⑼栄光の扉

 エンジェル・リードの事務所内は、ラベンダーの香りに包まれている。航は鉢植えの様子を観察しつつ、応接室の扉を開けた。


 壁に掛けられていた筈の絵画が無かった。

 繁華街の景色が青いグラデーションに染まった油絵だ。天神新の遺作で、湊の宝物。この場所が巻き込まれる可能性を考えて、持ち帰ったのかも知れない。


 絵画の消えた応接室は、何処か寂しげで、物足りない。

 航は、後ろから付いて来る二人の男女を応接室のソファへ促した。


 一人はムラト・ラフィティ。

 中東の石油王の長男で、現在、暗殺されそうになっている。

 もう一人はアーティラと言って、ムラトの従者らしい。


 彼等の母国である熱砂の国は、絶対王政による身分階級が存在する。生まれた時には決まっていて、生涯、覆ることはない。ムラトは身分階級に疑問を持ち、パスファインダーの手を借りてクーデターを企てた。


 パスファインダーはムラトの計画を利用し、クーデターの為の資金を過激派組織に横流しした。過激派組織の赤い牙は、国内外にテロ行為を仕掛ける武装組織だ。ムラトはテロリストの嫌疑を掛けられ、母国に帰れない。


 テロリストの汚名を雪ぐ為に、パスファインダーを捕まえなければならなかった。だが、エンジェル・リードと中国マフィアがパスファインダーを始末したことで、名誉挽回のチャンスは消えた。


 パスファインダーが死んだことで、赤い牙は資金源を無くした。金を得る為に手を取ったのは、ムラトを暗殺することで後継者の椅子を空けたいラフィティ家の人間だった。ムラトが日本にいることで、赤い牙は暗殺者を送り込んだ。


 エンジェル・リードと公安は手を組んで、赤い牙の暗殺者を捕縛する為に暗躍した。しかし、親玉であるアフマドを逃してしまい、爆弾テロが起きた。


 今のムラトは、命を脅かされながら悪魔の証明をしなければならない圧倒的劣勢にある。藁にも縋りたいという気持ちも分かる。気の毒だと同情もする。


 ムラトが望んでいたのは、無血革命だ。

 だから、エンジェル・リードは、ムラトを助けようとしている。問題が、一つ。


 ムラトは、他人を信用していない。

 ラフィティ家の人間も、エンジェル・リードも、自分を貪ろうとするハイエナと思っている。だから、エンジェル・リードの援助を受けながらも信頼せず、隙があれば利用しようとする。


 それは、何故か。

 航には、分かる。同じ人間を側で見て来た。生まれる前から一緒だった。その苦悩を、辛苦を、一番近くで見て育った。




「アンタみたいな人間を、俺は知ってる」




 ムラトはソファに座り、ゆったりと足を組んだ。

 航はその真正面に座り、不可思議に透き通る瞳を覗き込んだ。


 世界への諦念と、他人への無関心。敵と味方でしか他人を分類出来なかった頃の兄と同じだ。だから、自分の元に集まる人間を試そうとする。


 そんな遣り方では、本当に信頼出来る相手なんか出来やしない。人間なんていつでも正直に生きている訳じゃない。他人の嘘が見抜けなくても、相手が自分を信じているのかそうじゃないのかなんて、分かる。


 兄やムラトが思う程、大衆は愚かじゃない。

 表社会から転落した湊、今も命を狙われるムラト。彼等を追い込んだのは、愚かな大衆ではなく、他人を見下す彼等の傲慢さだった。


 兄がエンジェル・リードの活動を始めた時、何かが変わったと思った。そのきっかけを作ったのは、侑の弟だった。

 兄と天神新がどんな関係だったのかは、知らない。訊くつもりも無い。ただ、兄を繋ぎ留めてくれたことに感謝している。




「なあ、ムラト・ラフィティ。アンタの信じるものは何なんだ?」

「宗教のことか? 俺の国は、」

「はぐらかすなよ、無粋だな。アンタの信念の話さ」




 航が指差すと、従者のアーティラが顔を顰めた。

 身分階級を失くしたいと言いながら、従者を引き連れているのは何故なのか。奴隷制を廃止したいと謳いながら、他国を蹂躙する政治家みたいだ。


 ムラトは仮面のように微笑みを浮かべている。

 見えない境界線が足元に引かれているのが分かる。航は、その距離感を知っていた。




「何が大切だ。何を優先する」

「家族さ!」




 腕を広げて、ムラトが堂々と言った。

 航は目を眇めた。




「エンジェル・リードに何を求めてる?」

「心強い仲間が欲しいのさ! 命を懸けてくれるような信用出来る仲間が!」




 航が問うと、ムラトの口元が弧を描いた。


 こいつは多分、ただの馬鹿息子じゃない。ピエロを演じられる切れ者だ。暗殺され掛けているという状況そのものすら、己の手札にすることが出来る反則級の何かを持っている。


 ああ、こいつ、エンジェル・リードが欲しいんだ。

 航は直感した。


 湊と侑の夢なんかどうでも良くて、自分の望みを叶える為のカードとしか見ていない。湊を実験動物にしたいマッドサイエンティストや、侑を兵器にしたいテロリストと同じだ。




「浅い男だな、お前」




 航は嗤った。

 つまんない奴だ。




「お前、仲間の作り方を知らないんだろ」




 だから、そんな風に他人を試して、信頼を踏み躙るような真似をするんだ。ラフィティ家の御家騒動がどんなものなのかは知らないし、相応に血腥く陰湿なのだろう。だけど、此処は熱砂の国じゃない。




「お前の為に死んでくれる奴は沢山いるだろうさ。だけど、お前の為に生きてくれる奴が一人でもいるか?」




 俺達には、いる。

 世界の誰が敵になっても、どれだけ汚れても、絶対に裏切らない味方がいる。それは一朝一夕では築けないし、金銭や権力では得られない。




「お前と同じ夢を見てくれる奴がいるのか?」




 航が問い質した時、ムラトの瞳に影が差した。

 合わない人間は、腐る程いる。でも、それでも味方になろうとしてくれている奴を利用して、最期に何が残ると言うのか。




「俺達は、お前の夢に投資したんだぞ。少しでもマシな未来を願ったんだ。これ以上、俺達の信頼を踏み躙るな」




 ムラトは何も言わなかった。

 痛い程の沈黙の中、噛み付くみたいにアーティラが言った。




「それなら、貴方達は何をしてくれるの」




 それは、質量を感じる程に重い声だった。

 アーティラは忌々しげに顔を歪め、嘲るように言った。




「信頼なんて目に見えない。夢なんて価値が無い。そんなものの為に未来を捨てるなんて愚かだわ!」




 身を引き裂くような悲痛な叫びだった。

 航が口を開き、ムラトが諌めようとする刹那、穏やかなテナーの声が響いた。




「盛り上がってるな、負け犬」




 まるで手品みたいに、応接室の扉の前に侑が立っていた。足音も無ければ、気配も無い。侑は凪いだ瞳でアーティラを見遣り、不敵に笑った。




「お前等を特別なステージに招待するぜ」

「……何が見られるんだ?」




 ムラトは余裕の態度を崩さない。

 侑は子供のように楽しそうに答えた。




「夢が叶う瞬間さ!」












 11.ダイヤの原石

 ⑼栄光の扉












 街は、奇妙な静寂の中にあった。

 それはまるで、破裂寸前の風船のような物々しい静寂だった。絶えず送り込まれる不安と恐怖が人々の中で膨らんで、疑心暗鬼の不協和音が其処此処から零れ落ちる。


 首都圏で起きた爆発事件は、不発弾によるものと発表された。だが、大衆も馬鹿ではない。それが情報操作によるものだと気付き、自分達が何かに呑み込まれようとしていることを察知している。


 不発弾を取り除く為に、地域に避難勧告が出された。

 広域避難場所とされていたのは、首都圏の片隅にある大型の森林公園だった。高速道路と霊園に隣接された自然豊かな公園には、住処を追い出された人々が押し込まれ、いつ命が奪われるのかと身を寄せ合っていた。


 海外移民の姿が散見される。

 貧富の差、国境の溝、言語の壁が凜然と聳え立つ。それはまるで、差別や偏見と言うものは、見え難くなっただけで、今も其処に存在するのだと知らしめているようだった。


 航は、犇めき合う人々を眺めていた。

 風船は今にも爆発しそうだ。小さなきっかけで狂気が破裂し、パニックに陥れば止めることは出来ない。息が詰まるような静寂の中で、アコースティックギターの柔らかな音色が響いた。


 人々の鋭い視線が、異物を許さない集団意識が、変化を恐れる固定観念が、怪物のように獲物を捕らえる。けれど、古びたギターから紡ぎ出される音は、凡ゆる敵意と害意を無効化するかのように、細やかに鳴り響いた。


 誰もが耳にしたことのある柔らかな旋律だった。

 Twinkle Twinkle Little Star ――きらきら星。

 空気に溶け込むような音色が人々の間に流れ出す。幼い子供が母の手を引いて、この曲を知っていると表情を明るくする。


 誰にも糾弾することは出来なかった。

 誰も侵略出来ない不可侵の聖域が、波紋のように広がって行く。航はその中央のベンチに、いつかの母の横顔を見た。




「Twinkle, twinkle, little star...」




 透明なベールが掛けられたみたいに、澄んだボーイソプラノが響き渡る。

 伏せられた横顔は、死んだ母にそっくりだった。湊は黒縁の眼鏡を掛けて、ベージュのダッフルコートを着ていた。遠目には、中学生くらいの少女に見えた。


 怪物が怯むが如く、不安と恐怖が和らいで行く。

 穏やかなアルペジオが締め括る。一人の子供が拍手をした。すると、人々は互いの出方を伺いながら、釣られたように手を叩いた。乾いた拍手が森林の中に木霊する。


 湊が立ち上がって一礼する。

 そして、席を勧めるみたいにベンチを指して、一人の女性が現れる。


 金髪に赤いメッシュを入れたその女性は、無邪気な笑顔を見せた。湊は再びベンチに座ると、指先で弦を弾いた。




「王様が僕に言ったんだ。それはガラクタだって」




 鈴のように涼やかな歌声だった。ギターの音色が寄り添うように追い掛ける。単調なリズムに語り掛けるような歌声が重なって、風のように吹き抜ける。




「そしたら、みんなも笑って、ビリビリに破り捨てた。僕の宝の地図は、何の価値も無いゴミなんだってさ」




 恐ろしい程に伸びやかな歌声だった。マイクや拡声器なんか使わなくても、その声は辺り一帯に広がって行く。飛梅は首から愛用のエレキギターを下げている。けれど、その両手は見えない何かを掴み取ろうとするかのように広げられていた。




「僕が破ろうとした時、君が現れた。流れ星を見付けたんだって、子供みたいに喜んだ」




 飛梅の手がギターを掴む。その瞬間、突風のような迫力が迸った。急き立てるようなギターリフ、熱を帯びたエイトビート。遠くの花火みたいにアコースティックギターが鳴り響く。




「どんな困難の中にも希望の光は差し込んで、まだ終わりじゃないぞと声を上げる。流れ星だってきっと届くさ。僕も君も、まだ終わってない。これからなんだ!」




 飛梅と湊が目を合わせて、悪戯っぽく笑った。




「僕は高い壁の前に立っていて、兵隊は怖い顔で叱った。その壁は越えられない、違う道を選びなさい」




 全身が総毛立つ凄まじい引力だった。

 彼等の作り出すリズムが、人々を惹き付ける。足元が地震のように揺れる。人種も言語も異なる大勢の人間が同じリズムに乗って、足踏みをしている。




「みんなは道を引き返して、僕は置いてけぼりだった。僕は壁の前で独りぼっちだった」




 ああ、湊は音痴じゃなかったんだな。

 航は、そんなことに今更気付かされた。産まれる前から一緒にいたのに、知らなかった。




「振り向いたら君がいて、それは扉なんだと教えてくれた。開くまで叩き続けろって、指を突き付けたんだ」




 飛梅の綺麗事が、唯一無二の真理みたいに貫かれる。

 観客一人一人に語り掛けるような真摯な歌声だった。




「どんな苦境にあっても誰かが手を差し伸べて、まだ終わりじゃないんだと教えてくれる。開かない扉もいつか開くさ。僕も君も歩き出せる。今がその時さ!」




 もう一度、何度でも!

 魂を揺さぶる女性の声が、怯える人々に勇気を与える。航は其処に、確かな希望を見た。


 ――夢とは、何か。

 それは活力であり、希望であり、狂気である。

 それは轍であり、灯火であり、道導である。


 闇を切り裂くギターソロが響き渡る。

 割れんばかりの拍手が沸き起こって、歓声が轟いた。人々を熱狂の渦に叩き込み、飛梅はヒーローのように笑った。




「すごいな……」




 ぽつりと、声が零れ落ちた。

 航の隣で、侑は魅入られたかのように動かない。




「夢って、本当に叶うんだな」




 自嘲するみたいに、航は言った。

 熱狂の中心で、飛梅が感謝の言葉を歌う。航は笑った。


 侑の後ろで、ムラトが子供のように燥いでいた。政治家のように狡猾で、商人のように無慈悲な彼にも、きっと人間性は残されている。エンジェル・リードが投資したのは、ムラトに残された素質なのだと思う。


 アーティラは茫然と立ち尽くしてした。

 それは、母親に置いて行かれた迷子のように心細く、寂しげな姿だった。




「夢に価値なんか無いって、今でも言えるか?」




 航が問うと、アーティラが少女のようにあどけなく微笑んだ。一頻り拍手を送ると、ムラトは熱っぽい吐息を漏らした。




「見事だぜ、エンジェル・リード。お前達は、実力を証明した」




 次は、俺の番だな。

 ムラトが踵を返す。天鵞絨の赤絨毯が、栄光の未来が見える。堂々と歩き出す背中には、王者の風格が漂っていた。

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