⑽至宝の輝き

 澄み渡る青空に向かって、白樫の木々が並び立つ。

 細い枝の先で新しい葉が芽吹き、落ち葉の中にも花の蕾が膨らんでいる。木々の間を吹き抜ける冷たい風も、やがては春を連れて来るだろう。


 勾配の激しい森林公園の山道を、ムラトが先導して歩く。湿気を帯びた土の地面には、大勢の足踏みが地震のように広がっていた。


 風も波も、この星が生きている証拠なのだと言う。

 航は先を行くムラトとアーティラを追い掛けた。足元に帽子を被った団栗が落ちている。スニーカーの爪先に当たると、それは坂道を転がり落ちて、枯渇した泉の中に消えた。




「赤い牙の主導者、アフマド・イルハムは俺の友人の父なんだ。昔から、家族絡みでの付き合いがあった」




 背を向けたまま、ムラトは歩き続ける。

 森の向こうから歓声が聞こえる。ギターの鮮やかな音色と、エイトビートの足踏み。空気が震え、森が騒めいている。




「そいつが敵になることを、俺は望まなかった」




 ムラトの声には、感情の機微が無い。

 きっと、その言葉を胸の中で何度も何度も反芻して来たのだろう。航の後ろで、侑が枝を踏んだ。乾いた音が響き、アーティラが振り向く。




「赤い牙は革命を起こそうとしている。目指すものは同じ筈だった。……俺達は、何処で擦れ違ったんだろうな」




 山道を登り切ると、躑躅の茂みが左右に現れた。色褪せた芝生が広がり、白い石段の先に朽ち果てた東屋が見える。


 ムラトは身分階級を失くそうとしていた。その為に資金を集め、防衛の為に武器を仕入れ、信頼出来る仲間を求めた。仲介した武器商人は、テロリストと繋がっていた。


 彼は利用された。こんな極東の島国に追い遣られ、テロリストの汚名を被り、命を狙われ、悪魔の証明を迫られている。四面楚歌、背水の陣。ムラトは切り立った崖の淵に立たされている。


 誰も信頼出来なかったのも、分かる。

 分かるけれど、手を差し伸べてくれている相手さえ利用してしまっては、誰も味方になろうなんて思わない。ムラトが生存しているのは、アーティラという従者の尽力と、彼自身の幸運以外の何物でもない。


 東屋の下に、三人の男が立っていた。

 褐色の肌に彫りの深い顔立ちをした、がたいの良い男だった。見た目で分かる。銃器を持っている。その目は血に飢えた獣のように冷たかった。


 中東の過激派武装組織、民族解放戦線、赤い牙。

 世界的に指名手配されるテロリストが、こんな長閑な森林公園の奥で肩を並べている。ムラトを暗殺する為に連れて来ただろう仲間は散り散りになり、警察に逮捕され、或いは始末された。だが、どのくらいの戦力が残っているのか分からない。


 赤い牙の実質的な主導者、アフマド・イルハムは、一見すると陽気な異国の人間に見えた。海外移民で溢れるこの国では雑踏に紛れても見付けられないような、極普通の男だった。


 アフマドは白い民族衣装を着ていた。寂れたベンチに腰掛け、ムラトを見付けると離れ離れだった家族に会ったかのように破顔した。今にも抱き合って再会を喜ぶような笑顔を浮かべながら、その奥の瞳には狂気の炎が燃えている。


 残酷な事件を引き起こす凶悪犯を、航は見たことがある。自分のエゴの為に他者を搾取し、手段を選ばず、当たり前の顔をして日常を破壊して行く。


 赤い牙は、航の両親を奪った爆弾テロに関与している。けれど、航はアフマドを見ても、憎しみも恨みも抱かなかった。復讐したいとも思わない。こんな奴の為に、もう誰も犠牲になる必要なんて無い。


 ムラトとアフマドは、航には理解出来ない言葉で何かを話していた。友好的な話し合いに見えたし、和解の道が残されているようにも感じられた。


 アフマドが手を差し出す。握手を求めている。

 ムラトは人形のように棒立ちしていた。その手が伸ばされる、足が踏み出される、刹那。


 銀色の銃弾が飛来した。

 それは一筋の流れ星のように、空気を切り裂きながら、アフマドの腹を抉った。


 侑が視界を遮るように躍り出る。脇を固めていた男達が武器を取り出す。腹を押さえたアフマドが顔を歪めて、呪いの言葉を吐き捨てる。アーティラの背から銀色の曲刀が現れて、銃を構える男の首筋を引き裂いた。


 侑のナイフが銃弾を弾く。何処かから銃弾が飛来して、呻き声を漏らすアフマドを容赦無く穿った。広場は濃厚な血の臭いに包まれた。来日した赤い牙の残党は、それでもう、お終いだった。


 ムラトは、静かだった。

 重なり合う死体を見下ろして、振り向いた時には晴れやかな笑顔を見せた。まるで、仮面のようだった。




「これで俺達は、共犯者だな」




 血と硝煙の臭いが鼻を突く。ムラトは腕を広げ、この世の何もかもを許容するかのように慈悲深く微笑んでいる。


 ああ、こいつも、いかれてる。

 どいつも、こいつも。

 いかれてなきゃ、生きていけないんだ。


 堪え難い虚しさが込み上げる。

 森の向こうでは、飛梅の爽やかな歌声が響き、湊のギターが希望を紡ぐ。けれど、航の目の前に広がるのは、冷たい現実そのものだった。














 11.ダイヤの原石

 ⑽至宝の輝き















 アフマドを始末する為に、作戦を立てた。

 赤い牙の狙いは無差別なテロ行為ではなく、ラフィティ家の長男を暗殺することだった。だが、日本に潜入した赤い牙は、その戦力の殆どを削がれていた。ムラトはテロリストの嫌疑が掛けられ、味方がいない。


 互いに四面楚歌の状況で、ターゲットが人気の無い場所で対談したいと言えば、断る理由も無い。俺達がやったのは、ムラトを餌にした釣りだった。


 遠距離からの狙撃は、立花蓮治という殺し屋に依頼した。

 彼は、ハヤブサと呼ばれる裏社会の抑止力であり、狙撃のスペシャリストで、翔太の師匠に当たる。


 広域避難場所である森林公園を選んだのは、互いに逃走経路が確保し易く、国家の目が届き難いからだ。飛梅のゲリラライブは他人を遠去ける為の布石。


 全ては、掌の上だった。


 航は、言い知れぬ嫌悪感に苛まれた。

 自分は、人が殺されると分かっていた。和解の道があったのかも知れないし、残されていなかったのかも知れない。だけど、選んだのだ。俺も、兄も、侑も、ムラトもアーティラも、みんな人殺しだ。


 ムラトとアーティラは何処かに消え、侑はスーツに染み付いた血の臭いを嗅いでいた。死なない、殺さない、奪わない。彼等の間で交わされた約束は、砂上の楼閣だった。


 飛梅のいた広場は、今も熱狂の中にあった。

 彼女の歌う綺麗事に縋るように、人々が手を叩いて歓喜する。同じ公園内でテロリストが三人も殺されたなんて、誰も知らない。夢にも思わない。アルコールに酔ったみたいに騒ぎ立てる聴衆が、航には酷く滑稽に見えた。




「航」




 ギターを下げた湊が、大人びた顔で微笑んでいた。

 炊き出しを行うテントからは、豚汁の匂いがする。兄は伊達眼鏡にパーカーのフードを被って、まるで何かから隠れるみたいにテントの影に立っている。


 湊は、明るい未来を捨てた。

 その過程が目に見える。航がアフマドの死を見過ごしたように、湊もまた、取捨選択をして来たのだろう。




「辛気臭い顔をするな。此処はまだ舞台の上だ」




 湊が言った。

 俺達は、スポットライトの当たらない舞台の裏で、喜劇を演じ続ける。ピエロのように誰かを連れ出して、自分達は舞台袖で眺めるだけなんだ。


 だけど、俺達は決めたんだ。

 両親が死んだあの日、選んだんだ。


 人々の中心で、飛梅が弾けるような笑顔を見せる。夢が叶う瞬間を見た。主義主張の異なる人々が、僅かな間であっても足並みを揃える瞬間を、確かに。




「あの歌の名前はね、エンジェル・リードなんだって」




 なんだか、すごいね。

 湊が子供みたいに言った。




「人の想いは、繋がって行くんだ」




 湊は眩しそうにそれを眺めて、歩き出した。

 侑が影のように追い掛ける。航もまた、飛梅を一瞥して、足を踏み出した。




「侑に話さなきゃいけないことがある」




 森林公園の出口付近で、湊が背中を向けたまま言った。

 駐車場の券売機が併設された出口は、飛梅の話題を聞き付けた人々で溢れている。侑は気の抜けた返事をした。




「航と侑が見付けた松雪さんは、去年のホロコーストで恋人を亡くしてる」




 エメラルドの瞳から、色が抜け落ちるようだった。

 侑は「へえ」と相槌を打って、駐車場へ目を向けた。銀色のセダンが見える。公安の羽柴が固い顔で森林公園へ入って行く。アフマドの死体を回収するのかも知れない。




「だから、投資する」




 彼の夢は、必ず叶える。

 自分に言い聞かせるように、湊が言った。


 森林公園を出た先、シャッターの降りた和菓子屋があった。トタン屋根の荒屋で、入口にはチェーンが掛かっている。看板の文字は掠れていて、誰も見ないし、立ち止まらない。


 その店先に、イーゼルが立てられている。陰気な男が鉛筆を片手に、一心不乱に何かを描いていた。


 松雪彩人。

 美大で燻っていた若い芸術家。

 彼の住んでいる地域も、避難区域に指定されたのだろう。足元にはキャンプに行くような大荷物が転がされている。


 湊は松雪の側に跪くと、その名を呼んだ。松雪は羽虫を追い掛けるみたいにして視線を下げて、ゴキブリを見付けたみたいに飛び上がった。相変わらず、神経の細い男だ。




「今日は、何を描いているの?」




 見上げるように湊が問い掛けると、松雪は照れ臭そうに笑った。白いカンバスには、地面を覆う花畑が鉛筆で下書きされている。




「何の花?」

「ネモフィラだよ。昔、恋人と見たんだ」




 ネモフィラは知っている。春を彩る小さな青い花で、母国で一面に咲くネモフィラを見たことがある。あの幻想的で美しい風景は、一度見たら忘れられない。


 湊は下書きを見詰めて、楽しみだね、と微笑んだ。




「松雪さん。俺の話を聞いてくれる?」




 湊は諭すように、言った。

 松雪は、身構えなかった。あるがままを受け入れるかのような自然体で、湊の言葉の先を待っている。湊は松雪の顔を覗き込み、泣きそうに顔を歪めた。




「貴方が恋人を亡くしたホロコースト。……俺は、あの事件を起こした人を知っている」




 言葉を刃にして、自らの首に突き付けるように。

 湊が唇を噛んだ。首元で、銀色の鎖が華奢な音を立てる。




「沢山の人を殺した。憎まれて当然だ。だけど、俺にとっては、奇跡みたいな友達だったんだ」




 絞り出すような声で、湊が言った。

 松雪の顔が歪む。まるで、泣き出す寸前みたいだった。




「俺には、友達の名誉を取り戻すことが出来ない。でも、どんな人間だって、思い出の中に生きる権利がある。俺は今も友達を愛しているし、これから先も忘れない」




 天神新の起こしたホロコーストは、彼の罪ではなかった。いかれたカルト宗教が、彼を薬物で操り人形にして、その尊厳すら踏み躙った。

 天神新は、殺し屋だった。表社会に生きられず、人生も生命も死後の名誉さえも奪われた。


 悪い奴じゃなかった。

 こんな世界で、こんな時代じゃなければ、きっと同じ夢を見て生きていられた。




「それでも、俺達の手を取ってくれますか?」




 幼い子供のように、湊が問い掛ける。

 松雪の瞳から、一粒の涙が零れ落ちた。




「悲しみには、意味がある。僕もそう思う」




 松雪は鼻を啜った。

 雨上がりのような湿っぽい雰囲気に、航は逃げ出したい衝動に駆られた。けれど、侑は足の裏に根っこでも生えているみたいに動かない。




「恋人が、よく言っていたよ。運命は流されるものではなく、闘うものだと」




 本当に、最高の理解者だったんだろう。

 松雪を励まして、その才能を誰より評価し、支えて来た。あんな事件が起こらなければ、彼等は今も肩を並べて笑っていられた。


 松雪は下手糞な笑顔を見せて、カンバスを指差した。




「ネモフィラの花言葉は、貴方を許す。僕はもう、誰も憎んでいないよ」




 一陣の風が吹き抜けた。

 突風を思わせる強い風は、微かに春の匂いがした。

 松雪は慌ててカンバスを押さえて、苦く笑った。




「君達の信頼と誠実さに、応えてみせる」




 陰気で卑屈で、美大の隅に燻っていただけの浪人生は、もういない。其処にいるのは、紛れもないダイヤの原石だ。航には、ネモフィラの咲き誇る花畑が見えたような気がした。


 想いは、繋がって行く。

 たった一人で見た夢が、百万人の現実を変える。

 そんな綺麗事と理想論が、質量を持って目の前に現れたみたいだった。




「採掘されたばかりのダイヤモンドは、色も霞んでいて、形も歪だ」




 住居までの帰り道、思い出したみたいに侑が言った。

 ダイヤモンドの原石は、紛争経済の代名詞とされる。第三世界では武器や薬物の代金として支払われ、紛争当事者の資金源ともなる。――別名、血塗られたダイヤモンドとも。


 侑は沈み行く夕陽を眺めながら、滔々と言った。




「ダイヤモンドは世界一硬い鉱物だ。ダイヤはダイヤでしか磨けない。……あの原石を磨いたお前等も、ダイヤモンドだったのかもな」




 侑は、嬉しそうに笑った。

 飛梅も、松雪も、採掘されないまま消えて行くダイヤの原石だった。彼等の輝きが何を成し遂げ、どんな未来を照らし出すのかは分からない。だけど、湊が自分らしく生きていて、侑が楽しそうに笑っている。そんな世界が好きだと思う。


 いつか、あのダイヤの原石は俺達の未来を変えるかも知れない。未来を期待して生きて行けるのは、幸せなことだ。


 時として、現実は冷たく不条理な選択を迫るだろう。夢も理想も無意味になる日が来るかも知れない。だけど、俺達はそれを乗りこなす。


 俺達は、夜明けを知っている。

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