12.羅生門
⑴寝刃を研ぐ
Believe nothing, no matter where you read it or who has said it, not even if I have said it, unlessit agrees with your own reason and your own common sense.
(何も信じるな。何処で読もうが、誰が言おうが。私が言った言葉ですら信じるな。もしそれが、お前自身の良識と常識に反するのであれば)
Buddha
必要なのは、切れ味の良いナイフ。
切れ味の鋭さに尻込みするよりも、鈍い刃に力を入れ損なうことを恐れるべきだった。だから、湊は真新しいナイフを手に入れた。
光を反射しない黒い刀身に、グリップは飴色のアイアンウッド。アウトドア用品としても活用出来るナイフは、掌に吸い付くようだった。
薄く割った真竹から、羽根を削り出す。空気抵抗を失くし、断面が三角形になるように丁寧に。あんまり薄過ぎると脆く割れてしまうので、絶妙な力加減が必要だった。
細かな薄片が足元に積もっていく。
窓から爽やかな春の風が吹き込んで、薄片が雪のように散っていく。グレーの絨毯、革張りの黒いソファ、デニムの上にもちらほらと。
作り上げてみると、その薄羽は掌くらいの大きさだった。竹籤を中心に差し込んで、完成だ。偉業を成し遂げたみたいな達成感が胸の奥を澄み渡らせる。机に散らばった文房具や竹の薄片はそのままに、湊は竹籤を両手で押さえた。
「竹トンボ?」
いつの間にか後ろに立っていた侑が、不思議そうに言った。
住居としているマンションの一室、壁に沿わせた机の前で、湊は完成したばかりの竹トンボを天井に翳していた。
振り返って見せると、侑が肩を竦めた。
湊は、アニメやゲーム機を持っていない。そういう遊びは学んで来なかった。身の回りにある自然物から玩具を作り出し、遊び方を考え、弟と競いながら育った。
「マンションの管理人さんが、教えてくれたんだ」
竹トンボを見せて、湊は笑った。
マンションの管理人は定年を過ぎた男性で、真面目で気難しいが、悪い人ではなかった。英語混じりで学校にも通わない自分を心配してくれていて、いつも不器用ながら声を掛けてくれる。
竹籤を両手で押さえ、擦り合わせるようにして回転させる。
管理人の手の中で旋回した竹トンボは、簡単に天井まで舞い上がった。見様見真似でやってみるが、竹トンボは部屋の隅へ吹っ飛んで行った。
墜落した竹トンボを、侑が拾った。
羽の角度が悪かったのだろうか。それとも、技術か。
湊が顎に指を添えて考えていると、侑が棒を両手で包み込んだ。羽根が旋回し、今度はいとも簡単に浮かび上がった。
風も無いのに、竹トンボは軽々と飛んだ。たんぽぽの綿毛みたいだった。湊が歓声を上げると、侑が笑った。
飛ばし方にコツがあるらしい。
何度か挑戦すると、何とか飛ばせるようになった。だが、侑や管理人のような勢いは無い。侑がやってみせる。竹トンボは天井近くまで舞い上がり、薄羽は空気を切り裂きながら着陸する。
舞い上がる竹トンボに、夢を見た。
大切な人が幸せで、その生活を脅かすものがなく、明日を夢見ながら眠り、その期待通りの朝が来る。
俺は綺麗なものを探して世界中を旅して回り、疲れた時には家に帰るんだ。待っていてくれる人がいること、帰るべき場所があること、穏やかな日常が何よりも幸福であると知っている。
竹トンボに夢中になっていたら、侑が言った。
「チケット、取れたぞ」
湊は、英語で返事をした。
竹トンボは、力を込めたら折れてしまいそうだった。机の上に置きっ放しにしていたナイフを鞘に収め、湊は膝に落ちた薄片を払った。
「荷造りをしなきゃね」
鞄は軽くて丈夫なものを。荷物は少なく。
棚に押し込んだ書類は全て燃やして、宝物は信頼出来る相手に託す。この場所に戻って来られなかった時に、誰も不利益を被らずに済むように。
俺は両親と別れた時、いってきますと言った。
おかえりと言って、出迎えてもらえると思っていた。だから、まさかそのままもう二度と会えないだなんて夢にも思わなかった。
両親の墓石に、カサブランカを飾った。
青空に響き渡る鐘の音と聖書の一説が、今も耳の奥にこびり付いている。
私は甦りであり、命である。
私を信じる者は、例え死んでも甦る。
また、生きていて、私を信じる者はいつまでも死なない。
貴方はこれを、信じるか。
湊は、嗤った。その答えは今も変わらない。
神も仏も、死後の世界も信じてはいない。
何度でも言ってやる。
クソ食らえ、と。
12.羅生門
⑴
満開の桜が道を埋め尽くし、まるで桃色の海みたいだった。風が吹けば花弁が散り、青空とのコントラストは目眩がする程に美しい。湊は咲き誇る桜花を眺めながら、二年前は当たり前だった日常を思い出した。
ガーデニングは、母の趣味だった。
決して広くはない庭に、様々な花が咲いていた。今にして思うのは、自分に四季の感覚があるのは、母の育てた花々のお蔭だったのだということだった。
湊の両親が死んだのは、去年の春だった。
母国で色々とやらかした湊が留学という名目で、日本の裏社会に放り込まれて、ドブネズミみたいに闇の底を彷徨っていた頃だった。
母国の州立記念公園で起きた爆弾テロ。
父はチャリティのバスケットボールイベントを企画し、母と弟も参加した。中東の過激派組織が引き起こしたテロは、何百人もの死傷者を出した。父は爆弾の破片で穴だらけになって、母は建物の倒壊に巻き込まれて死んだ。奇跡的に生き残った弟を日本で保護して、自分にはもう帰り道が無いことを理解した。
帰り道を失くしてから、自分がどんなに恵まれていたのかを痛感した。後悔するべきじゃない。自分を守り、愛してくれた家族がいたことに感謝するべきだった。
誰かを呪って、復讐を誓うよりも、今あるものを慈しむべきだ。これ以上、失くさずに済むように。
日本からジェット機で二時間。
ラフィティ家のプライベートジェットは、そのまま住めそうなくらい快適な造りだった。重量や機体の揺れを殆ど感じることなく、湊は海を越えて、ムラトの生まれ育った国に降り立った。
照り付ける太陽は黄色く、その日差しは痛みを感じさせる。乾いた風が目に染みる。湊は用意していたツバ付きの帽子を被り、サングラスを掛けた。
ラフィティ家は、世界長者番付に名を連ねるような大富豪だ。マネキンみたいな笑顔を浮かべた使用人に促され、湊は空港からロールスロイスに乗った。
ムラトの母国である熱砂の国は、国土の大部分が砂漠である。衛星写真では、鉄分を含んだ砂丘地帯が赤く見えた。けれど、世界最大級の石油原産国として知られており、天然資源開発が主要産業となっている。
マジックミラーの向こうに、活気のある市場が見えた。通りを埋め尽くす程の人の群れ、鮮やかな野菜や果実。湊が生涯口にすることもないだろう正体不明の食材の数々が、露天商のように質素な店で売られている。
父は、中東の紛争地で医療援助をしていた。
仲間と共に訪れた市場には、虫の瓶詰めや謎の葉っぱが売られていたらしい。餓死した我が子をいつまでも抱いている母親と、銃器を握る少年兵。悲惨な紛争地の話を、御伽噺のように聞かされて育った。
幼い頃、海の向こうは違う世界だと思っていた。
地球が丸いことも、世界経済が歯車のように噛み合っていることも知っていた。それなのに、世界で起こる戦争や貧困は他人事だった。
この世には絶対的な悪人がいて、そいつ等はいつか裁かれる日が来る。湊はそう信じていた。その小さな無関心が世界の均衡を崩していくだなんて、考えもしなかった。ましてや、その為に両親が死に、自分がその歯車に巻き込まれて行くだなんてことも。
爆弾を仕掛けた大馬鹿野郎は、腐ったドブみたいに汚い目をした、冴えない中年の薬物中毒者だった。殺す価値も無いし、生かす理由も無かった。だから、湊はそいつを死刑台送りにした。どんな最期だったのかは知らないし、知りたくもない。
誰が両親を殺したのか?
それは、社会だ。
人々の小さな無関心が悲劇を呼び、禍根を残して、やがて戦争となって社会を崩壊させる。いつか生じるだろう社会の歪み。それが偶々、両親だった。
別に恨んでいない。社会崩壊や国家転覆を目論む程、湊はまだこの世界を見限っていない。湊はまだ、人の善性を諦めたくない。
ただ時々、考える。
もっとマシな選択肢は無かっただろうか。最善を尽くしているか。それは独善ではないのか。
「どんな国にも、生きてる人がいる。そんで、人の数だけ生活があって、家族がいる」
窓の向こうを見ながら、侑が言った。
侑は、熱砂の国に行くことについて否定的だった。危ない橋を渡らなくても、目的地に辿り着く方法はある。どうして、お前ばかりが貧乏籤を引くんだ、と。
だけど、湊は知りたかった。
俺は世界とゲームをする。敵の正体が分からないんじゃ、手が打てない。奪われることに慣れたくない。後手に回るのは、もう沢山だった。
パスファインダーと呼ばれる武器商人。
その後ろで糸を引くフィクサー。
ムラト・ラフィティの実父。
身分階級の残る絶対君主国家。
そのヒエラルキー上層部に位置する見えない重鎮。
熱砂の大富豪、カミール・ラフィティ。
フィクサーは世界を牛耳る裏の重鎮。
俺達はこれから、そのフィクサーに会う。
「……車を降りよう」
湊が言うと、侑が目を見開いた。
特別な理由は無い。ただ、そうしたいと思った。
俺達は、熱砂の国を知る為に来た。
誰かの手引きで運ばれるよりも、せめて自分の足で歩いて、この国の空気に触れたかった。
湊が声を掛けると、運転手は静かに停車させた。車を降りると、凶悪な直射日光が肌を焼いた。湊は構わず、荷台に詰め込んだ鞄を引っ張り出す。厳し過ぎる日差しから肌を守る為、風通しの良い上着を羽織った。
賑わう市場で、黒衣の民族衣装を纏った人々が目を向ける。この国では、女性は外出する時に衣服に制限が掛かる。国際社会ではそれを女性蔑視と呼ぶ人間もいれば、伝統だと訴える人間もいる。
侑はデニム素材の白いジャケットを羽織っていた。春先の日本は、まだ冷え込む日があった。だが、赤道に近い熱砂の国では、暑過ぎる。
目立つのは、よくない。
黒光りするロールスロイスを見送ってから、二人で民族衣装を探した。侑はワンピース型の白い服を、湊は女性用の黒い服を買った。その方が面倒が少ないと思ったので。
外国人だと暴露ると、カモにされる。
この国の民族衣装は、正体を隠すのに都合が良かった。
市場は噎せ返る程の熱気に包まれている。新鮮な果実に、見たこともない魚。湾岸が近いのだ。歴史書には、貿易の起点となる港を巡って紛争も起きたと記されている。
姿形を隠してしまっているので、二人で手を繋いで歩いた。体温よりも気温の方が高いので、伝わって来る温度は心地良かった。
市場の先には、噴水の広場があった。
白い石畳の上で、同じ民族衣装を纏った人々が休息している。水煙草を吹かしたり、談笑したり。けれど、女性達はまるで付き人のようにひっそりと立っているだけだった。
市場には色鮮やかな織物が並んでいたけれど、彼等はファッションには取り入れない。湊には、窮屈に感じられた。
広場の奥から、弦楽器の音がした。
耳に染みるような柔らかな音色は、何処となく懐かしく感じられる。石段に腰掛けた男性が、ギターのような楽器を抱えて歌を口ずさんでいた。
アボカドに似ていると、思った。
どんな国にも人がいて、人の数だけ生活がある。
どんな国にも歴史があり、沢山の命が沈んでいる。
「行くぞ」
囁くように、侑が言った。
湊は頷いて、歩き出した。
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