⑶支配者

 謁見の間に続く長い回廊の途中、侑が足を止めた。

 上等な絨毯と磨き込まれた石の床、染み一つ無い白い壁。黄金の燭台に灯された火が、風も無いのに揺れる。




「此処から先は、俺より前に出るな」




 そう言い置いて、侑は足を踏み出した。

 窓の無い廊下は薄暗く、奇妙に静まり返っている。侑はまるで地雷原を歩くかのように警戒しながらゆっくりと進む。

 顔を隠すベールのせいで、視界が悪かった。その代わりに嗅覚と聴覚が鋭敏になって、目に見えない何かの気配が其処此処から感じ取れる。


 誰かが、いる。

 何処かで誰かが自分達を観察している。


 廊下の先には飴色の扉があった。両開きの大きな扉には繊細な細工が施され、侵入者を拒むかのように沈黙している。


 ノックをするべきなんじゃないか。

 湊が声を掛けようとした時、扉の向こうから声がした。




「待ってたぜ」




 朗らかな声がした。扉は卵が割れるかのように開かれ、途端に視界が明転する。夜だと言うのに、部屋の中は真昼間のように明るい。賑やかな音楽と美しい芸術品が大広間を彩っている。


 ぼやけた視界の中、一人の青年が立っている。

 ムラト・ラフィティ。熱砂の国の大富豪、ラフィティ家の長男。彼は子供のように無邪気に笑っていた。




「せっかく車で迎えに行ってやったのに、降りちまったんだな。楽しい観光は出来たか?」

「お蔭様でな」




 侑が吐き捨てるように言った。

 手織の絨毯の上に、見たこともない御馳走が並べられている。熱砂の国は床で食事をする。シルクのドレスを纏った女性達が音楽に合わせて舞うけれど、観客は一人もいない。楽器を奏でる女、食事を運ぶ女、大きな団扇を携えた女。


 女達は美しい衣服を纏い、耳には銀色の飾りが装着されている。


 身分階級に女性蔑視。

 目眩がする程の差別が、この国には蔓延っている。


 湊には、何もかもが虚構のように感じられた。

 広間の中央を突っ切って、ムラトが堂々と歩き出す。踊る女達は跪き、まるで人形のような笑顔を貼り付けていた。けれど、其処に嘘はない。彼女達は、自分の役割に何の不満も持たず、立場に疑問も無く、機械的に動き続ける。


 侑が歩き出さないので、湊もその場に留まった。

 足元に広げられた絨毯が、どれだけ高価なものなのか知っている。その絨毯を織る為にどれだけの月日と労力が必要なのか、自分達は知っている。




「お前とお喋りする為に来たんじゃねぇんだよ」




 侑が言い捨てても、誰も動かない。

 ムラトばかりが偽りの笑顔を浮かべて、快活に言った。




「知ってるぜ!」




 どんな気持ちだっただろうと、初めて思った。

 ムラトは、ヒエラルキーの上層部に生まれ、輝かしい未来が約束されている。それでも、彼はたった一人の幼馴染の為に革命を望んだ。


 宮殿のような豪奢な屋敷で、彼は人形と生活している。

 大富豪の後継者で、その血を繋ぐだけの道具。それでも、彼は笑っているし、その人間性を捨てていない。




「今日はもう会えないぜ。美味い飯でも食って、英気を養うと良い」




 さあ、どうぞ。

 ムラトは腕を広げた。


 食欲を唆る香ばしい匂いがする。

 黄金の杯を満たすワインと、白い陶器。ハーブとスパイスの匂いが部屋の中に充満し、自然と涎が出る。だが、湊は口にしたいとは思わなかった。


 何故か。

 は、彼等の御家芸だからだ。


 湊は他人の嘘が見抜ける。しかし、この場にいる人間は、偽証する程の理性を持っていない。ラフィティ家の為ならば何でもするし、それが正解だと信じている。




「そんなに心配なら、俺が先に食ってみせようか?」

「ああ、そうしてくれ」




 侑は揺るがない。

 その時、初めて部屋の中に緊張が走った。ムラトが何かの肉料理に手を伸ばす。作り物みたいに白い歯が肉に刺さり、繊維が千切れる。ムラトはよく咀嚼して、飲み下した。




「ほら、大丈夫だろ? 俺には、お前等を死なせるメリットが無いんだ」




 ムラトには無くても、ラフィティ家は違う。

 此処で俺達が死んだら、クーデターや武器密輸の濡れ衣を着せられてしまう。


 ムラトは黄金の杯を手に取った。中に注がれたワインは、まるで血のように赤かった。侑は凛と背筋を伸ばしたまま、絨毯に足を踏み入れた。


 使用人の女が、侑に金色の杯を差し出した。

 湊は従者のように沈黙を守った。俺より前に出るなと言った意味が分かる。此処は敵陣真っ只中。こいつ等には情報の一つも与えてはならない。


 ムラトは、湊を見ない。

 その視線の意味も、分かる。自分に対する無関心こそが、彼等の信頼の証だった。




「何に乾杯しようか」




 ムラトが言った。

 試されている。俺だけじゃない。侑が、命を懸けられる人間なのか見定めようとしている。


 侑は口角を釣り上げて、黄金の杯を掲げた。




「明るい未来に」




 侑が黄金の杯に口を付ける、刹那。

 何か得体の知れない危機感が電流のように全身を駆け巡って、湊は殆ど反射的に足を踏み出していた。白い首に喉仏が隆起する。金色の睫毛が燭台の火を反射し、まるで朝日に照らされた水面のようだった。


 エメラルドの瞳に、僅かな驚愕が映った。

 侑は身を翻すようにして湊を躱し、黄金の杯を守った。満たされたワインが波を打つ。遠去けられた黄金の杯に向かって手を伸ばす。


 指先が黄金の杯を掠めて、ワインが絨毯に散った。

 侑が苦々しく顔を歪め、舌を打つ。湊はその腕に攀じ登り、黄金の杯を蹴り上げた。


 純金で出来た杯は、ワインを振り撒きながら空中で回転し、石の床に落下した。鐘の音に似た高音が響き渡り、女達に初めて動揺が浮かぶ。


 湊は羽織っていた衣装を剥ぎ取った。

 こんな遣り方じゃ駄目だ。値踏みされるような立場に甘んじていては、この世界は乗りこなせない。


 零れたワインが床に広がって、絨毯に染みを作る。

 湊は衣服を整えて、挑発するつもりで笑ってやった。




「役者が違うぜ、ムラト」




 信頼とは勝ち取るものだ。

 ローマングラスのような青い瞳に愉悦が滲む。

 湊はムラトを見詰めた。


 覚悟を示すべきなのは、俺達じゃない。

 ムラトの土俵には上がらないし、何も捨てるつもりは無い。




「あの頃とはもう、立場が違うんだよ」




 ムラトと初めて会った時、エンジェル・リードは何の後ろ盾も持たない餌だった。だけど、今は違う。貪られるだけの弱者じゃないんだ。


 湊は背筋を伸ばした。

 逆境にこそ、笑え。向かい風にこそ、顔を上げろ。

 俺はもう、守られるだけの子供じゃない。




「俺達は、お前の踏み台じゃない」













 12.羅生門

 ⑶支配者










 乾いた拍手が鳴り響いた。

 それは火花のように、静電気のように。


 湊は奥歯を噛み締めた。

 此処は敵陣真っ只中。陰謀策略飛び交う悪人の巣窟。権力闘争の頂上。――俺の土俵だ。


 拍手の音は、広間の奥から聞こえた。足音に紛れて、金属の触れ合う音がする。重力にも似た強烈なプレッシャーが掛かり、湊も侑も身構えていた。


 金細工の衝立の影から、白い民族衣装を纏った男が現れた。褐色の肌に白い髭を生やし、人の良さそうな笑顔を浮かべている。巧緻なアクセサリーが歩く度に揺れて、鈴のように鳴った。


 それが誰なのか、知っている。

 雑誌にも、インターネットにも写真が載っていた。実際に会うのは初めてだった。


 カミール・ラフィティ。

 熱砂の国を支配するフィクサーの一角。

 この世界を裏側から牛耳る影の重鎮。


 その一挙手一投足は精錬され、一分の隙も無い。靡く衣装と柔らかな物腰、美しいアクセサリーと見事な宝石。服装や仕草の一つ一つの均衡は、まるで芸術品のようだった。




「会いたかったよ、エンジェル・リード」




 威厳と落ち着きを備えた声だった。

 人の上に立つ人だ。この世の酸いも甘いも噛み分けて来たかのような凄みが威圧感として迸る。


 へりくだって、頭を下げた方がずっと楽だ。

 だけど、俺がこいつの手下になった時、最初に消費されるのは侑だ。こいつの機嫌を損ねず、自分の価値を証明して行く。俺の役目だ。


 カミールは腕を組み、嘆くように言った。




「アフマドが死んだそうだね。可哀想な男だった」




 どの口が言うんだ。

 ラフィティ家と赤い牙は繋がっていた。カミールは、アフマドの窮地を眺めていたし、息子を助けようともしなかった。


 表情には出さず、湊は微笑んだ。




「日本は危険な国です。手を出すなら、どうぞお覚悟を」

「ははは、どうして私が手を出すと言うんだ」




 カミールは鷹揚に笑った。

 嘘だ。この人は、全部分かってる。見抜かれることも知っていて、嘘を吐いている。




「あんな極東の島国に、経済的な価値は無い」

「だけど、貴方達はあの国が欲しい」




 湊は断言した。

 中国の青龍会、カルト宗教のSLC、熱砂の国の大富豪。フィクサーと呼ばれる重鎮が、パスファインダーを使って、己の立場を危うくしてまで手を出すのには理由がある。


 以前、立花がパスファインダーと会話している。

 商人が市場を広げて行くことの何が悪い。

 力こそ正義と思わないか。――天神侑によろしく、と。


 狙われていたのは、俺じゃない。

 俺が此処で退いたら、駄目だ。

 湊は腹に力を入れた。




「貴方が開けようとしているのは、パンドラの箱だ」

「だが、災厄の底には希望の光が残されていただろう?」

「希望という名前の災厄がね」




 湊は周囲を警戒した。

 女達が壁際に身を寄せて震えている。湊の視線を察して、カミールは穏やかに言った。




「その女達は、耳が聞こえない」




 だから、安心して良い。

 カミールは、そう言った。


 悍しい程の生理的な嫌悪感が、肌を粟立てる。

 カミールが側にいた踊り子を呼び寄せて、耳飾りを外させた。その下にはケロイドが残っている。喉には刃で引き裂いたような傷痕があった。


 この屋敷に仕える為に、耳を削ぎ落とし、声を奪った。

 情報を流出させない為に、まるで鳥の風切羽を切るように。


 人権、倫理、道徳。

 それが無意味に感じられる程の恐ろしい因習が、この国には根深く残っている。ムラトがクーデターを目論む理由が、湊にも分かる。




「君は、そのカードの使い方が分かっていない」




 カミールの瞳は、湊を見ていない。

 こいつ等が欲しいのは、薬のデータなんだ。薬物とテロリズムの横行した暗黒の時代、日本ではブラックという危険な薬物が出回った。


 SLCは強化人間を作り、軍事導入しようとしていた。侑も新もその薬物実験の被害者で、超人的な身体能力を持っていた。ブラックという薬は人の脳を破壊して、操り人形にする。


 湊が作った薬は、脳の破壊を食い止める。

 つまり、超人的な身体能力だけを獲得出来るのだ。




「科学は犠牲を要求する。過去に蓋をするだけでは、犠牲者達が報われないと思わないか?」




 こいつとは、分かり合えない。

 俺がどんな気持ちでその薬を作り出したか、新や侑がどんな覚悟で今まで生きて来たのか。どれだけの人が苦しみ、未来を奪われ、この世を恨んだことだろう?


 こいつ等は、いつもそう言う。

 お前はその使い方が分かっていない。

 だから、自分が有効利用してやる。




「人の生命を、何だと思ってるんだ」




 人の数だけ生活があり、人生があり、家族がいる。

 どうしてそんな簡単なことが分からないんだ。


 湊が言った時、カミールは不思議そうに首を傾げた。




「君がそれを言うのか? 君は生き残る為に、自分の望みを叶える為に、その手を汚して来た筈だ。自分が搾取される時には、そうやって綺麗事を言うのか?」




 湊は言葉を躊躇った。

 言い返すことは出来る。屁理屈を捏ねて、意地を張ることも。だけど、ラフィティ家が本気でそのカードを手に入れようとした時に、対抗する術が無い。


 沈黙は肯定と同義だ。何か返さなければ。

 湊が口を開いた時、侑が言った。




「その使い方を決めるのは、アンタじゃない。こいつが嫌だって言うなら、それが答えなんだよ」




 侑はエメラルドの眼を眇めた。




「俺達は身を守る為なら武器も握るし、手も汚す。だが、侵略戦争はしない」

「立派だな。それで、身を守れるのなら」

「守ってみせるさ」




 侑は中指を立てて、嘲笑った。

 これ以上の議論に意味は無い。カミールの目的は分かったし、ラフィティ家の内情も知ることが出来た。




「帰るぞ、湊」




 母国の澄んだ空気が恋しい。

 満天の星が、鮮やかな翠の波が、白い朝の霧が。

 海を越えて、空を渡って、随分と遠くまで来た。俺は早く大人になりたかった。だけど、自分のエゴを貫いて来たつもりで、いつの間にか望まぬものに変質しているのかも知れない。


 侑が忌々しげに舌を打ち、腕を引いた。

 湊はカミールに向けて小さく会釈した。




「覚えておくと良い、エンジェル・リード」




 扉に手を掛けた時、カミールの声が背中に刺さった。




「因果が己の内で完結することは無い」




 湊も侑も、振り返らなかった。

 立ち止まったら、それはもう自分ではないと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る