⑵慈悲
人々の喧騒と厳しい日差しの中、楽器の音色は涼やかに響いている。湊には、熱砂の国の言語は分からない。彼等が何を歌っているのかは分からないが、音楽とは国境を超えて行くのだと知っている。
昼下がりの広場は、微睡を誘うくらい穏やかだった。民族衣装を纏った男達がノスタルジーな歌を口ずさみ、店先では水煙草を吹かせている。
その時、狼のような遠吠えが界隈に響き渡った。
転寝でもしそうに微睡んでいた人々が弾かれたように腰を上げ、声の方向を警戒する。市場の店先では商人が箒を構え、女性達は波が引くように消えて行く。
何かが、来る。
湊は身構えた。
侑が庇うように立ち塞がる。慣れない民族衣装で視界は狭く、言語が分からないせいで状況が把握出来ない。だが、何か途轍もなく嫌なものがやって来て、人々がそれを恐れているということは、分かった。
水を打ったかのような静寂の最中、それは現れた。
それは、薄汚れた野良犬だった。
体毛は抜け落ち、皮膚は粉を吹き、肋骨が浮かぶような憐れな雑種犬。だらしなく開かれた口からは白い牙が覗き、涎が糸を引いて落ちる。
犬は獲物を探すように市場を彷徨った。そして、噴水を見付けた途端、尻尾が腹に張り付いた。――水を怖がっている?
侑が懐に手を伸ばす。
湊はその腕を引いた。
「近寄ったら、駄目だ」
「何故だ?」
噴水から溢れる水飛沫に、犬が切ない声を出す。
風が吹けば怯えたように痙攣し、何かを探してうろうろと徘徊する。人々の恐怖が、服の上からも伝わって来る。
それは、発症すれば致死率100%の感染症。
特にアジアではワクチン摂取が行き届かない為に、未だに撲滅されない死の病。
「近付いちゃいけない」
その声は、背中から聞こえた。
湊は振り返らなかった。目の前にいる一匹の野良犬から気を逸らして、取り返しの付かない事態になるのが怖かった。
広場にいた男達が、噴水の水を掬って放った。
野良犬が怯むと、男達が次々に真似をした。野良犬は最後に喉を鳴らすと、ふらつきながら道を引き返し、そして、消えて行った。
緊張が解けて、辺りは生温い安堵に包まれた。
湊は小さく息を逃す。世界には未だに撲滅されない感染症や不治の病が存在しているのに、人間同士で殺し合うなんて下らない。
「……お前は」
隣から声がして、湊は振り向いた。侑のエメラルドの瞳は、市場の雑踏を眺めて呆然と身開かれている。視線の先を追い掛けて、湊は息を飲んだ。
白い民族衣装に褐色の肌、アメジストの瞳が爛々と輝いている。
人の虹彩はメラニン色素の量で決まる。湊のような濃褐色は人類の大多数を占める有触れた色彩で、侑のエメラルドの瞳は神の目と呼ばれる程に希少である。そして、紫色の瞳は先天性白皮症でしか発現されない。
だが、目の前に立っているその青年は褐色の肌をして、健康的な真っ黒な髪をしていた。白皮症じゃない。では、この不可思議に透き通る神秘的な虹彩は、一体、何だ。
湊は、その瞳から意識を逸らすことが出来なかった。
「侑の、知り合い?」
警戒したまま、湊は問い掛けた。
その青年は人の群れの中、当たり前のように溶け込んでいる。自分と同じくらいの背格好、年齢。まるで、色素の反転した世界を見ているみたいだった。
「またお会いしまいたね、侑さん」
青年は、吐息を漏らすように笑った。
侑は腰を屈めて、耳打ちした。
「航の友達の医学生だよ」
湊は少し、驚いた。
航に医学生の友達がいることは、知っていた。ニューヨークで侑を助けてくれたのも彼だった。直接、会うのはこれが初めてだった。
青年はあっという間に距離を詰めると、湊を見詰めた。
「初めまして、俺はバシルと申します。以前、ニューヨークで侑さんにお世話になりました」
「ああ、その節は」
湊は手を差し出した。
感謝の言葉を告げてから、湊はその先を躊躇った。
自分の情報を何処まで開示して良いのか判断が出来なかった。航の友達ならば、信用しても良いんだろう。だけど、此処で話した情報が流出した時のことを考えると、出来れば名乗りたくない。変装したことが裏目に出てしまった。
握手した時、その手の冷たさに驚いた。
氷のように冷たく、何かに身構えるように固い。
湊が躊躇った時、侑が何かを見透かしたみたいに仲介した。
「こいつは俺の妹だ。人見知りだから、無作法は許してくれ」
「いえ」
バシルは穏やかに笑った。
湊はほっとした。助け舟を出してくれた侑には、後で礼を言おう。
バシルは問い質さず、与えられた情報だけで満足してくれる。詮索も干渉もしない。御人好しで真面目で、情に厚い典型的な善人。自分が詐欺師なら真っ先に狙うようなカモである。だが、その紫色の瞳には研ぎ澄まされた覚悟のようなものが感じ取れる。
「観光ですか?」
「ああ、そうなんだ。お前は?」
「俺は、家族の葬儀があって」
そう言って、バシルは力無く微笑んだ。
その横顔には深い悲しみと憔悴が刻み込まれている。
家族の葬儀。
嫌な記憶が走馬灯のように脳裏を過ぎる。母国に建てた白い墓、刻まれた両親の名前。澄んだ鐘の音と聖書の一説が鮮明に蘇る。
生きていれば、堪え難い悲しみや苦しみがある。
その度に傷付いていたら、生きていけない。嫌な記憶は、花火のように遠くから眺めて、また沈むのを待てば良い。
「侑、行こう」
「……ああ」
侑は追及はせずに、頷いた。
灼熱の太陽の下にいるのに、手足が冷たくなっていく。視界が生き物のように歪んだ。湊は顔を隠したまま、バシルに背を向けた。
「またね」
バシルが言った。
12.羅生門
⑵慈悲
市街を歩くと、其処此処に黒い旗が掲げられていることに気付いた。まるで、死者を悼んで喪に服すみたいに、家々は静まり返っている。市場の活気とは裏腹に、辺りは辛気臭く白檀の香が漂っていた。
誰かが亡くなったのだろう。
この国の人々が悲しみに暮れるような偉大な英雄が。
ストリートチルドレンの溢れ返る路地裏を抜けると、ゴミ捨て場みたいな広場があった。家を失くした貧困層の人々が身を寄せ合って、何処か遠くを見詰めている。
彼等の手には、茶色い紙の筒が握られている。まるで、それだけが救いであるかのように、聖典に縋るかのように。
覚えのある臭いがして、湊は目を伏せた。紙を燃やす焦げ臭さと、鼻を突く異臭。純度の低い麻薬。貧困や飢餓から気を紛れさせる為に、この国の貧困層では性質の悪い薬が蔓延している。
だけど、助ける術は無い。
身分階級とは、社会が形成するヒエラルキーである。どんなに素晴らしい人格や才能を持っていても、その序列は覆ることはない。それは、生前から定められた呪いの一種である。
命の価値を揃える。誰も殺されない社会。
それが、親父の目標だった。親父はその理想論の為に奔走し、骨を砕き、最期は爆弾テロで死んだ。爆弾を仕掛けたクソ野郎は米国の司法によって死刑にされたし、裏で糸を引いていた過激派組織は壊滅寸前である。
中東の武装組織、民族解放戦線、赤い牙。
先導者であるアフマド・イルハムは日本で死んだ。
そして、死者は記憶の中で生き続ける。
湊にとっては親の仇で、街を破壊する迷惑なテロリストだった。だけど、どうやら、この国では違ったらしい。
戸の無い窓から、線香の臭いがする。
石造りの家には、白黒の写真が飾られていた。
髭を蓄えた異国の男が、此方を見て力強く微笑んでいる。
アフマド・イルハム。
この熱砂の国では、貧困層の希望の星で、革命家だった。
でも、そいつは俺の両親を死なせたし、その母国を蹂躙しようとした。乾いた諦念が湧き上がって、世界から色が消えて行く。
時々、この世界がゴミで出来ているように思える。
誰かにとっての正義は、誰かにとっての悪。そんな使い古された正論で納得出来る程、この世界はシンプルに出来ていない。
俺の大嫌いなテロリストが、英雄のように崇められている。俺の両親はテロで死んで、悲劇はエンターテイメントとして消費され、遺体は原型を留めていなかったのに。
「湊、大丈夫か?」
不意に、侑が言った。
エメラルドの瞳が労わるように覗き込む。
何かを見透かされている。
湊は肩を竦めた。
「暑いから、休憩しながら行こう」
「そうだな」
侑が肯定して、日陰を作るみたいに先を歩いた。
湊はその背中に、大切な人の姿を重ね見た。
あの日、爆弾テロが起こらなかったら。
両親は生きていて、新は助けられたかも知れない。社会が正常に回り続ける為の小さな歪、アポトーシス。それが俺の両親を殺して、新は助けられなかった。
この手は、届いていたのにな。
「今は、泣くな」
背中を向けたまま、侑が言った。
「此処は敵地だ。今は、慰めてやれねぇ」
そう言って、侑が腕を引く。
湊は笑った。笑うしかなかった。
アフマドも、俺も裁かれない。責める権利なんてない。
誰のせいにしたって、現実は変わらない。顔を上げて生きていくしかない。
熱砂の国の降水量は少なく、国土の大半は植物の芽吹かない砂漠である。近年の温暖化によって砂漠の面積は増え、街は砂に埋れている。
家の影で、子供が横たわっていた。
骨と皮だけみたいに痩せこけて、半開きの口からは喘鳴が漏れる。誰も手を差し伸べず、誰にも労られない。大きな蠅が集まって、まるで黒い霧の中みたいだった。
野鳥が鳴いている。この子が死ぬのを待っている。
湊は鞄からペットボトルを取り出して、その口に当ててやった。意味が無いことも知っていた。この子は明日には死体になって、鳥の餌になり、虫の苗床になる。だけど、それでも。
口内を湿らせるように少しずつ水を与え、ペットボトルが空になった時には、その子はもう息をしていなかった。僅かに開かれた瞼と、抜け落ちた睫毛。枯れ木のような腕は力無く投げ出され、生命の音は何処にも見付けられない。
空になったペットボトルを折り畳み、鞄に戻す。
俺がやったことは、無駄だっただろうか。
残酷なことをしてしまっただろうか。
この子の目に、俺はどんな風に映っただろう。
どうでも、良かった。
大切な人を失くしたことがある。目の前にいたのに、俺は処置をすることも、その手を握ってやることも出来なかった。憎む先があるのもまた、救いだと思う。
侑は、止めなかった。
だからと言って、肯定もしない。湊には、自分の行いが本当に正しいのか分からなかった。
暫く市街を歩くと、目の前に赤い砂漠が広がった。景色が歪んで見える程の高熱が頭の上から降り注ぐ。風が作り上げる砂紋は幾何学的に美しく、超越者が意図的にデザインをしているみたいだった。
砂漠を越えようとするキャラバンがいて、侑が交渉をした。どんな魔法を使ったのか知らないが、キャラバンの人々は親切だった。
生まれて初めて、駱駝に乗った。
想像していたよりも座り心地が良くて、駱駝は人に慣れていた。列を組んでキャラバンは進む。日差しが傾くと乾いた冷たい風が吹いた。
夜になる前に、目的地が見えた。
砂漠のオアシスみたいに、豪勢な宮殿が建っていた。アラビアンナイトを彷彿とさせる煌びやかな建物は四方を高い壁に囲まれており、寒暖差の凄まじい砂漠の中でも凜然と聳え立っている。
熱砂の国の大富豪、ラフィティ家の屋敷である。
キャラバンにいたのはラフィティ家御用達の商人で、石造りの門扉を殆ど顔パスで通って行った。湊と侑も其処に紛れた。
壁の向こうには、この世の贅を尽くしたかのような中庭が広がっていた。芸術品のような噴水からは止め処なく水が噴き出し、青々とした植物が生い茂り、何処かで鳥の鳴き声がする。
野球でも出来そうなくらい広い中庭の奥、白い回廊が見える。足元には天鵞絨の絨毯が伸びて、壁に据え付けられた燭台は黄金で出来ていた。この富の一欠片でも分け与えてやれば、どれだけの人が救えるだろう?
この燭台の一つ、水の一杯、屋根の片隅。
それを分け与えてやれば、どれだけの人の生活が守られるか。
富や権力を憎む気持ちは、痛いくらい理解出来る。
革命を望むのも、身分階級を恨むのも分かる。
だけど。
その為に、どれだけの人が苦しむんだ?
どれだけの人が命を落として、どれだけの子供が戦場に駆り出されて、どれだけの生活が壊されるのか。
この国で起きる革命は、どんなバタフライ効果を齎すだろう。それが、怖かった。
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