⑺再起動

 ――そうだ、今晩は銀河のお祭りだねえ。

 ――うん。僕、牛乳を取りながら見て来るよ。

 ――ああ行っておいで。川には入らないでね。


 ……なんだっけ。


 何の言葉だっけ。

 記憶に刻まれた古い言葉。誰かと話したような気もするし、そうじゃなかったのかも。目の前にあるのに手が届かない。まるで、陽炎に手を伸ばしているみたいに。


 たたん、ととん。

 電車の音がする。背中越しに感じる揺れが心地良かった。意識は温かい泥の中にあるみたいに鈍っていて、目を開けることすら億劫だった。


 ――ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。


 ああ、これは。

 湊は目を開けた。その瞬間、視界いっぱいに星空が映った。群青の天鵞絨に宝石を鏤めたような満天の星だった。宇宙空間だってこんな豪勢な星空は見られないだろう。


 息を呑む程に美しく、荘厳な景色だった。

 両親の母国を走っていた路面電車が、線路も無いのに走っている。行き先は分からないし、別に知りたくもなかった。車内は無人で、擦過音が子守唄のように響いている。


 手荷物は何も無かった。身体を座席に預けて、湊はぼんやりと車窓を眺めた。

 遠くにガーネットみたいな赤い星が見えた。その向こうには白と青の惑星がワルツを踊るように回っている。金色の箒星が、ごうごうと唸りながら通り過ぎて行く。




「おい、湊」




 柔らかなテナーの声が、無人の車内に反響した。

 ちゃりん、と金属の音がした。湊が振り向くと、車内の真ん中に一人の青年が立っていた。




「なんでこんなところにいるんだよ」




 青年は、泣きそうな顔をした。

 ラフなTシャツの首元で、銀色のドッグタグが光っている。湊はつい自分の胸元に手を伸ばした。しかし、其処にあるのは弟とお揃いの天然石だけだった。


 青年は重い溜息を吐くと、隣に座った。シートが僅かに揺れる。湊はその横顔を見てから、車窓に目を移した。




「俺、頑張ったと思わない?」




 戯けるように、湊は言った。

 他人の評価なんて求めてないし、興味もない。何を言っても良いし、恨んでくれても構わない。ただ、邪魔だけはしないでくれ。ずっとそう思っていた、つもりだった。


 他人に期待するようになったのは、いつだろう。

 どうでも良いと切り捨てて来たものが惜しくなったのは、何でだろう。もしかしたら違う未来もあったんじゃないかなんて夢を見なくなったのは、何故なのか。


 いつも胸が苦しくて、泣きたくて、声を上げて叫びたいのはどうしてだろう。自分の気持ちや心と向き合わなくなったのは、いつからなんだろう。


 俺は前に向かって走っていたつもりで、本当は過去から逃げていただけなのかも知れない。逃げられる筈ないって、知っていたのに。


 青年――新は、何も感じてないみたいな真顔で言った。




「お前が頑張ってない時、あったか?」




 そう言って、新はエメラルドの瞳を向けた。




「いつも頑張ってただろ。文句も言わず、弱音も吐かず」




 湊は首を振った。

 そんなことない。俺はいつも誰かに助けられて来たんだ。大勢の生命の上で生きている。だから、少しでもマシな未来を選ぶ。誰に何を言われようが、進む先が地獄だろうが、立ち止まらない。




「もうおしまいか?」




 たたん、ととん。

 たたん、ととん。


 おしまいなんだろうか。おしまいだったら、どうなるのか。

 そうしたら、この銀河鉄道に乗って、新と何処までも行けるのだろうか。湊には、それはとても贅沢で、素晴らしいことに思えた。


 おしまいでも良いかな。

 湊は目を伏せた。無人の車内は、新品のようだった。リノリウムの床は鏡のように磨き込まれ、足跡の一つも無い。


 俺はやるだけやったんだ。それでも駄目なら、受け入れるしかない。最期は新と一緒に行けるなら、良い人生だったと思う。


 湊が答えようと顔を上げた時、飴色の革靴が見えた。

 ゆるゆると視線を上げて行くと、鮮やかなエメラルドの瞳が射抜くように見詰めていた。




「それはないんじゃねぇの?」




 置いて行くつもりかよ。

 子供みたいに、侑が言った。


 車内の白い天井灯に照らされて、侑の金髪が星屑のように光る。揺れる車内で何処にも掴まっていないのに、侑は両足に根っこでも生えているみたいに真っ直ぐ立っていた。


 侑は呆れたみたいに肩を落とした。

 新は無邪気に笑っている。肺に酸素が直接送り込まれているみたいに、息が楽だった。




「ごめんな、新。お前のところには、まだ行かせねぇ」




 侑が、告解するように溢した。

 新は気にした風もなく、放逐するように手を振った。茫然としていると侑が手を引いた。湊は導かれるように席を立った。




「またな、湊」




 背中で、新が言った。

 湊は手を引かれながら、半身で振り向いた。新はシートにだらしなく座って、小さく手を振っている。

 床から白い靄が湧き上がって、新の姿が遠去かって行く。




「またね、新」




 手を振った時、何かが目から零れ落ちた。

 それが何なのかなんて、知らなくて良い。俺にはきっと、もう必要の無いものだから。













 12.羅生門

 ⑺再起動













 目を開けたら、青空が広がっていた。

 何処か遠くでサイレンが鳴っていて、人の騒めきが風のように聞こえた。澄み渡る青空に星は一つも見付けられない。銀河鉄道だって走ってない。




「湊」




 声が、した。

 目を向けようとして、体が鉛のように重いことに驚いた。まるで蝋で固められているみたいだった。

 青空を遮るようにして、エメラルドの瞳が覗き込んで来る。侑は少し顔色が悪かった。


 飛行機の中ではなかった。どうやら、自分達は無事に地上へ戻って来られたらしい。自分が担架に寝かされていて、救急車に乗せられる寸前だと知る。




「……どうなった」




 テロリストは、どうなったのだろう。

 翡翠は何処に行った。刺された女性は、オリバーは。

 皆、無事なのか。


 侑は機嫌悪そうに鼻を鳴らした。




「全部、お前の筋書き通りに」

「侑は……、バシルは」




 喉が開いていないのか、声が掠れた。

 侑は目を細めた。




「無事だよ。……お前があの演説して、ぶっ倒れて、バシルが手当てした」

「そうか……」




 借りを作ってしまった。

 バシルは医学生で、彼はいつか多くの人を救うだろう。例え、その父親がテロリストで、俺の両親を奪ったとしても。




「あいつ、アフマドの息子なんだろ」




 侑は凪いだ声で問い掛けた。

 担架が救急車に乗せられて、侑も同乗した。弟に連絡が行ったら恐ろしく叱られるだろうけれど、逆の立場だった時に、何も知らなかった方が苦しいと知っている。


 侑の掌が頭を撫でる。口元には微かな笑みが浮かんでいるのに、その目は微塵も笑っていなかった。




「どうしたい?」

「……菓子折を送って」




 首元のドッグタグを撫でて湊が言うと、侑は噴き出すみたいに笑った。




「了解」




 それきり、侑は黙ってしまった。

 救急車がサイレンを鳴らしながら走り出す。車の外にはマスコミのカメラやマイクが見えた。旅客機をハイジャックした自爆テロ。乗員と乗客が協力してテロリストを制圧して、最小限の被害で留めた。――真実なんて、誰も知らなくて良い。




「銀河鉄道の夢を見たよ」




 意識は雲の中にいるみたいだった。

 管に繋がれた輸血パックを見上げる。この血の一滴だって、誰かの命に繋がっている。俺は多くの命の上で生きていて、それに返せるものが何も無い。


 侑が相槌を打った。

 天井しか見えないので、侑がどんな顔をしているのか分からない。




「新が出て来たんだ。……止めに来てくれたのかな」




 なんて、安い感傷だ。

 夢なんて脳が記憶を整理する為に見せるメカニズムだ。死者と話す術は無いし、どんなに願っても答え合わせは出来ない。


 でも、信じたくなる気持ちは分かる。

 新が来て、俺を彼岸の淵で引き留めてくれた。侑の存在が引き戻してくれた。そう信じたって、誰も不幸になんてならない。


 侑は何も言わなかった。言えなかったのかも知れないし、言わないでいてくれたのかも知れない。




「因果って、不思議だね」




 天井に向かって、湊は言った。

 返事なんてなくても良かった。


 アフマドがいなければ、俺の両親は死ななかった。そうしたら、新は今も生きていて、俺はこんな世界にいなかったかも知れない。だけど、アフマドがいなかったらバシルもいなくて、俺は機内で死んでいたかも知れない。


 行いは巡って来る。

 俺の行いが、いつか俺を救うかも知れない。




「積み上げて行こう、侑」

「そうだな。……少しでも良いものを」




 侑が、言った。


 ニューヨークの救急病院に運ばれて、背中の傷を縫ってもらった。


 十箇所近く刺されていたが、刃物が小さかったので内臓まで届かなかったらしい。けれど、俺は体が小さいから血液量も少なくて、バシルが止血してくれていなかったら助からなかったかも知れない。


 医師はそんなことを言った。

 なんだか見たことのある顔だな、と思ったら、父の知り合いだった。それを因果と呼ぶのか、コネクションと名付けるべきなのかは分からない。兎に角、俺は色んな人に助けられたらしい。


 その日の内に、航が来た。

 病室の扉を蹴破る勢いで転がり込んで、俺の胸倉を掴んで怒鳴った。弟の猫のような目が釣り上がって、目元が赤くなっていたので、謝ることしか出来なかった。


 機体の中は、極限の状態だった。

 何か一つでも間違えていたら、機体は爆破されて、もしかしたら街に墜落していたかも知れない。その先は無関係の人だったかも知れないし、弟の頭上だったかも知れない。


 入れ違うように、葵くんも来た。

 花を持っていた。しかも、墓前に備えるような白い花だった。洒落にならない嫌味だ。それは葵くんの怒りで、労りだった。


 機体で死んだテロリストは、体内に爆弾を抱えていた。

 脳からは何かの機械が見付かっているが、FBIでも解析は出来ていない。自分の想定していた最悪の事態が杞憂でなかったことに、ぞっとした。


 体の中に爆弾を入れるなんて、正気の沙汰じゃない。いかれてる。頭がおかしい。でも、そいつ等にも家族はいて、過去があって、守りたいものがあった。


 俺はあの時、どうするべきだったんだろう。

 テロリストを説得するべきだったんだろうか。バシルはそうしようとしていた。彼は赤い牙の主導者、アフマド・イルハムの息子だった。そのカードを上手く使えていたら、テロリストも助けられたのかも知れない。


 そんな風に別の未来を夢想するのは、同じ選択を迫られた時にマシな未来を選ぶ為だ。病室で寝ている間に、そういうことにした。感傷や後悔と名付けるよりも、ずっと建設的だと思うから。


 バシルに菓子折を送る為に、侑がカタログを持って来てくれた。電話帳みたいに分厚くて、読み終わる頃には腹が一杯になっていた。別に甘いものは好きではなかったので、選ぶのも面倒になってカタログを床に投げた。開いたページの中から適当に選んで、注文することにした。


 三日間の入院生活は退屈だった。

 本を読んだり、映画を見たり、体が鈍らないようにリハビリをしたりした。動き回っていると看護師や侑が来て、俺を叱った。


 休んでいる間にも世界は回り続ける。置いて行かれる訳にはいかないので、世の中の情報を集めることにした。

 病院の通話エリアに移動して、国際電話を掛ける。大きな窓から光がいっぱいに差し込んで、春の新緑が力強く見える。湊は空いている椅子に座った。


 電話の相手は、リュウだった。

 今の自分よりはずっと忙しいだろう。電話はすぐに繋がらなかったが、その内、向こうから折り返しが掛かって来た。


 リュウはいつも通りだった。

 感情が表に出るタイプではない。テロリストがブレイン・ネットワークインターフェースを使っていたことを話すと、少し嫌なことを教えてくれた。




『ブレイン・ネットワークインターフェースは中東で試験的に軍事導入されています』

「どうしたら、止められる?」




 科学の発展は悪いことではないが、人としての倫理を失くしてはいけない。人間を爆弾にしたり、操り人形にしたり、争いの為の道具にしてしまっては、人類史に名を残して来た偉人の功績を踏み躙ることになる。




『……貴方の得意分野だと思いますが』




 リュウにしては歯切れの悪い口調だった。

 俺の得意分野。それを止める為のカードを、俺はちゃんと持っている。大切なのは、使い方。俺の使い方が正しいのかは分からないけど。




「ありがとう、リュウ」

『いいえ。……僕は、貴方の味方ですよ』




 湊は笑った。

 君がそう言うなら、俺は嘘でも信じるよ。

 通話の切れた携帯電話をポケットに押し込んで、湊は立ち上がった。


 もうすぐ、一年。

 やっと、一年。


 俺の両親が死んで、一年経つ。

 あの頃に比べて、今の自分は成長したのだろうか。マシな未来を選べているのか。ただ、そう思えるように生きていこうと思った。

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