⑻五月の蝿
弟が病室を訪れたのは、昼過ぎだった。
紐で縛った文庫本を持っていて、投げて寄越した。湊が受け止めて紐を解くと、そのどれもが見覚えのあるタイトルだった。実家の書斎にあった、父の遺品だった。
意図は分からないが、退屈を潰せるのは有り難かった。
特に追及はしないでタイトルを眺めていると、宮沢賢治の詩集を見付けた。
永訣の朝という詩を、覚えている。
宮沢賢治には歳の離れた妹がいて、病で亡くなった。その妹の死に衝撃を受けて書かれた詩だったと思う。
あめゆじゅとてちてけんじゃ。
作者にとって、妹は何にも変え難い存在だったんだろう。俺も兄だから、その気持ちは分かる。初めて読んだ時の魂が漂白されて行くような不思議な感動が、今も鮮やかに蘇る。
「……なあ、湊」
パイプ椅子に座った航が、何かを躊躇うみたいに口を開いた。弱音や泣き言を溢さない航が、同情や励ましを嫌う弟が、そんな顔をして何かを話そうとしている。
なるべく平素を装って、湊は顔を上げた。
航は忌々しげに顔を歪めて、臓腑を絞ったような声で、楔を打ち付けるように問い掛けた。
「誰が俺達の両親を殺したんだ?」
誰が。
湊は膝の上に文庫本を置いた。
「……誰も」
「誤魔化すんじゃねぇ!!!!」
航の怒鳴り声が破裂して、部屋の中がびりびりと震えた。
怖くもなかったし、驚きもしなかった。薄く開かれた窓から風が吹き込んで、カーテンレールが微かな音を立てる。湊はそっと窓を閉じた。
航は激しい運動直後みたいな荒い呼吸をしていた。肩は上下し、震えている。眦が赤く染まっていて、泣きそうに見えた。
「バシルの親父は、テロリストだった! 俺達の親を殺した! ……そんで、俺達が、俺達が……!」
それは、ただの結果なんだ。
俺達は復讐の為に手を汚した訳じゃない。
あいつ等は弱かった。俺達の方が強かった。ただ、それだけなんだ。――なんて、こんな弟の顔を見て言える筈無かった。
航の目が赤かった。透明な膜が張って、あ、と思った時には零れ落ちた。航がすぐに袖で拭った。
「あいつは、医者になるんだってさ……! いつか大勢の人を救うんだろうさ。そんで、沢山の人から感謝されて、明るい未来があって、幸せになれるんだ」
「そうかもね。そうだったら、良いね」
「ふざけんな!! あいつは、親父がテロリストだってことも知らないんだぞ!!」
もう、何を言っても駄目そうだった。
癇癪を起こしたみたいに、航が叫ぶ。今は殴り掛かられても反撃出来ない。弟が加害者になってしまう。
「どうしてあいつは笑っていて……、俺達はこんな思いをしなきゃならないんだ? お前は学生時代すら捨てたのに、どうしてあいつには明るい未来が残されていて、……俺達は堪えなきゃいけないんだ?」
航の葛藤というものを、湊は初めて知った。
俺は自分で道を選んだし、後悔もしていない。だから、振り返らなかった。その後ろで弟が何を思っていたのかなんて、考えもしなかった。
「俺達の苦しみの代償は、一体誰が支払ってくれるんだ?」
鳩尾を殴られたようだった。
仕方ないんだ。そういうものなんだ。意味が無いんだよ。そんなことを言えたら、初めからこんな思いはしていない。
何も言い返せなかった。こんなことは初めてだった。
湊は黙って堪えるしかなかったし、航が八つ当たり出来る相手も自分しかいなかった。
その時、扉が音もなく開いた。
「じゃあ、俺がそいつを殺してやろうか?」
侑は、影のように静かに立っていた。
「そうしたら、お前等は笑えるようになるのか?」
航が舌を打った。
誰彼構わず八つ当たり出来る程、子供じゃなくなった。それは、損失なのか。航は目元を拭って、逃げ出すみたいに病室を出て行った。湊も侑も追い掛けなかった。追い掛けたって、何も言葉を掛けてやれないと分かっていた。
こんな時、いつも思う。
憎しみの炎は、いつ消えるのだろう。
心に負った傷は、どうしたら癒えるのか。
侑は半開きの扉を閉じた。
「……物分かりが良いのも、頑固なのも、考えものだな」
「あれは航の長所だよ」
「じゃあ、守ってやれよ」
侑が言った。
俺よりも、航の方が苦しかったんだ。
何処で、何を間違えたんだ?
頭から冷水を浴びて目が覚めたような気がした。長い夢を見ていたような、現実に頬を叩かれたかのような感覚だった。
「……俺、何を間違えたんだ?」
「いや……」
何も間違えてないよ、と侑が言った。
「間違えてはいないが、もう少し狡い生き方も出来るんじゃないかってことさ」
「……そうだね」
きっと、そうなんだろう。
あの時に弟に何も言い返せなかったことが、全ての答えだった。
12.羅生門
⑻五月の蝿
菓子折を送った翌日に、バシルが病室を訪れた。
頬に湿布を貼っていた。機内でテロリストに殴られたからだ。だけど、バシルは笑っていた。
「名誉の勲章さ。君の傷もね」
湊には、その感覚が理解出来なかった。傷は未熟な証拠だと思っていたから、そんな風に受け止められるバシルが別の生き物に見えた。自分と彼は何が違ったのか。そして、どちらがマシなのか。
俺達の苦しみの代償は、一体誰が支払ってくれるんだ?
航の叫びが頭の中で反響する。誰を責めたって、恨んだって何も変わらない。――変わらないなら、誰を憎んでも良くないか?
自分の価値観や信念が、根本から折れてしまいそうだった。これまで培って来た全てのものがガラクタで、無価値で、無意味に思えた。少しでもマシな未来を選んだつもりなのに、自分の弟一人救えない。
「君の言葉は、力強かった。……本当は、刺された人もテロリストも、みんな助けられたら良かったけど」
そう言って、バシルは目を伏せる。湊には理解出来なかった。
なんで、そんなことが言えるんだ?
お前の父親がやらかしたせいで、こんなことになったんだぞ。
「争いは何も生まない。テロリズムなんて許してはいけない。……みんな、話し合うべきだった」
――そんなことが、出来たなら!
顳顬の辺りが痙攣した。じゃあ、俺や侑の行動は間違っていたって言うのか。
窓辺に侑が寄り掛かっていて、何かを堪えるみたいに目を細めている。湊は深呼吸をした。
「それってさ、社会的立場と肩書きがあった場合の話だよね?」
湊が問い掛けると、バシルが目を瞬いた。
反論されると思っていなかったのか?
俺が共感するとでも?
俺は正義の味方でもないし、裁判官でもない。テロで両親を亡くした可哀想な子供なのか、それとも、正義感溢れる勇敢な若者?
くだらな過ぎて、笑えて来る。
「話し合いが大切なことも、暴力が何も生まないことも知ってるよ。学校の道徳で習ったからね。……そんなことは、みんな初めから知ってるんだ」
バシルは何も言わなかった。黙って
通り過ぎていくだけの他人に、どうして説教されなきゃならないのか。話し合いで解決したなら、俺の両親は死ななかった。そうしたら、新だって助けられた。
あの時、あの場所でテロさえ起こらなければ!!
「俺の両親は他人の戦争で死んだ。話し合う余地なんて無かった。話し合いで何でも解決出来ると思ったら大間違いさ」
俺は他人に怒れる人間だったんだな、と自分で驚いた。
そういう感性がまだ残っていたらしい。
「……怒らせてしまったかな」
バシルが申し訳なさそうに眉を下げる。
……こいつ、何も分かってない!!
湊はベッドのシーツを握り締めた。
どうしてそんなに他人事なんだ。お前がちゃんと自分の立場を分かっていたら、こんなことになってなかった!
いや、止めよう。無意味だ。
こいつはその美しい正論と綺麗事で生きて行くんだ。無関心と無知を理由にして、平和で安全な世界で幸せになれるんだろう。
バシルの手はいつか大勢の人を救うだろう。
――だけど、それは俺じゃない。
湊はシーツを握り込んだまま、微笑んだ。
「俺は怒ってないよ。ただ、そんな誰でも知ってるような正論と綺麗事を投げ掛けられるこの状況が、我慢ならないだけさ」
もう帰って欲しかった。
こいつの顔を見ると苛々する。それが怨嗟なのか嫉妬なのかも分からない。湊は窓の向こうに目を向けた。怒っている自分が他人に思えた。
バシルが言った。
「……君のご両親は、立派だった」
頭の中が真っ赤に染まって、唇が怒りで震えた。
お前にだけは、語られたくないんだよ!
バシルの言葉一つ一つが、湊の地雷を踏み抜いて行く。
此処が戦場だったら、バシルはきっと骨も残らない。俺は埋葬しない。お前だったものを踏み付けて、口笛を吹きながら歩いて行く。
もう顔も見たくないし、話したくない。俺は誰のことも恨んでいないが、これ以上、バシルの話を聞いていると彼を嫌いになりそうだった。
窓辺で、侑が溜息を吐いた。
大きな掌が頭を撫でて、離れて行く。
お前、そういう怒り方も出来たんだな。
そんなことを言って、バシルに向き合った。
「お前の親父、テロリストだったぞ」
何でもないことみたいに、侑が言った。
「お前の親父のせいで、こいつ等の両親は死んだんだぞ」
頭の中が真っ白だった。
激しい怒りで耳鳴りがした。誰の何に腹を立てているのか自分でも分からない。謝るべきなんだろうか、弁解するべきなんだろうか。そうして取り繕うことに何の意味があるんだろうか。
「お前だけは、こいつ等のことを語っちゃいけねぇよ」
バシルの沈黙が何なのか分からなかった。
衝撃を受けているのか、言葉を探しているのか。
会話を放棄した湊に代わり、侑が咎めるように言った。
「話し合いで何でも解決出来ていたら、この世に武器も戦争も無かっただろうさ」
「だからと言って、その選択肢を捨ててはいけない」
息を吹き返したみたいに、バシルが言った。
湊は貧血を起こしたみたいに気が遠くなった。
パイプ椅子が床を滑る音がした。
バシルが近付く気配がして、湊は咄嗟に腰を浮かせた。触れられた場所から腐敗してしまうような生理的な嫌悪感がした。侑が寸前で押さえ付けたが、バシルが泣きそうな声で言った。
「父のやったことなら、俺が代わりに頭を下げる」
「君の下げた頭に、どれだけの価値があるの?」
それで俺の両親は生き返るのか。
湊は、自分の醜さに吐き気がした。バシルの言葉を聞いていると、自分が悍しい怪物のように思えた。
君の父親が、俺の両親を死なせた。
でも、俺が君の父親を殺したんだ。
そんなこと、言えたら。
「謝罪なんかいらない。俺も謝らない。何も後悔していない」
正論も綺麗事も、どんな言葉を並べたって死者は甦らないし、罪は消えない。俺も、こいつも。
「君とは分かり合える気がしない。もう帰ってくれ……」
バシルの謝罪を受け入れない俺が、まるで狭量な男みたいじゃないか。
なあ、バシル・イルハム。
俺には君の筋書きが読めるよ。
君は、お互い様だと許し合って、平和の為に手を取る未来を思い描いていたんだろう?
侑がバシルを押さえ付けたまま、引き摺るようにして扉の向こうまで連れて行く。バシルがますます躍起になって叫んだ。
「対話を捨てて、君は閉じ籠っているだけか?! そんなことに何の意味があるんだ!!」
世界中から音が消えたみたいだった。
バシルの紫色の虹彩が熱を帯びて爛々と光る。湊には、まるで凶器を振り上げる敵に見えた。
その正論がどれだけ人を傷付け、追い詰めるのか。
身勝手な理屈を押し付けて、まるで自分が正解みたいに。その無神経な善意にどれ程の毒が込められているのか、――こいつは何も分っちゃいない。
もう、可笑しくて。
可笑しくて、可笑しくて、くだらなくて。
湊は腹を抱えて笑った。自嘲とも嘲笑とも付かない笑い声が病室に反響し、時雨のように降り注ぐ。バシルと侑が動きを止め、湊だけが息も絶え絶えに笑っていた。
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