⑷隣の群青

 夜の砂漠は、死の世界だった。


 昼間との気温差は大きく、湿度が低くて喉が痛かった。光源の無い砂漠は闇に包まれて、自分の輪郭さえぼやけている。

 気温は零度を下回る。身を切り裂くような極寒の風が砂の粒子と共に、容赦無く襲い掛かった。時折、足元から生命の気配がした。それは猛毒を持った蠍であったり、毒蛇であったりした。


 砂の上は、歩き難かった。

 体の何処に力を込めたら良いのか分からない。寒さと疲労で目が回る。けれど、空を見上げた時の感動は何にも替え難かった。


 遮蔽物の無い豪勢な星空が広がっていた。

 星座を探すのも困難な程だった。湊は白い息を吐き出して、記憶を頼りに星座を辿った。


 夜空にはこんなに星があるのに、手を伸ばしてもどれ一つ届かない。

 いつか、新が言っていた。地上から見える星は、既に消滅した光かも知れない。湊は星空を四角く切り取った。


 だけど、この手にある内は俺のものだ。




「あいつが欲しがっていたのは、何だったんだ」




 防寒具を着込んだ侑が、籠った声で問い掛ける。

 湊は冷え切った指先を擦り合わせ、息を吐き出した。




「俺の持ってる薬のデータ」




 厳密には、違う。

 カミール・ラフィティやパスファインダーが欲しがっているのは、天神侑という生きたサンプルだ。私利私欲を満たす為に他人を餌にする下衆な人間だった。


 全てを伝える必要は、無かった。侑には身軽で、自由でいて欲しい。けれど、予防線を引いたせいで、助けられなかった人がいる。


 同じ轍は踏まない。

 湊はポケットに両手を入れて、拳を握った。




「侑のことを、生きたサンプルだと思ってる」




 侑の表情は見えなかった。

 星明かりの下で、侑は静かに立っていた。


 薬物とテロリズムが横行した暗黒の時代、日本は巨大な実験場だった。沢山の子供が新薬の犠牲になり、命を奪われた。

 SLCと公安は癒着していて、ブラックという悪魔の薬の膨大な実験データを持っていた。両親の母国は、宝の山なのだ。


 守りたいと、思う。

 何故か。あの国は両親が生まれ、新との思い出が残っている。近い未来、開発が進めば思い出の場所は消えるだろう。だけど、一つでも多く繋ぎ止めたいと思うのは、悪いことなのだろうか。




「結局、お前が一番の貧乏籤を引かされたんだな」




 侑の声は、擦り切れそうに掠れていた。

 それが何を指しているのか、湊にはよく分からなかった。




「俺は、そう思わないよ」




 俺に配られたカードは、いつもそうだった。

 だから、こんな状況は慣れている。


 携帯電話が圏外だった。

 砂漠にアンテナなんて立っている筈も無い。孤立無援の暗闇の中で、エメラルドの瞳だけが星のように輝いている。


 二人で砂漠を歩いた。オアシスが近くにあることを知っていたので、不安は無かった。

 オアシスには物資輸送のキャラバンが滞在していて、細やかな宴を開いていた。水面は夜空を映し、熱帯地域の植物が青々と茂っている。気の良い男達が宴に誘い、侑は一緒に酒を呑んでいた。


 パソコンや携帯電話から解き放たれ、肩書きも立場も無い。

 身を守るものを失くしてから、呼吸が楽になる。

 全部捨ててしまえば、楽なのかも知れない。エンジェル・リードなんて廃業して、身一つで世界中を旅するんだ。でも、帰り道を忘れてはいけない。本当の自由とは、帰る先があることなのだと思うから。


 宴もたけなわとなった頃、赤い顔をした侑が戻って来た。

 下戸とまではいかないが、侑はそんなに強くないらしい。侑は喉まで真っ赤で、機嫌が良さそうだった。




「街で、死に掛けたガキがいただろ?」

「うん」

「助からないと思わなかったのか?」




 湊は腕を組んだ。

 寂れた街の一角で、日陰で蝿に集られた痩せた子供。脈拍は弱く、例え救急車が来て搬送されても、間に合わなかっただろう。


 湊は、水を与えた。

 それが不毛で、残酷な行為だったとしても。




「無関心でいるよりは、マシだと思った」




 野良猫にその場凌ぎの餌を与えたとして、明日はどうする。

 そう問い掛けたのは、立花だった。

 俺のやったことは無意味だったかも知れないし、無責任な施しを憎んだかも知れない。だけど。




「憎む相手がいるのは、救いだと思うから」




 俺の小さなお節介が、いつか誰かを救うかも知れない。誰かの生命を、未来を守るかも知れない。今すぐは無理でも、いつか、きっと。




「損な性格だな」

「そうかな」

「まあ、俺は良いと思うぜ」




 それが、お前の善性だと思うから。

 そんなことを言って、侑が寄り掛かった。眠いのかと思ったが、侑の目は光られ、エメラルドの瞳は爛々とオアシスの泉を見ていた。


 砂漠の夜が更けていく。

 朝方の涼しい内に砂漠を越えたい。湊は侑に寄り掛かり、仮眠を取った。服越しに感じる温もりに、何故だか泣きたくなった。













 12.羅生門

 ⑷隣の群青














 砂漠を越えて、空港に到着した時、航から着信が残っていた。残された履歴は一件だけだったので、大した用事ではないのだろうと折り返さなかった。


 ラフィティ家がジェット機を出してくれると言っていたが、断った。代わりに母国にいる葵くんに頼んで、DoDのチャーター機を出してもらうことになっていた。


 日本に戻ったら、ムラトと話し合いたいことがある。その前に旅客機でニューヨークに立ち寄って、弟に会うつもりだった。

 搭乗時間まで余裕があったので、湊は持ち込んでいた文庫本を取り出した。


 太宰治の羅生門である。

 著作権が切れているので、今では媒体を選ばず自由に読むことが出来る。湊は本が好きだったので、古本屋で購入した。


 生活の糧を探していた下人は、遺体から髪を引き抜く老婆に激しく怒る。けれど、彼女にとっても生きる為には仕方が無いことだった。


 下人は、彼女の衣服を剥ぎ取って羅生門を飛び出した。

 お前の行いが許されるのならば、同じことをされても文句を言うなと言って。


 どうにもならないことをどうにかするには、手段を選んでいる暇は無い。追い詰められた極限の状況で、何を選んだとしても、それは責められない。


 善も悪も、曖昧模糊な代物だ。

 答えは無いし、この先も見付からないだろう。


 俺にとっての羅生門は、一体何だったのだろう。

 両親を亡くした時か、新が死んだ日か。武器を手にしたあの瞬間か。そんなことを思った。




「何を読んでるんだ?」




 トイレから戻って来た侑が、不思議そうに尋ねた。

 湊は表紙を見せた。侑はタイトルを見詰めていた。




「羅生門?」




 湊は頷いた。

 侑は意外と本を読む。子供向けの絵本やベストセラー小説に、芸術雑誌。仕事で使えるかも知れない知識は常に最新のものを取り入れようとしている。其処には、エンジェル・リードを守ろうとする侑の努力が窺い知れる。




「極限の状況で、どんな選択をしたとしても、それは誰にも責められない」

「……極限の状況にもよるな」




 侑が言った。

 空港内に訛りのある英語が響き渡る。搭乗時間を告げるアナウンスだった。湊は文庫本を閉じて、荷物を手に取った。




「俺は」




 侑の手が伸びて、荷物を代わりに持ってくれた。

 エメラルドの瞳が射抜くような鋭さで、湊を見ていた。





「大事なものがある。それを傷付ける奴がいるなら、どんな理由があっても許さない。……お前でもな」




 湊は笑った。

 侑の虎の子が何だか知らないが、それに手を出すような命知らずはいないだろう。


 二人で搭乗ゲートに向かった時、見覚えのある青年がいた。古着のようなラフな服装に、アメジストの瞳が静かに輝いている。


 バシルは病人のような顔色で、足元ばかりを見詰めていた。空港のタイルが鈍く光っている。同じ機体に乗るようだったが、湊は声を掛けなかった。


 なんとなく、嫌な予感がした。

 自分は弟のような危機察知能力もないし、侑のような柔軟な対応力もない。バシルという青年と接触することで、これ以上の地獄を広げるのは嫌だった。


 年代物のゲートは、丁度、駅の改札口に似ている。

 湊がゲートを潜った時、後ろで何かのぶつかる音がした。

 振り向いたら、侑が眉を下げていた。手荷物がゲートに引っ掛かったらしい。鞄の紐が蝶番の隙間に入り込んでいる。


 器用だな、と湊は笑った。

 頑なに引っ掛かる鞄の紐を二人で外した。列を待たせてしまったので、湊は周囲に謝罪をしてから早足に機体へ乗り込んだ。


 機体の最後列、窓側の二席を予約していた。

 荷物棚に鞄を放り込み、湊は窓側に座った。少し先にバシルの後ろ姿が見えるが、向こうは気付いていないようだった。


 目的地までは飛行機で10時間以上掛かる。

 自分達がこの鉄の鳥に乗っている間、世界は目まぐるしく変わって行く。浦島太郎にならなければ良いな、と思った。


 飛行機が離陸し、安定した飛行を始めた頃、湊は席を立った。トイレに行きたかったのだ。侑が戯けたみたいに言った。




「付いて行ってやろうか?」

「No, thank you」




 湊は肩を竦めて、トイレに向かった。


 トイレは席から近かった。

 使用中の札が降りていたので、席に戻って待つべきか迷った。そうこうしている間に飛行機独特のバキュームのような洗浄音が聞こえた。


 扉がスライドする。湊は壁に寄り掛かったまま、俯いていた。誰にも会いたくなかったし、話したくなかった。

 熱砂の国に根深く残る身分階級と女性蔑視は、国際社会からも問題視されている。だけど、あの屋敷にいる人間は、不幸だと思っていない。それが当たり前の生活で、価値観だった。


 それは間違っている。許されないことだ。

 部外者の無責任な野次に、何の意味があるだろう。

 ムラトの画策したクーデターが起これば、彼等は丸腰で争いへ巻き込まれてしまう。どうにか出来ないか。


 争い以外の選択肢は無いのか。

 全ての人が幸せになることは難しいけれど、誰も死なない最小の不幸で済む方法は。




「こんにちは」




 頭の上で、聞き覚えのある声がした。

 湊がそっと顔を上げると、アメジストの瞳が窺うように覗き込んでいた。


 なんてタイミングだ。

 神様なんてものがいたのなら、きっと俺のことが嫌いなんだろう。


 湊は笑顔を取り繕った。

 自分は、侑の妹と言うことになっている。


 バシルは優しげな微笑みを浮かべて、柔らかな声色で問い掛けた。




「観光は楽しめましたか?」

「はい。とても」

「今、あの国は混乱の中にあるから、少し心配だったんだ」




 バシルは少し砕けた物言いで、困ったみたいに言った。

 知っている。革命家で英雄とされたアフマド・イルハムを国中の人が悼んでいる。けれど、そいつは赤い牙と呼ばれる過激派組織のテロリストで、俺達が始末したんだ。




「これからニューヨークへ?」

「はい」

「奇遇だね、俺もだ」




 バシルが言った。

 目的地は一緒だと言うことか。


 ニューヨークには、弟がいる。バシルと自分が鉢合わせたら、面倒なことになる。目的地までは迂回して、なるべく会わないようにしないといけない。


 いや、難しいな。

 弟とバシルは親しいようだった。嘘が暴露て疑われるよりも、先手を打った方が良い。




「ご家族を亡くされたと仰っていましたね。俺も家族を亡くしたことがあるから、貴方の気持ちが少しだけ分かるよ」




 湊が言うと、バシルが目を瞬いた。

 構わず、湊は続けた。




「貴方の話は、航から聞いてるよ。弟がお世話になっています」




 バシルの混乱が手に取るように分かる。

 弟の友達ならば、大切にしてやりたい。湊は左手を差し出した。




「どうぞ、これからも弟を宜しく」




 バシルは目を白黒させながら、手を取った。




「君が航の双子のお兄さん? 船乗りをしてるって本当?」

「船乗り?」




 何のことか分からない。

 航のジョークを真に受けたんだろうか。話を合わせても、訂正しても良かった。バシルは特に追及しなかったので、湊も曖昧に流してしまった。




「俺はバシル・イルハム。君は本物のヒーローだ。俺は君を尊敬する」




 バシルは少年のように目を輝かせて言った。

 称賛されていると分かっても、その言葉は耳を通り抜けて消えてしまった。嫌な予感が質量を伴って鳩尾を殴って来たかのような、不吉な何かが喉の奥に引っ掛かる。


 バシル・イルハム……?

 彼は家族の葬儀の為に帰国していたと聞いた。熱砂の国では英雄視されたテロリストの死を悼んでいた。名前は、――アフマド・イルハム。


 まさか、こいつ。




「……君のお父さんは、もしかして」




 名乗りもせず、湊は問い掛けた。

 考え過ぎだったなら、それで良い。

 だけど、これが杞憂じゃないなら。


 バシルは疲労感を滲ませて、苦笑した。




「俺の父も、英雄だった」




 

 湊は目を伏せた。動揺で瞳孔が動く。バシルには何も悟られてはならない。今は何も感じるべきじゃない。怒りも憎しみも、悲しみも虚しさも。




「極東の島国で、亡くなったんだ」




 何かが、腹の底から込み上げる。

 頭の中に黒い靄が掛かって、目の前にいるバシルが違う生き物に見えた。そいつは暗闇の中、アメジストの瞳で此方を見ている。




「後がつかえてんぞ」




 不意に後ろから声がした。

 侑が、人形みたいな無表情で立っている。その言葉の通り、トイレ待ちの列が出来ていた。湊とバシルはそれぞれ謝罪をして、席に戻った。


 バシルの席は、機内の中程だった。座る寸前に此方を振り向いて、人好きのする明るい笑顔を向けた。湊はその横っ面をぶん殴ってやりたかった。

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