⑹極限の世界

「動くな!!」




 それは異国の言葉だった。

 褐色の肌、黒い髪。年齢は二十代後半くらいで、男性。その手には玩具みたいな白い刃が握られている。


 セラミックナイフ。

 湊は舌を打った。


 混乱と緊張が伝播する。男は側にいた乗客を引っ掴むと、首筋を切り付けた。噴き出した鮮血に機内はパニック状態になった。


 どうする、どうする。

 こいつ等は、テロリストだ。本物の爆弾を持っているかも知れない。侑はどうして帰って来ないんだ。どうなっているんだ。


 男は血塗れの乗客を投げ捨て、次の獲物にナイフを振り上げた。脅し付けるような怒号が響き、乗客は仔兎のように怯え竦んだ。


 機内がしんと静まり返る。

 男は背後のカーテンを見遣り、忌々しげに顔を歪めた。それから客席に向き合うと、宥めるような声色で言った。




「大人しくしていれば、全員空港へ下ろしてやる」




 湊には、それが嘘だと分かった。

 こいつ等は、乗客を助けるつもりなんてない。子供の泣き声がする。人々の恐怖が、緊張が、嘆きが聞こえる。


 湊はポケットを探った。

 電波の届かない携帯電話、事務所の鍵、小銭入れ。

 武器の類は無く、丸腰で、侑もいない。


 此処は高度三万フィートの空の上。援軍に期待出来ない。

 敵の数や武器も分からない。だけど、予想出来ることもある。機内である以上、銃器は使わないだろう。セラミックの小さなナイフを片手に乗客を刺したのは、俺達を牽制する為だ。――つまり。


 人海戦術なら、勝てる。

 この機内の乗員と乗客を味方に付けて、侑さえ戻れば、逆転出来る。




「お手並み拝見といこうか、ヒーローの息子」




 翡翠が楽しそうに言った。

 何なんだ、こいつは。命を握られているのは同じ筈なのに、嘘は一つも吐いていないのに、不気味に落ち着き払っている。


 丸腰の俺に出来ること。

 湊は両手を上げて、席を立った。

 ナイフを持った男が睨む。その程度で怯えるような細い神経では、生きていけなかったので。




「……その人の手当てをさせてくれ」




 ナイフで斬り付けられた乗客が、シートの上に倒れている。どういう状態なのかは分からないが、小さなセラミックナイフで致命傷を与えるのは難しい。


 男は機内を見渡した。

 何処かに仲間が潜んでいると分かる。湊は手を上げたまま、後方を振り向いた。




「誰か、手当て出来る人はいませんか!」




 客席後方で、褐色の腕が伸びた。

 バシルだ。彼は医学生だった。この状況で隠れている程、臆病者でなくて良かった。


 通路で合流し、二人で傷病者の元へ向かった。バシルは緊張と恐怖を押し殺したような酷い顔付きだった。励ますように肩を叩くと、バシルが下手糞に笑った。


 犯人の足元、首筋を切られた男性が倒れている。頸動脈を切られたらしく、血が止まらない。トリアージなら黒タグを切るような状態だった。


 側に倒れた女性は軽傷だ。俺でも手当て出来る。

 湊は軽傷の女性を引き受けて、もう助からないだろう男性をバシルに任せた。




「天神さんは、何処に行ったんだ」




 囁くように、バシルが耳打ちした。

 湊は女性の傷口を止血しながら、英語で答えた。




「カーテンの向こう」

「なんで」




 そう言いながら、バシルは手を止めない。

 流石に手際が良かった。この人はいつか医者になって、大勢の人を救うだろう。この機内にいる人も、きっと誰かの大切な人で、帰るべき家がある。


 バシルの手は血塗れだった。助けられないことくらい分かるだろう。助けたいと思う気持ちは湊にも痛いくらい分かる。




「女の人を運ぶぞ」

「この人はまだ生きてる」

「無理だ。此処で手術は出来ない」




 湊が言うと、バシルが顔を歪めた。

 その様が、まるでいつかの自分を見ているようで、苦しかった。湊はバシルの腕を引き、女性に肩を貸した。啜り泣く声が、呻き声が耳鳴りのように聞こえた。自分の掌が汗で濡れている。


 バシルは梃でも動かないというように、重傷男性の側にいた。時間を無駄にしたくなかったので、湊は女性を自分の席まで運んだ。


 ありがとう、と。

 消えそうな声で、女性が言った。


 翡翠は観客みたいに足を組んで、此方を見ていた。

 図太い神経が羨ましいくらいだ。湊は無視して、バシルの元へ戻った。


 男性は虫の息だった。手の施しようがない。此処には手術道具も、輸血パックもない。俺にもバシルにも助けられない。




「貴方の目的は、何なんですか」




 震える声で、バシルが言った。

 相手はナイフを持ったテロリストだった。湊は、こいつは馬鹿なんだろうな、と思った。愚直で、傲慢で、反吐が出るくらいの善人。両親の仇、その息子。


 このテロリストは、赤い牙と呼ばれる中東の過激派組織だ。バシルはその先導者の息子。だが、テロリストはバシルを見下ろすと、拳を振り上げた。


 湊には分からない異国の言葉で、男が捲し立てる。バシルの態度が反感を買ったのだ。壁に叩き付けられたバシルはそのままにして、湊は瀕死の男性の手を握った。


 命が終わるその時、出来ることには限りがある。

 どんなに手を尽くしても救えないものがあり、どんなに足掻いても取り戻せない。だから、せめて、その最期が安らかなものであるように祈るしかない。




「お名前は?」

「……オリバー……」

「ご家族は?」

「コッツウォルズに、年老いた母が……」




 コッツウォルズ――イギリスか。

 湊は男性の手を握ったまま、閉じようとする両眼を見詰めた。グレーの瞳が茫洋と空を見上げている。冷たくなっていく掌を握り、湊は語り掛けた。




「貴方のお母さんに、必ず伝える。息子さんは、最期まで生き抜いたと」




 オリバーの口元が微かに緩んだ。笑ったのかも知れないし、筋肉が弛緩しただけなのかも知れない。手首から感じる脈拍が静かに消えて行く。




「どうか、安らかに……」




 半開きの瞼を下ろしてやり、湊は立ち上がった。














 12.羅生門

 ⑹極限の世界












 機内放送が繋がったのは、その時だった。

 機内の不穏な緊迫の中、スピーカーの向こうから微かな物音が聞こえた。まるで、マイクを爪で叩くような不明瞭な雑音。


 武器を持ったテロリストが、焦ったように後ろを振り返る。カーテンは閉ざされている。スピーカーからは小さな雑音が流れ続けた。


 その音を聞いた瞬間、朝日を浴びたみたいに体中に活力が漲って行くのが分かった。等間隔の物音――モールス信号。


 侑だ。

 俺達は、緊急時に備えて合図を幾つか決めている。暗号、鈴の音、モールス信号。湊はポケットを探った。客席に座っていた男が立ち上がり、カーテンの向こうへ踏み入る。新手だ。やはり、仲間がいた。


 ポケットの中で小銭入れを開ける。

 片手に小銭を握り締め、両足に力を込めた。




「こっちを見ろ!」




 振り向いた男の顔面目掛けて、小銭を投げ付けた。男が怯んだ一瞬の隙に、カーテンの向こうに飛び込んだ。侑はいない。コックピットへ続く扉は固く閉ざされている。


 まさか、こんなところに。

 頭の上でナイフが振り下ろされる。素人の動きじゃない。自分じゃ勝てない。湊は刃を腕で受け止め、コックピットの扉に手を掛けた。


 施錠装置は、思うよりも厳重で複雑だった。片手じゃ開けられない。湊は腕に刺さったナイフを振り払った。袖が切れて皮膚が裂けていく。不思議と痛みは感じなかった。


 鍵の構造が頭の中に焼き付いて、湊は血塗れの両手で扉を開けた。背中に何度か衝撃があったが、構わなかった。此処を開ければ勝てると知っていた。


 コックピットの向こう、澄み渡るような青空が見えた。

 エメラルドの瞳が真丸に見開かれて、機長と副操縦士が振り返る。湊が言葉を発するより早く、侑の腕が伸びた。


 鈍器で殴られたみたいな凄まじい音がして、背後でナイフが弾け飛んだ。湊はその時になって、自分の背中が血塗れになっていることに気付いた。


 安心感と疲労感が伸し掛かって、両足から力が抜ける。貧血のせいで視界が悪かった。その場に崩れ落ちる寸前、侑の腕が支えた。




「こいつ等は、何だ」

「赤い牙の残党。……爆弾を持ってるかも」

「機内だぞ。そんなことして、何の意味がある」




 苛立ったように侑が言った。

 意味なんか知らない。説明されても共感出来ない。俺は武器も爆弾も大嫌いだ。


 体が重かった。鈍い痛みが遅れてやって来る。

 何箇所刺された。傷の深度は。どのくらい出血している。

 こんなところで死ぬつもりはない。




「結果を残すことに、意味があるんだ。それが、テロだ」




 咳き込んだら血が出た。

 何処の何を損傷しているのか分からない。トリアージしたら、俺は何だろう。




「どうすりゃ良い。機体の外に放り出すか?」

「高度三万フィートだぞ。そいつがエンジンに巻き込まれたら、俺達は海の藻屑だ」




 どうする。また、頭蓋骨を開けるか?

 今の自分の状態で出来るのか?


 中国でパスファインダーの頭蓋骨を開けた時、ブレイン・ネットワークインターフェースは脳幹へ複雑に絡み合っていた。幾つかの可能性が浮かんで、そのどれもが希望的観測でしかないことを悟る。最悪の事態を想定して、最善を尽くすしかない。その為に出来ること。


 ――下人は、彼女の衣服を剥ぎ取って羅生門を飛び出した。お前の行いが許されるのならば、同じことをされても文句を言うなと言って。


 どうにもならないことをどうにかするには、手段を選んでいる暇は無い。


 今の俺に尽くせる最善。

 乾いた諦念が湧き出して、視界が色褪せて行く。湊は腹に力を込めて、そっと告げた。




「殺せ」




 これが、俺の羅生門か。

 湊が言った時、侑が頷いた。




「分かった」




 お前は此処で寝てろ。

 そう言って、侑は立ち上がった。湊は首を振った。侑にだけ背負わせるつもりは無い。俺だけ泥を被る気も無い。俺達は最小の不幸をみんなで背負うべきだ。


 狭い通路に武器を持ったテロリストが雪崩れ込む。自分が想像する以上の数だった。侑が相手をしている間に、湊は床を這ってコックピットに向かった。副操縦士が青い顔で振り向く。湊は手を伸ばして、マイクを掴んだ。




「……お客様にご連絡致します。当機はテロリストによってハイジャックされております」




 自分の声が水の中みたいに篭って聞こえる。

 風の唸りと機体の稼働音、操縦士達の動揺が漣のように響く。頭が締め付けられるように痛くて、視界が霞む。だけど、俺が此処で折れたら、みんな終わりだ。


 不安を煽るのではなく、鼓舞するんだ。

 人々の善性を、正義を奮い立たせる。




「テロは、武力の行使と武力による脅迫を正当化する、この世で最も卑劣な犯罪行為です。その主義は……力こそ正義という幼稚な理論に過ぎず……それを許せば我々の生活は脅かされ、自由や平和は崩れ去るでしょう」




 雨垂れの音がする。

 機内なのに変だな、と思った。

 何故だろう。




「我々は、断固としてそれを許してはなりません。……我々は愛する者の為に、世界の平和と秩序の為に、立ち向かわなければなりません」




 人海戦術なら勝てる。

 この機内の乗員と乗客が味方に付いてくれたら、テロリストを抑えられる。そして、その混乱に乗じて侑がテロリストを始末する。


 俺には、守るべきものがある。

 その為なら、人の善性も、社会的正義も利用する。




「皆さんの勇気が、愛する者の明日を、世界の平和を守るでしょう。どうか、力を貸して下さい……」




 もう限界だった。

 自分が何を言っているのか分からない。頭の中がぐちゃぐちゃで、本心なのか詭弁なのかも判別が付かなかった。

 マイクが掌から滑り落ちて、湊はその場に膝を突いた。足元に血の池が出来ていて、全部自分の血なんだと思ったら、奇妙な感覚だった。


 まだ、眠る訳にはいかない。

 結末を見届けないと。

 乗員と乗客が機内を制圧すれば、侑がやってくれる。だけど、不安要素がある。翡翠が何をするか分からない。俺は不測の事態に備えないと。


 ああ、でも、なんだか眠くて堪らない。

 失血しているのに、暖かい。

 なんでかな。……なんでだろうな。

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