ませていた。

 やっていることの規模が大き過ぎて、脳が理解を拒否している。航は掛ける言葉も見付けられず、二人の沈黙を眺めていることしか出来なかった。




「約束、守れないかも知れない」




 湊が、泣き言を溢すように言った。

 侑が苦く笑って、頭を撫でる。




「それが最善なら、受け入れるしかない」




 二人の約束。

 死なない、殺さない、奪わない。

 ニューヨークで聞いた侑の声が、漣のように耳の奥に響く。


 諦念と絶望が室内を満たして、息苦しい。溺れそうだと思った、その時。エンジェル・リードの仕事用携帯が明るい音を鳴らした。


 応答しようとした湊を制して、侑が手を伸ばした。

 窓際に寄った侑が、落ち着き払った声で返事をする。




「土曜のライブは中止だ」




 侑が冷たく言った。

 航は顔を歪めた。


 土曜日のライブは、飛梅の夢の第一歩になる筈だった。この爆弾騒ぎのせいで中止になってしまったらしい。


 応対する侑を横に、湊が溜息を吐いた。どれだけ手を尽くしても、指の隙間から希望が零れ落ちて行く。俺達はそれを眺めていることしか出来ない。


 湊は椅子の上に膝を立て、首を傾けた。




「俺は、叶わない夢を見ているのかな?」




 弱り切った声で、湊が囁くように問う。

 情けない顔を見ると、殴ってでも現実に引き留めたくなる。だけど、握り締めた拳では、何も掴めない。航は掌を差し出すつもりで、笑ってやった。




「まだ終わりじゃないぞ」




 湊の瞳に、ぽっと火が灯るのが見えた気がした。

 航は兄の肩を叩いた。湊の掌から未来が零れ落ちるなら、俺が何度でも拾ってみせる。


 俺も兄も、侑も生きてる。

 此処はまだ地獄じゃない。




「舞台が無いなら、作れば良い。観客がいないなら、呼べば良い。この程度の逆境を乗りこなせない俺達じゃないだろ?」




 不安はあるし、怖いとも思う。

 だけど、此処で折れたら、踏み止まれない。


 湊が笑った。




「どうにかしてみせる」




 どちらともなく、拳を出していた。

 二人で拳をぶつけた時、まるで互いのことが自分のことのように分かった。




「あのボンボンを呼び出せ。俺が話を付ける」




 湊とムラトは相性が良くない。

 大切にしているものが違う。湊はエンジェル・リードの看板を背負っているし、侑は手一杯だ。一番自由に動けるのは、俺だ。




「お前と侑は、赤い牙をどうにかしろ」

「……任せた!」




 湊が椅子を回転させて、パソコンに向き直る。

 航は踵を返した。侑は通話を終えていた。玄関に向かう航を見詰めて、目を細めている。




「お前はこの時の為に、日本に来たのかもな」




 仕事用携帯を差し出して、侑が言った。

 掌で受け取って、航は歩き出した。外はもう暗かった。東の空に獅子座のレグルスが輝いている。


 エレベーターは避けて、階段で地上に向かった。仕事用携帯にメッセージが届いている。差出人は、ムラトだった。


 事務所で待つ、と。

 装飾品で身を固めた彼からは想像も出来ないくらい、飾り気の無いメッセージだった。


 殆ど同時に電話が来た。

 航が受けると、スピーカーの向こうで気まずそうな沈黙が流れた。自信も覇気も無い瀕死のような声で、ボソボソと何かが聞こえる。何を言っているのか聞き取れないが、航はそれが誰なのか分かった。




「松雪さん?」




 航が問い掛けると、電話口で声が跳ねた。

 対面していなくても、こんなおっかなびっくり喋るのか。

 航は深呼吸をした。松雪は相変わらず陰気な男だが、電話を掛けて来たと言うことは、俺達の伸ばした手が無意味ではなかったと言うことだ。




『もう遅いかも知れないけど……』




 今日も絶好調にネガティブだ。

 だが、航はその卑屈さを笑い飛ばせるだけの余裕があった。




「挑戦するのに、遅過ぎることなんてあるもんか」




 顔が見えなくても、松雪の不景気そうな顔が想像出来る。

 松雪は、一年前のホロコーストで恋人を亡くしている。唯一無二の理解者を理不尽に奪われた時、彼はどれ程、苦しんだだろう。


 俺は松雪の印象に引き摺られて、その人間性を見ようとして来なかった。彼が何を願い、何を愛し、何を描こうとしているのか想像もしなかった。


 あのホロコーストが起こらなければ、松雪は今頃、恋人に励まされながら輝かしい未来を掴んだのかも知れない。だけど、そんな未来はもう二度と叶わない。


 航は、松雪の悲しみに寄り添う術が無い。

 きっと、それは俺の役目じゃないんだ。俺がやるべきなのは。




「俺もアンタも、まだ生きてる」




 生きている限り、希望はあるんだ。

 航は声を上げた。




「まだ終わりじゃないぞ!」




 俺の役割は、鼓舞することなんだ。

 前も見えない絶望の時、深い諦念に膝を突く時。止まない雨も、明けない夜も、終わらない冬も無いんだと、何度でも声にしてやることだ。


 松雪は、沈黙した。

 伝わったかは、分からない。航には他人の嘘は分からない。だったら、その扉が開くまで叩き続ける。――何度でも!


 通話を終えた時、朝日を浴びたかのような活力が全身に漲っていた。航は携帯電話をポケットに押し込んで、バイクを引っ張り出した。


 両親を亡くした日の悲しみが、未来を捨てた兄の夢が、伽藍堂の侑のエメラルドの瞳が、走馬灯のように蘇る。

 事務所は暗闇に包まれていた。駐輪場にバイクを押し込んで、預かっていた鍵を取り出す。階段を駆け上がると、踊り場に影のような女が立っていることに気付いた。




「貴方は、流れ星みたいね」




 しっとりとした色気のある声なのに、温度が無い。

 彼女もまた、深い絶望と諦念に染まっている。




「私の国では、流れ星は悪魔に対する礫と言われているわ」




 艶やかな黒髪を払い、女が微笑む。妖艶な笑みは、この世のものとは思えない程に美しく、悲しかった。

 流れ星の伝承は国の数だけ存在する。それを凶兆と捉える国も多いけれど、此処は両親の国だ。




「俺は、流れ星には願いを掛ける」




 馬鹿馬鹿しくて、やったことも無いけれど。




「星が消えるまでに夢を唱えるんだ。それが出来たら、夢が叶うらしい」

「御伽噺ね」

「それは、お互い様だろ?」




 国が違えば、価値観も違う。

 空を駆ける箒星を見て、恐怖するよりは願った方が良い。

 敵意を向けられるより、信じてもらいたい。




「アーティラ」




 澄んだ青年の声がした。

 それは日差しを浴びた海面のように明るく、温い。けれど、その底には人知の及ばぬ未知の深淵が横たわっている。


 航は顔を上げた。

 事務所の扉の前、壁に凭れ掛かるようにして一人の青年が蹲み込んでいる。美しい装飾品の数々を取り払った青年は、ローマングラスの瞳を宝石のように輝かせて微笑んでいた。

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