⑽フーダニット
光に透ける薄刃が、天井灯に向かって旋回する。
空気を掻き混ぜて、空に飛び立つ。
手作りの竹トンボが浮き上がり、ゆっくりと落ちて行く。湊はベッドから立って、それを拾った。
少しだけ長く飛ばせるようになった。飛ばす前の角度にコツがあるらしい。何度か一人で練習していたら、扉が開いた。
お祭りみたいな賑やかさで、ムラトが朗らかに笑っていた。
「よう、湊!」
熱砂の国は、無神経な人間が多いのかも知れない。それを陽気と捉えられる程、自分に余裕が無かった。
湊は竹トンボをベッドサイドに置いた。
「部屋に入る前はノックしてくれ」
「扉の前で侑に言ったぞ!」
「マナーの話なんだ」
「間怠っこしいな!」
ムラトが満面の笑みで言ったので、湊も笑った。
不思議と腹は立たなかった。ムラトの後ろにはいつものようにアーティラが付き従っている。侑がドアマンみたいに扉を閉じて、壁に寄り掛かった。
促してもいないのに、ムラトは勝手に椅子に座った。そのままよく分からない話を延々として、一人で一喜一憂して、最後には笑った。湊には、その殆どが嘘だと分かった。だが、ムラトの一人芝居が無ければ、笑えなかったと思った。
「バシルに会ったのか?」
ムラトが言った。
彼等は同郷の友人で、いつかムラトが語った親友とは、バシルのことらしかった。別に何も思わなかった。因果は巡る。そういうこともあるだろう。
「良い奴だったろ?」
「そうかもね」
お互いに何も知らない他人だったら、仲良くなれたかもね。
湊は卑屈に思った。ムラトは何かを見定めるみたいに見詰めたが、追及しなかった。
ローマングラスのような瞳を前にして、以前、リュウに言われたことを思い出す。どうして自分の手を汚すのか、と。
もっと狡い生き方も出来ると、侑が言った。そうだと思う。俺はその方法を知っている。
「ねぇ、ムラト」
湊はベッドに腰掛けた。
春の風が窓から吹き込んで、レースのカーテンが揺れる。ムラトと初めて会ったのは、冬だった。パスファインダーを追って、燃え盛る遊覧船から逃げ出して、中東の過激派と遣り合って、それから……。
殺し屋集団に襲われたこともあった。
ハヤブサを敵に回したこともあった。
たった、半年か。
それだけの付き合い。それなのに、随分と。
湊は完璧な笑顔を貼り付けて、答え合わせをするように問い掛けた。
「筋書き通りになったかい?」
瞬き程の刹那、ムラトが沈黙した。
そして、ムラトは子供のように笑った。
「お蔭様でな!」
湊は鼻で笑った。
ムラトは椅子の上で脚を組み、水底を覗くように問い掛けた。
「いつ気付いた?」
「モリアーティ教授がヒントをくれた」
翡翠が来なかったら、俺はずっとこいつの掌の上だった。
俺は自分の目的の為にパスファインダーを追っているつもりだったし、アフマドを始末した。だから、その全てが誰かの策略だっただなんて思いもしなかった。
ムラトは肩を竦めた。
「酷いな、ブラフだったのか」
嘘だ。ムラトの言葉に真実なんて一欠片も無い。
こいつは俺達のことなんて駒としか思ってない。
ムラトは初めから、滑稽な一人芝居をずっと続けている。
「俺は商人だ。売りたい品があれば、買いたい奴等を作る」
「最後は、君が総取りかい?」
「お前にもちゃんと利益はあっただろ?」
ムラトは悪びれもせずに問い返した。
壁に寄り掛かっていた侑が身を起こし、顔を歪めた。
「どういうことだ?」
「ムラトはね、カミール・ラフィティにエンジェル・リードを売り込んだんだ。俺達がパスファインダーを追って、ブレイン・ネットワークインターフェースを潰す方法を見付け出すまで、彼の掌の上だった」
彼の目的は変わってないし、嘘も吐いていない。
もしかすると、俺達が来栖凪沙という画家を見付け出したところから、彼の策略だったのかも知れない。
「俺達のことを利用したんだろ?」
「人聞きが悪いぜ。そうしてくれたら良いなって思ってただけさ。お前にどの程度の嘘が見抜けるのかも知りたかったしな!」
「最悪だな」
湊は吐き捨てた。
ムラトは笑っている。まるで、硝子越しに話をしているみたいだった。
「お前は頼んでも言うことを聞いてくれそうになかったから、やらざるを得ない状況を提供しただけさ。良い経験になったぜ!」
腹が立たないのは、何故なのか。
湊にも分からなかった。それが彼の人徳なのかも知れない。
カミール・ラフィティが侑の体質に関心を持ったことも、エトワスノイエスが襲撃されたことも、俺達を此処まで導く為の餌だった。
全ては父親――カミール・ラフィティを始末する為の布石。
嘘は真実に紛れさせる。
俺の常套手段を、そっくりそのままやり返されたんだ。
忌々しいけれど、確かに利益もあった。
湊は居住まいを正した。
目の前にポーカーテーブルが見えるような気がした。
向こうは絵札で揃えたフォーカード。天運もコネクションも、その血筋も知略も、全てが黄金のカードである。対して此方はゴミ山から集めたクズカードばかりで、勝負の形にすらならない。
だけど、俺はその使い方を知っている。
「俺も、君から学んだことがある」
サイドチェストに手を入れて、掌程のゴムの塊を取り出した。海外の黄色いキャラクターが、馬鹿みたいに敬礼している。中身のUSBメモリに入ったデータは、俺がムラトに勝てる唯一の切り札だった。
「獅子身中の虫は、訓練で飼い慣らせる」
USBメモリを翳すと、ムラトがうっとりと微笑んだ。
中に入っているプログラムは、俺が世界と闘う為のカードの一つだった。
そのプログラムは遺伝的アルゴリズムを搭載し、驚異的な速度で自己増殖と成長を続ける。ウィザード級のハッカーが国境を越えて手を組み、コンピュータの限界に挑んだ叡智の結晶。
それはインターネットと言う大海原を侵略する悪性の結実。倫理と秩序を冒涜する智略の暴走。子供の火遊びとは到底呼び得ない悪辣なカウンタートラップ。
その名は、――お陀仏くん。
パスファインダーとフィクサーは電波で情報をやり取りしている。ブレイン・ネットワークインターフェースに繋げば、お陀仏くんは関連するデータを全て破壊し尽くすだろう。
ムラトは、凡ゆる方法で俺を飼い慣らそうとした。手懐けられないと分かれば、脅し付けて、他の選択肢を隠した。邪魔なものは排除して、必要な駒は抱き込んで。――だから、俺もそうする。
「このプログラムは、関連データの全てを破壊する。それが人間の脳であってもね」
「ああ! 頼んだぜ、湊!」
「何言ってるんだ?」
湊は笑った。
此処まで来て、俺がやると思うのか。
「お前がやるんだよ、ムラト・ラフィティ!」
今度はお前が泥を被る番だ。
俺は見ている。お前が英雄という名の泥を被る様を、呑気な被害者のふりをして、火の粉の降り掛からない対岸から眺めているんだ。
「それが成功すれば、パスファインダーも、君の父親も廃人になるだろう」
「俺に父親殺しの罪を背負えって?」
「俺はどちらでも構わないよ。好きな方を選ぶと良い」
USBメモリを掌に入れて、湊は立ち上がった。
商人が波を作るなら、それを乗りこなすのが勝負師だ。俺は世界と闘えるカードが欲しい。熱砂の国のクーデターが成功したら、ラフィティ家と言う強力なカードが手に入る。
カミール・ラフィティが消え、フィクサーの席が一つ空き、力を持った誰かが座る。それはムラトかも知れないし、俺かも知れない。
まあ、そんなことはどうでも良いことだ。
「調子に乗るな!」
アーティラが叫んだ、その瞬間。
光を吸い込む闇色の刃が、その喉元を狙った。薄皮一枚を削いで、侑が冷たく見下ろしている。
「……散々、踊らせてくれたな。礼は弾むぜ」
地を這うような低い声で、侑が語り掛ける。
恫喝じゃない。これは侑の決意で、俺への信頼だ。
「今度は、俺達の掌で踊ると良い」
天神侑――。
俺に配られたスペードのエース。
新が引き寄せた最強のカード。
輝くようなエメラルドの瞳に殺気を乗せて、侑は柔和に微笑んでいる。
これだけお膳立てされて、庇われて、黙って嬲られていてはこの世界で生きていけない。湊は背中で拳を握った。
「父親殺しの次は、俺の犬だ。それを選ばないなら、一生砂漠で彷徨ってろ!」
此処がお前の羅生門だ。
中指を突き付けて、湊は笑った。
「どうぞ、お好きな地獄を」
挑発したつもりだったのに、ムラトは明るく笑っている。
いつか、吾妻さんが言っていた。
良心の呵責や罪悪感なんて言葉は、ナンセンスだと。彼等は自然現象と同じで、俺が乗りこなすだけの波なんだ。
楽しかったよ、ムラト。
俺は海に怒ったり、八つ当たりしたりしない。
そう、ムラト・ラフィティもただの波の一つだった。
12.羅生門
⑽フーダニット
「お前は、本当にタフだな……」
ムラト達の去った病室で、侑が呆れたみたいに言った。
昼下がりの休日、病院の中庭から子供の声がする。春の新緑が芽吹き、暖かな日差しに照らされて、何処かで誰かが泣いている。
湊は竹トンボを飛ばした。
空気を切り裂いて一気に飛翔して、ゆっくりと落ちて行く。滞空時間を伸ばすにはコツがある。どんなものも使い方が大切だ。
「そう見えていたら、良いな」
この世は巨大なゲーム盤。
怖気付いた奴から負けていく。
コールじゃ勝てない。弱味も隙も見せてはならない。
だけど、別に人間を辞めた訳ではないので、ゲームの外では息抜きする。
荷物を纏めて、退院の準備を済ませる。背中は痛かったが、鎮痛剤は呑まない。きっとそれは、俺が生きている証拠だから。
「航に会いに行こう」
「また喧嘩になるぞ」
「それが俺達のコミュニケーションなんだよ」
湊が言うと、侑が笑った。
二人で病院を出たら見覚えのある青年が立っていた。
バシル・イルハムは所在無さげに木陰に寄り添っていた。まるで叱られた飼い犬みたいだ。
もう少し早くムラトとバシルの繋がりに気付いていればな、と溜息が出る。そうしたら、選べる選択肢もあっただろう。
「菓子折が届いたから」
バシルはそう言って、黙った。
すっかり忘れていた。
「ありがとう」
言葉を選ぶように、バシルが言った。
俺も酷い態度を取ったけれど、彼の綺麗事と正論も中々の切れ味だった。謝るつもりは無い。
「どういたしまして?」
湊が微笑むと、バシルは安心したみたいに肩を落とした。
バシルが何処でどうなろうと知ったことではないが、彼は航の友達だ。どんな相手にも敬意を払えるのが俺の長所らしいので、大事にしようと思う。
「今度、うちに遊びに来ると良い。美味いコーヒーを用意する」
「……」
「コーヒーは嫌いだった?」
それなら、ハーブティーはどうかな。
それも嫌なら、バシルには水を出す。
バシルは途方に暮れた迷子みたいな心細い顔で、何かを躊躇った。
こいつの正論、嫌いなんだよな。
そう思いつつ、先を促した。バシルはまるで犯罪者を前にしたみたいに、おずおずと問い掛けた。
「……復讐は、考えなかったのかい」
湊はせせら笑った。
相変わらず、寒気がする程の理想論者だ。
「俺は、過去を生きていない」
「……」
「医者になるんだろう? 過去ばかり見ていたら、救えるものも救えないぜ」
逆境も向かい風も、中指立てて笑ってやる。
湊が言えば、侑も笑った。俺達は、それだけで良かった。
「しっかり生きろよ、バシル・イルハム。君を戦地から遠去けた父の想いを、無駄にしてやるな」
エンジェル・リードは社会の未来に投資する。
努力には相応の報酬を。――例え、それが敵であっても。
「またね」
次に会う時は、もっと深い地獄の底で。
侑は駐輪場に向かって、もう歩き出している。几帳面に駐車したバイクを器用に引っ張り出して、エンジンが高らかに咆吼した。
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