⑸鋼鉄の鳥

 頭の芯がぐらぐらと揺れている感覚がする。

 まるで、嵐の海に浮かぶ筏のようだった。


 席に戻ってから、湊はシートの上で膝を抱えた。後頭部が締め付けられるように痛くて、視界は点滅している。乗客の話し声や機内アナウンスが頭蓋骨に反響して、言語として聞き取れない。


 父は英雄だった。

 弟の友達、バシル・イルハムが言っていた。

 珍しいアメジストの瞳をした、人の良さそうな青年だった。嘘を吐いたり、手を汚したりしたことも無いような普通の人に見えた。


 確か、医学生。

 ――俺の有り得たかも知れない未来の形。


 君のお父さんはね、テロリストだったんだ。

 そいつのせいで、俺の両親は死んだんだよ。


 君のお父さんを殺したのは、俺なんだ。


 それを告げた時、彼はどんな顔をするだろう。

 遣り切れなくて、虚しくて、湊は因果と呼ばれるものを恨まずにはいられなかった。


 人殺しのテロリストが俺の両親を死なせて、そいつは家族も国民も騙して英雄と称えられている。別に恨んでいない。だけど、余りにも滑稽で、腹立たしかった。


 お前の父親が英雄なら、そいつに殺された俺の親は何なんだ。悪人か? それとも、怪物か?


 両親が生きていたら、俺には帰る家があって、弟は幸せで。新は生きていて、侑は笑っていられたんじゃないかなんて。

 そんな有り得たかも知れない可能性が、残されていた未来が、覚めない悪夢みたいに脳の奥にこびり付いている。


 精神が腐敗して行くような不快感が込み上げる。

 俺は自分で選んだ道なら、地獄でも歩いて行く。配られたカードに文句は言わない。――だけど!!




「酷い顔してるぞ」




 侑の声がした。

 意識が水底から浮上したみたいだった。視界の焦点が合って、意味不明だった他人の声がBGMとなって帰って来る。


 湊は深呼吸をした。

 大丈夫。立て直せる。


 湊が顔を上げ、言葉を発しようとする寸前。

 侑の腕が伸びて、頭の上に帽子を被せた。




「寝たふりしてろ。……不審な動きをしてる奴等がいる」




 声を潜めて、侑が言った。

 侑は客席を窺い、口元に微かな笑みを浮かべていた。エメラルドの瞳は新しい玩具を見付けたみたいに爛々と輝き、気配が煙のように消えて行く。


 湊は帽子を被ったまま、壁に凭れ掛かった。

 侑は平時と変わらない態度で、足を組んだ。膝の上に雑誌を広げているが、何かを観察していると分かる。


 湊の後見人――葵くんは、自爆テロで友人を亡くしている。

 まさか、テロか?

 高度三万フィートの上空、鉄の鳥の中では出来ることが何も無い。地面に足が付いていないことが、急に不安になる。




「大丈夫だ」




 雑誌を捲りながら、侑が言い聞かせる。

 湊は頷いて、機内の音に耳を澄ませた。


 乗客の会話、機内販売、衣擦れの音、壁から響く震動。

 侑が何を察して、何に身構えているのかは分からない。

 非常口は両翼の側に二つ。まだ何も起きていない。


 湊は帽子のツバを下げた。




「不審人物は、近くにいる?」

「機内前方に二人。……ああ、真ん中にもいる。今、棚から鞄を取った」




 重そうだ、と侑が言った。




「コックピットに行こうとしてる。外国人だ。二十代前半、男、長身痩躯」




 どうする。爆弾を持っていたとしたら、下手に動けない。

 クルーに伝えるか。冷静に対処してくれるだろうか。――いや、敵が何処にいるか分からない。もしかしたら、もっと多いかも。




「コックピットに行かせちゃ駄目だ」

「分かってる」




 俺に任せろ。

 侑がそう言って、席を立った。


 乗客の声がする。

 最近、ゴルフに夢中なんだ。男の声。

 休日はデートなの。若い女の声。

 オレンジジュースが飲みたい。子供の声。

 朝食に温かいオムレツはいかがですか。乗員の声。


 みんな、明日が来ることを信じている。

 変わりない毎日が続いていくことを願っている。帰るべき家があって、待っている人がいる。人の数だけ生活があり、人生がある。


 ――守らなきゃ。


 脳から直接下された命令のように、それこそが己の存在意義であるかのように。湊は帽子のツバを上げて、通路を進む侑の背中を見詰めた。


 機内前方、コックピットに続く個室はカーテンで隠されている。最前列の男が鞄を持って歩き出す。侑が早足に追い掛ける。


 掌に汗が滲んだ。

 男が警戒しながらカーテンを開ける。乗員、乗客は気付いていない。それで良いんだ。此処で何が起きようとしているのか、知らなくて良いんだ。


 侑がカーテンの向こうへ踏み込むと同時に、側の席にいた男が腰を浮かせた。機内に武器の類は持ち込めない筈だ。肉弾戦なら侑が勝つ。一番厄介なのは、客席に残った仲間が暴挙に出ること。


 湊は席を立った。














 12.羅生門

 ⑸鋼鉄の鳥












 機内は雑音に満たされている。前方のカーテンは閉ざされ、何が起きているのか窺い知ることは出来ない。

 湊は通路を歩き、機内中程の席に座ったバシルに歩み寄った。




「やあ、こんばんは」




 バシルのアメジストの瞳が驚いたみたいに見開かれ、帽子を被った自分が鏡のように映っていた。湊はその隣に座った男に会釈した。


 目付きで分かる。一般人じゃない。

 バシルを避難させなきゃ。




「俺の席、揺れが酷いんだ。少しの間で良いから、代わってくれないか」

「俺は構わないけど、大丈夫かい? 酔い止めの薬を持ってるよ」

「少し寝たら治るさ」




 バシルは荷物を纏めて、席を立った。隣の男が訝しむように見遣るので、湊は肩を竦めた。バシルが後方の席へ移動する。湊は機内前方を確認して、目の前の空席を見下ろした。


 隣の席に座っていたのは、壮年の男だった。

 東洋人に見えるが、その瞳は緑柱玉のように輝いている。侑のエメラルドとは違う、青みがかった碧眼。姿形からは大学教授のような印象を受けるが、それが偽りだと分かる。


 それは、冬虫夏草に似ている。

 人間に対して、恐ろしいと感じる。目の前の空席に気味の悪い虫が、幾つもの卵を産み付けているかのようだった。座った瞬間、その卵は潰れて粘液を溢れさせるのだろうか。それとも、俺にも寄生するのか。


 湊が躊躇っていると、男が言った。




「気分が悪いのですか。お掛けになってはいかがですか」




 唇の動きと声が連動していない。その視線は手元の新聞を見ているのに、自分を意識していると分かる。敵意はないのに、明確な殺意を感じる。


 耳の奥が鋭く痛む。




「座りたまえよ、ヒーローの息子」




 男は顔を上げない。

 湊は、目に見えているものが歪み、現実から乖離して行くかのような違和感に襲われた。




「ペリドットが死んでも良いのか?」




 座れ、と。

 有無を言わさぬ恫喝的な声で、男が命令した。コックピットの方を見遣る。カーテンは閉められたまま、誰も出て来ない。何故だ。侑にしては、時間が掛かり過ぎている。


 追い掛けるべきなのか。いや、俺が行っても足手纏いだ。

 目の前のこの男から意識を逸らすべきじゃない。


 俺のことを、ヒーローの息子と呼んだ。

 年齢は五十代後半、大学教授のような男で、碧眼の日本人。


 ――ああ、こいつか。


 侑がニューヨークで交戦した殺人鬼。

 ナイフの呪いに隠れて、間引くように何人も殺害した計画犯。親父と面識があるようだが、少なくとも湊は会ったことがなかった。


 いつか会ってみたいと思っていた。

 悪意のない殺意。本物の快楽殺人犯。法では裁けない真の邪悪。名前は確か――、翡翠。




「貴方が、翡翠さん?」




 湊が問い掛けると、翡翠はうっとりと笑った。

 敵意も邪気も無いのに、恐ろしいと感じる。何故だろう。この人は、何のきっかけも動機もなく、良心の呵責も罪悪感も無く人を殺す。それは、虫を潰すように。


 立っているのも不審に思われる。

 この機内には、何か不穏な動きをする人々が同乗している。翡翠と関係があるのか、そうでないのかも分からない。


 湊は席に座った。

 虫の卵が潰れて、粘液と共に幼虫だったものが流れ落ちるような、そんな気がした。


 機内前方、カーテンは閉められている。

 おかしい。不自然だ。侑がこんなに時間を掛ける筈がない。




「悪戯しようとしているのは、貴方の仲間ですか」

「いいや。あいつ等は、お前の敵さ」




 嘘は吐いていない。

 湊は顎に指を添え、少し考えた。


 俺の敵か。まさか、ラフィティ家?

 それとも、フィクサーの私兵か?


 湊の僅かな逡巡を遮るように、翡翠が言った。




「平和を脅かす悪人は、お前の敵だろ?」




 湊は首を捻った。

 会話が噛み合っていないような気がした。




「俺は正義の味方じゃない」




 湊が言うと、翡翠が意外そうに笑った。

 この人は、何かを勘違いしている。俺の親父はメサイアコンプレックスの狂人だった。正義や平和というものを信じていたし、希望に取り憑かれていた。




「あいつ等は何なの」

「あれは、赤い牙の残党だ。この旅客機をホワイトハウスに突っ込ませて、一矢報いようとしている」




 つまり、自爆テロか。

 航空会社は厳重な警備を敷いているし、機内に武器の類は持ち込めない。コックピットの扉は固く閉ざされ、不用意に開けることが出来ないようになっている。――かつての悲劇を繰り返さないように。




「飛行機のハイジャックなんて現実的じゃない。機内に持ち込める武器は限られてる」

「次世代のプラスチック素材が開発されたことは知ってるか?」




 湊は頷いた。

 科学雑誌で読んだ。ドイツの研究チームが動物油のプラスチック素材を開発した。殆ど完全なリサイクルが可能で、人体への影響が少ないから医療への導入が検討されていると。


 パスファインダーが使っていたのもそうだった。

 ブレイン・ネットワークインターフェースと呼ばれる機械を脳に仕込んで、例のプラスチック素材で覆う。そのプラスチックは絶縁性が高く、人体組織に近いので、内部に機械を仕込んでもレントゲンや金属探知機には引っ掛からない。




「汎用性が高いということは、悪用することも出来るということだ。体内に武器庫を仕込むことも出来る」

「……まさか、爆弾?」

「さあ?」




 体内に爆弾を仕込むことが出来るのか。

 しかも、レントゲンや金属探知機では見付けられない。

 そんな奴等がこの機内に乗っていて、自爆テロを企んでいるかも知れない?


 嫌な予感がして、湊は顔を上げた。

 カーテンの向こうは沈黙を守っている。

 どうして、侑は戻って来ないんだ?


 翡翠は喉を鳴らしながら、嬉しそうに問い掛けた。




「体内の爆弾をどうやって着火させると思う?」

「……」

「ブレイン・ネットワークインターフェースだよ」




 湊は歯噛みした。こんなものは、科学への冒涜だ。

 人間の体内に仕込んだ爆弾を、遠隔操作で爆発させる。その為の導火線がブレイン・ネットワークインターフェース。どちらも、医療の為の発明だった。


 自分の命が脅かされているというのに、翡翠は落ち着き払った態度で蕩々と語った。




「どれだけ科学が発展しても、どれだけ法が整っても、人の悪性を制御することは出来ない」




 平和の為のダイナマイトが、戦争に使われたように。

 翡翠は優雅な動作でコーヒーを啜った。そして、その手がカップを置く。――次の瞬間、機体が大きく傾いて、凄まじい重力に襲われた。彼方此方で悲鳴が上がり、皿の割れる音が響き渡る。


 窓の外、雲が垂直に見えた。

 湊はシートにしがみ付いた。機内が激しく揺れて、機体がアクロバットみたいに一回転する。ぎしぎしと機体の軋む音がして、湊は頭を伏せた。


 大地震の後みたいに、余震が続く。コーヒーが飛び散って、オムレツが壁に叩き付けられる。子供の泣き声が、神への祈りが、まるで不協和音みたいに。


 ゆっくりと、静かに機体が水平飛行へ移る。

 微温湯のような安堵が広がって、機内は被災地のような物々しい雰囲気に包まれていた。


 その時、耳を劈くような怒号が響き渡った。

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