⑼悪の矜恃

 こんなに笑ったのは、久しぶりだった。

 笑い過ぎて腹が痛かった。湊は目の端に滲んだ涙を拭った。




「君は何か勘違いをしているね?」




 バシルの紫色の虹彩に怯えの色が浮かんだ。

 散々、他人を正論で貶めて、反論されると思ってもいなかったのか。敵討ちという大義名分でナイフを振り上げられるかも知れないと思い至らないことが、湊は心底不思議だった。


 湊は微笑み、首を傾けた。




「俺が可哀想な被害者に見えるのかい? それとも、憐れな弱者かい?」

「……」

「俺達の尽くした最善を、何もしなかったお前が語るなよ」




 扉の前で、バシルが歯噛みする。

 こいつには、本当に俺が救済すべき弱者に見えていたんだ。正論と綺麗事で助けられると心から信じている。憐れで滑稽な世間知らず。


 バシルの薄っぺらな綺麗事を聞いていると、酷い疲労感を覚えた。どうやら、俺は喜劇を見ているらしい。会話する価値があるのか如何かも分からないが、こいつは話し合いが大切だと言い張っている。


 バシルが顔を歪めた。




「……君は、間違ってる……」




 放心状態で呟いたバシルに、湊は微笑み、堂々と答えた。




「それがどうした」




 お前は壁と喋ってろ、くらいは言ってやりたかったが、その被害者面が腹立たしいので呑み込んだ。


 真実には階層がある。俺とバシルの生きる世界は違う。彼が知る必要は無い。俺は自分で幸せになるし、こいつは何処かで好きに生きれば良い。




「君は医学生だったね。自己犠牲も博愛精神も素晴らしいことだ。君の手はいつか誰かを救うだろう。……だけど、それは俺じゃない」




 馬鹿なバシル・イルハム。

 愚かな罪人の息子。いつか、己の正論が首を絞めることになるだろう。俺はそれを眺めながら、スキップして鼻歌を口ずさむよ。




「良いことを教えてあげるよ、バシル・イルハム。困難の中にある人間が、必ずしも助けを求めているとは限らないんだぜ?」




 さようなら、バシル・イルハム。

 君が主演の三文芝居で、俺は名前のない通行人。遠くから眺めて、通り過ぎて行くだけの他人なんだ。だけど、君が血反吐を吐いて蹲るその時には、石ころを投げてあげる。


 君がいつか羅生門に立つ時には、俺がその正論を投げ掛けてあげるからね。善意という名の刃が、どれだけ人を傷付けるのか身を以て知るがいい。




「さあ、お客様のお帰りだ」




 見送りはいらないね。

 湊が言うと、侑が静かに扉を閉じた。












 12.羅生門

 ⑼悪の矜恃











「無神経な善意が、一番残酷だな」




 煙草吸って来る、と侑が言った。


 侑は珍しく怒っているみたいだった。乱暴に扉を開けた癖に、出て行く時は静かに閉めた。そういうところが優しいと思うし、大人だと感じる。


 こんこんと、ノックの音が転がった。

 侑にしては早いな、と思った。此方の返事も聞かず、扉が勝手に開く。その瞬間、何処かで嗅いだ甘い匂いがした。




「元気そうじゃないか、ヒーローの息子」




 霞んだ碧眼が不気味に揺れていた。

 飛行機で会った以来だった。ベッドから身を起こすと、背中がちくちくと痛んだ。




「翡翠さん?」




 まさか、本名じゃないだろう。

 翡翠は黙って椅子に座った。別に怖くなかった。この人は池を眺めている子供と同じで、時々、気紛れに石を投げ込む。水面が泡立てば観察して、鯉が顔を出せば釣ろうとする。それだけの人だ。


 世の中に現れるトリックスター。

 法と秩序に対するカウンター。

 それは、自然現象と同じだ。抗うのでもなく、押さえ付けるのでもなく、ただ通り過ぎるのを待てば良い。




「素晴らしい悪役になったじゃないか」




 舞台演者みたいに、翡翠が言った。

 不思議な感覚がする。嘘を吐いていないのに、何処にも真実が無い。飛行機で会った時は気味が悪かったが、別の生き物だと思えば面白い。




「お前の親父はヒーローで、正義の味方だった」

「俺にとっては、弱くて優しい父親だったよ」




 変な歌を作ったり、子供部屋にテントを張って家出したりした。親父も理解不能だったから、もしかしたら目の前のこの男と同類なのかも知れない。




「翡翠さん、家族は?」

「いない」

「仕事は?」

「なんだ、お前。弟とは随分と違うな」




 生きて来た世界が違うので、航とは感覚が違う。

 この人は殺人鬼だ。だけど、俺も侑もそうだった。自分と何が違うのか定義出来ない。


 翡翠は背凭れに体を預けて、呆れたように肩を落とした。

 人間味を感じるのは、俺だけなんだろうか。侑や航は警戒していたけれど、あんまり怖くない。


 話してみたい。聞いてみたい。

 この人の行動起因を、イデオロギーを知りたいと思う。多分それは、未知の生物に対する知的好奇心だった。




「翡翠さんは、正義って何だと思う?」




 翡翠は目を瞬いた。




「それを、俺に訊くのか」

「誰に訊いたって良いだろ」




 この世は相応に汚くて、設計ミスだらけの欠陥品だ。

 拝金主義の犬が彷徨う掃き溜め、利己主義の豚の餌場。強者が支配し、弱者が生まれ、多数派は少数派を弾圧し、革命を起こしては屍の山を築く。


 だけど、時々、ダイヤモンドみたいに綺麗なものがある。

 俺はそういうものを見て生きていきたいし、手に入れられなくても遠くから眺めていれば充分だ。


 翡翠は少し考えるような素振りをして、悪戯っぽく笑った。




「水だよ」




 内緒話を打ち明けるように、翡翠がそっと言った。

 文学的な人だな、と思った。ついでに少しロマンチストで、気障だ。




「目に見えるのに、触れられない。溜めておけば、淀んで腐る。そういうものさ」




 物事を厳密に定義してしまうと、他の価値観を受け入れる余裕が無くなる。相容れないものは通り過ぎてしまえば良いんだろう。それでも分り合いたいならぶつかるしかない。


 翡翠という人は、自分よりも高いところから世界を見ている。倫理観が希薄で、日常的に嘘を吐く。他人への共感が欠如しており、表面上は魅力的で話し上手。


 碧眼が覗き込み、山の頂に挑むかのように問い掛ける。




「お前は孤高であるべきだった。特定の関係性を築かず、枠組みを捨て、ただ一人で陶冶とうやするべきだった。そう思わないか?」




 湊は即答した。




「思わない」




 一人だったら、とっくに折れていた。

 俺は、沢山の生命の上に生きている。


 翡翠は片眉を跳ねて、暫し沈黙した。

 そして、口を開いた時には楽しそうに笑っていた。




「頑張れよ、蜂谷湊。多数派の正義になんか、負けてやるな」




 翡翠の手が伸びて、頭を撫でた。

 大きな掌だった。翡翠は手を離すと、何かを閃いたみたいに手を打った。




「良いことを教えてやるよ。お前はカードを持っている。その使い方を知るべきだ」

「それ、よく言われるんだ。何のことなんだ」




 素直に訊ねると、翡翠は意味深に笑った。




「ブレイン・ネットワークインターフェースは、大掛かりな手術が必要だ。短期間で数を増やすことは出来ない」

「まあ、そうだろうね。中東の紛争地で軍事導入されてるらしいけど、試験運用だって」

「そんなことが出来る奴は、一人しかいない」




 熱砂の国の大富豪、ラフィティ家。

 当主のカミール・ラフィティは軍事に通じるフィクサーだ。彼等が欲しいのは、侑のような強化人間で、俺の持ってる薬のデータ。


 翡翠の目が妖しく光った。




「何処から情報が漏れたと思う?」




 何処から?

 情報管理は徹底しているつもりだ。監視カメラや盗聴器はいつも確かめているし、侑くらいしか情報共有していない。

 ――ああ、でも、エトワスノイエスは襲撃されて、吾妻さんは暗殺され掛けた。


 なんでこんなことになったんだ?

 ふと、思った。俺は情報を漏らしていないし、侑の体質だって知られてない。じゃあ、どうして中東の大富豪に繋がったんだ?


 体の中に虫がいるような、不気味な感覚だった。




「俺、誰かの掌で踊らされてる?」




 そんな気がした。

 因果は巡り、バタフライ・エフェクトは観測出来ない。でも、余りにも予定調和的に転落してる。――蟻地獄みたいに。


 翡翠はコミカルに肩を竦めた。




「俺は答え合わせはしない」




 湊は頷いた。

 それを解き明かすのは、俺の生き甲斐の一つだ。




「またな、湊」

「……次は事前に連絡をして欲しい。侑が嫌がりそうだ」




 翡翠が来たことも、気付くだろう。

 無用な心配をさせるのは嫌だ。


 翡翠がからからと笑う。表情豊かなのに、無色透明だった。季節が移り変わるように、その起伏に意味は無い。翡翠は立ち上がって、扉へと歩き出した。足音も気配も無い。歩き方や仕草の一つ一つが精錬されて、まるで映画を見ているみたいだった。


 無人の病室には、微かな甘い匂いだけが残っている。


 次に扉が開いた時、侑が鬼みたいな顔をしていた。今にも銃器を取り出しそうな剣呑な空気を出して、迫力のある舌打ちをした。


 扉の外や窓の向こうを何度も確認してから、侑が低く問い掛ける。




「誰が来た」

「モリアーティ教授」

「誰だ?」




 侑が眉を寄せる。

 湊は軽く笑った。




「さっきは、ありがとう。俺の代わりに言い返してくれて」

「別に」

「もう大丈夫。あんな正論に負けて堪るか」




 こんなところで折れるもんか。

 何度でも自分に言い聞かせる。格好付けて、取り繕って、言い訳ばかりだ。翡翠との会話が心地良かったのは、立場も肩書きも要らなかったから。


 生身の自分で勝負出来ないから、いつも何かに隠れている。そんな自分が嫌いだし、変えたいと思う。それがどうしたと笑っていられなきゃ、この世界と闘えない。


 いつかなんて、永遠に来ない。

 今がその時だ。




「決着を付けるぞ、侑」




 侑が首を捻って、返事をした。


 俺に配られたカードは何だ。失くしたカードを惜しむより、今あるもので勝負するんだ。天運だけで勝てるなら、世の中はもっとシンプルに出来ている。


 大丈夫、ちゃんと追い込んでる。

 湊はノートパソコンを引っ張り出した。


 ベッドから抜け出して、そのまま通話エリアへ向かった。利用者も疎らな空間で、空席の端に座り込む。


 携帯電話の電源を入れたら、翔太からメッセージが届いていた。立花と喧嘩したらしい。寛容な翔太と喧嘩になるのは、立花くらいだ。


 しかし、喧嘩になるのは悪いことじゃない。

 残念ながら力にはなれそうにないので、励ましの言葉を送っておいた。


 リュウから写真が届いている。

 俺のあげた水墨画が、立派な額縁に入れられていた。青龍会の問題も或る程度、落ち着いたようだった。張さんも元気そうだった。


 パソコンには、吾妻さんから経過報告が来ている。俺達の作った薬は問題無く効果を発揮して、副作用も想定内。エトワスノイエスの日本支部は建て直されることになっている。


 通話エリアの隅に据え付けられたテレビに、日本のヒットチャートが映し出される。飛梅さんの透明で力強い歌声が、鐘の音のように響き渡る。エンジェル・リード。俺達の祈り。


 インターネットのトップページに、花畑の写真があった。開いてみたら油絵だった。松雪さんの写実的な絵画は海外でも評価が高く、注目されている。


 南方さんのいる第三世界の学校に、大手企業のスポンサーが付いた。松雪さんや飛梅さんのお蔭で、エンジェル・リードの業績が上がったからだ。井戸を掘るらしい。水が出たら良いな。


 霖雨くんから、メッセージが来た。

 今度、飯を食おう。うちの子供の相手をしてくれ。

 写真が添付されていた。桜丘さんが纏わり付く子供の相手をしている。子供もいたんだ。一家の大黒柱だったんだな、と思うと感動した。


 日本のイジメ裁判は反響が大きい。だけど、加害者はみんな生きてる。更生出来るかは分からないし、興味も無い。ただ、同じことが繰り返されないように願うしかない。


 ――なんだ、ちゃんとやれてるじゃないか。


 モノクロだった世界が鮮やかに彩られて、酸素が送り込まれたかのように、遠い昔に諦めたものが帰って来たみたいに。


 俺は世界を相手にポーカーをする。ロイヤルストレートフラッシュを出すのは、天文学的確率である。だが、可能性はゼロじゃない。


 俺はきっと世間一般で言う悪役で、退治されるべき怪物なんだろう。だから時々、善意に駆られた他人が干渉しようとする。でも、俺は正義も悪も信じていない。


 何かが胸を突き上げて、声を上げて叫び出したいのを我慢した。代わりに拳を握る。




「頑張って来て、良かったな」




 侑が拳を向けた。

 湊はそれに応えた。


 エンジェル・リードは社会の未来に貢献する。

 努力には相応の対価を。――俺達の理念。


 侑がいたからなんだ。

 どれもこれも、侑がいてくれたからなんだよ。俺が一人だったら、何も成し遂げられなくて、何処かで野垂れ死ぬか、雑巾みたいに使い捨てられていたんだ。


 侑がいなかったら、凡ゆる計画が実行されることなく消え去って、この大きな波を観測することも出来なかったんだ。




「ボーナスを出すよ」




 湊は鼻を啜った。

 何故だか、目が熱い。


 口座を作っておくべきだった。自動的に定額を振り込むようにしよう。侑が好きに使えば良い。一番の功労者を労わらないなんて、俺の美学に反する。


 アメリカの銀行にアクセスしようとしたら、侑が朗々と言った。




「要らん。俺は報酬は貰ってる」




 エメラルドの瞳が満天の星みたいに光ってみえた。

 侑は蕩けるような笑顔を浮かべていた。




「お前の向ける信頼が、俺の報酬なんだよ」




 湊は笑った。


 欲の無い男だ。

 しかし、そういうところがサムライだと思う。


 侑は機嫌良さそうに鼻歌を歌っていた。柔らかなテナーの声が波紋のように広がって、まるで海にいるみたいだった。


 どうして、侑はこんなに強いんだろう。肉体的にも、精神的にも勝てる未来が全く想像出来ない。




「侑は、スペードのエースだね」




 侑は自嘲するみたいに喉を鳴らした。




「じゃあ、お前はジョーカーだな。どんな役を作る時にも、活躍するよ」




 過大評価だとは思わなかった。

 その評価が、俺への報酬だと知っているから。

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